仔狐方士と黒の国

第二章 黒の国の姫

 珊瑚姫と男の子は穴のあくほど見つめ合っています。
 やがて、姫が低い声で言いました。
「おまえは何者だ。……妖魔か?」
「おらは妖魔じゃが、怖がらずともよい」
 このように可愛らしい妖魔が怖いわけはありませんが、彼の自尊心を傷つけないよう、姫は黙ってうなずきました。
 妖魔の子供はとことこと珊瑚に近づき、彼女の隣に腰を下ろしました。
「おらはおぬしを知っておるぞ」
「え?」
「遠い異国の姫じゃろう?」
 どう返事をしてよいものか、珊瑚は少し躊躇います。
「確かに、あたしは異国人で父上は国王だけど、どうしてそれがおまえに解るの?」
「それは王子と姫の美しさ比べをおらが見ていて……って、いや、その」
 こほん、と彼は咳払いをひとつ。
「ちょっと事情があってな。おらは狐の妖魔の七宝じゃ。おぬしの名は?」
「珊瑚」
 珊瑚がパンを勧めると、七宝は礼を言い、二人は一緒に食事を始めました。
「ところで、珊瑚は方士の弥勒の連れなのか? 夜中、この辺りから、弥勒が猫の妖魔に乗って鳥を追っていくのを見かけたが」
 珊瑚は愕然と眼を見張りました。
「あんた、方士さまのことを知ってるの? それより、鳥って? 方士さまはどこへ行ったの?」
 パンを取り落としかけ、七宝の肩を掴む珊瑚の顔は真剣で、思わず手に力が入ります。
「珊瑚、痛い」
「あ、ごめん」
 七宝は水袋に口をつけて水を飲み、ほうっと息をついてから、珊瑚のほうを見遣りました。
「どこへ行ったかなんて知らん。夜空を駆けていったのを見ただけじゃからな」
「……そう」
 落胆の色を隠せない珊瑚が気の毒になった幼い妖魔は、話題を変えようと口を開きました。
「で、おぬしと弥勒はどういう関係なんじゃ?」
 仔狐は別に他意はなく訊いたのですが、珊瑚のほうは顔を赫くしてひどく狼狽えてしまいました。
 気持ちはすでに夫婦でも、形式上はまだ他人です。
「乳兄妹……なんだ。兄妹みたいなもの」
「ほう、弥勒の妹か」
「血はつながってないよ」
 珊瑚はそこを強調しますが、七宝にはどれだけ伝わったのか判りません。
 彼はうんうんと一人でうなずいています。
「おなご一人の旅では何かと物騒じゃ。弥勒が戻ってくるまで、おらが一緒にいてやろう」
 胸を張って言う七宝を珊瑚は少しばかり疑わしげに眺めました。
「それはありがたいけど……七宝じゃ、一緒にいてくれても物騒なことには変わりないと思うけど」
「見くびるな。おらはただの子供ではない。立派な魔物じゃ。妖術も使える」
 立ち上がり、次の瞬間、ぽん、と音がして、七宝の姿が黒衣をまとった背の高い青年に変わりました。
「これでどうじゃ?」
「あっ、すごい。本物の方士さまそっくり」
 珊瑚が感嘆するほど、七宝の変化の術は見事なものです。
「では、荷物をまとめて、そろそろ出かけようか」
「出かけるって、どこへ?」
 方士の姿をした七宝を、座ったまま珊瑚は見上げます。
「あたしは方士さまと雲母を待っていなきゃならないんだ。ここを離れるわけにはいかない」
 仔狐は弥勒の顔で、困ったように眉をひそめました。
 あまりにも弥勒そっくりなので、どきんと珊瑚の心臓が跳ねました。
「こんな廃墟にいなくても、すぐそばに町があるんじゃから、ここに珊瑚がいなければ、弥勒は町に珊瑚を捜しに来るじゃろう」
「でも、あの町は治安が悪いんだろう?」
「そんな話は聞かん。どちらかというと、ここにいるほうが危険じゃ。この辺りは盗賊が出るという噂があるぞ」
「えっ、嘘」
 蒼ざめた珊瑚は立ち上がりました。
「珊瑚のような美人は、捕まったら売り飛ばされる。どちらが安全か、おらのような子供でも判る」
 剣の腕には自信のある珊瑚ですが、如何せん、ここには剣がありません。
 身を守る術がない以上、町で弥勒を待つのが得策といえましょう。
 珊瑚は、七宝と一緒に、黒の国の都へ入ることを決めました。


 その都の黒い城壁を目指して、ひたすら歩いていくと、大きな黒い城門に辿り着きました。
 黒曜石でしょうか。
 真っ黒な城壁に囲まれ、真っ黒な城門に守られたその都は、門をくぐった珊瑚の視界に、威風堂々としたたたずまいを見せました。
 弥勒の姿をした七宝と並び、珊瑚は物珍しげに、すっぽりとかぶった大面紗イザールの陰から町を見廻します。
「すぐ宿を探すか? それとも、珊瑚はどこか見物したいところがあるか?」
 幼いわりには一人前に気を遣ってくれる七宝に珊瑚は微笑みました。
「方士さまは、以前、この国の王宮に滞在したことがあるって言ってた。王宮を見に行ってもいい? もちろん、外から眺めるだけだから」
「解った。王宮はあれじゃな」
 町の中心に、ひときわ大きくそびえる雄麗な建物が、この国の王の住む宮殿です。
 二人はそこを目指しました。

 王宮の建物は、別に黒くはなく普通でしたが、ここに弥勒が暮らしたことがあるのだと思うと、珊瑚はとても感慨深く感じました。
「珊瑚、もういいじゃろう?」
「もう少し」
「あんまり目立つと、おらたち、王宮の兵に捕まってしまうのではないか?」
 七宝の危惧は的中しました。
 折も折、窓辺で外を見ていた国王が、しげしげと王宮を眺める二人に気づいてしまったのです。
「あれは……!」
 黒の国王は、王宮の兵に二人を御前へ連れてくるよう命じました。
 姫と仔狐は慌てましたが、後の祭りです。
「だから、おらが言ったのに」
「こうなっちゃったんだから仕方ないだろう。ちゃんと事情を話せば、王様も解ってくれるよ」
 番兵に引き立てられ、玉座の間へと連れていかれた二人は小声で言い合っていましたが、国王が現れて玉座に座ると、珊瑚は恭しく額手礼をして王に敬意を表しました。
 それを真似して、七宝も額手礼の会釈をします。
 自分たちは怪しい者ではないということを、さて、どこから説明しようかと珊瑚が考えていると、王のほうから口を開きました。
「手荒にお連れして申しわけない。やはり、あなたは方士の弥勒さま」
 王の視線が弥勒に向けられているのを見て、珊瑚も七宝を見遣ります。
 弥勒は王宮に滞在していたことがあるというのですから、国王とも知り合いなのでしょう。
「ええと、はい。そう……です」
 ぎこちなく七宝が答えました。
 彼の顔の広さを珊瑚が驚嘆しかけたそのとき、
「弥勒さま、やっと、婿入りにきてくださったのか!」
「……は?」
 王の言葉に固まってしまいました。
 もちろん、仔狐が化けた方士はそんなことは知る由もありませんから、何と答えたものか、戸惑っています。
 言葉に窮していると、
「これ、志麻!」
 王に呼ばれ、控えの間から一人の姫が現れました。
 なかなかに美しく、無邪気そうな姫君です。
 瞳を輝かせて、姫は弥勒のほうへと駆け寄りました。
「弥勒さま! よかった、この日をどんなに待ちわびたことか」
「えー、その」
 七宝が困っていると、こほんこほん! と傍らで珊瑚がわざとらしく空咳をします。
 志麻の目がやっと珊瑚に向けられました。
「あの……弥勒さま。この方は?」
「珊瑚とおら……私は兄妹です」
 違うでしょー! と珊瑚は叫びたくなりましたが、乳兄妹をそのまま兄妹と理解しているらしい七宝はにこやかに断言しました。
「まあ、妹様」
「妹の珊瑚姫じゃ。……です」
「おお、妹君がおられたのか」
 王は玉座から立ち上がり、歓迎の意を示しました。
 珊瑚は気を取り直して国王に向かいます。
「時世の王様、方士さまが姫君の婿というのは、どういうことなのですか? あたしは何も聞かされていないんです」
「何もご存じない? それはいけませんな。そう、あれは二年前のことになりますが」
 黒の国王は懐かしそうに遠くを見る目つきになり、志麻姫も、それに合わせるようにうっとりと目を細めました。
「幼い頃から身体が弱かった志麻は、あるとき重い病にかかり、医師にも匙を投げられました。それで、藁をも掴む思いで国に立て札を立て、おふれを出したのです」
「まさか、姫の病を治した者に姫を嫁がせるという、よくある話じゃ……」
 少し顔をひきつらせて珊瑚が口をはさむと、王は首を横に振りました。
「いえいえ、褒美を取らせるとだけ」
「でもその立て札を見て、宮殿に来たのが方士さまなんですね?」
 それが切っ掛けで彼は王宮に滞在したのだと、珊瑚は悟りました。
 しかし、滞在していただけでなく、姫を口説いていたとは……
 弥勒の浮き名はよく耳にしていた珊瑚でしたが、実際にその相手に会うのは初めてです。
 正直、あまりいい気はしませんでした。
「弥勒さまは高価な薬をくださり、娘の志麻はおかげですっかり健康になりました。実際、褒美の額が追いつかないほどの高価な薬でしたな」
「それって……方士さま、褒美を受け取った上に薬代も請求したってことですか?」
「何しろ、褒美の額以上の値のつく薬だったようで」
 はあ、と珊瑚姫はため息をつきました。
「そして、この国を去られるときに」
 と、今度は志麻が、夢見るように両手を合わせて言いました。
「弥勒さまはわたしに求婚してくださったんです」
 心底嬉しそうに黒の国の姫が弥勒に微笑みかけたので、きょとんとしていた七宝も、慌てて志麻に微笑み返しました。
 事情を聞いた珊瑚は仏頂面でむすっとしています。
「……そう、二年前にそんなことが」
 無性に苛立ってくる気持ちを弥勒にぶつけたくても、そこにいる弥勒は偽者で、弥勒の姿をした仔狐は得体の知れない悪寒を感じてぶるっと震えました。
「すぐに結婚の準備をさせよう。今宵は宴だ」
「嬉しい!」
 黒の国王が周りに控えていた宦官や侍女たちに告げると、王宮はすぐに弥勒の歓待と結婚式の準備に沸き立ちました。
「ちょっ、ちょっと待って!」
 珊瑚が叫んでも誰も聞いてくれません。
 いえ、一人だけ聞いてくれる者がいましたが。
「のう、珊瑚。おらはどうしたらいいんじゃ?」
「あたしが知るわけないだろ!」
 不機嫌な珊瑚姫のとばっちりを受け、七宝はいい迷惑です。

 こうして、七宝の化けた方士・弥勒と黒の国の姫君・志麻は結婚することになってしまったのでした。

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2010.6.25.