仔狐方士と黒の国

第六章 故郷へ

「珊瑚姫。弥勒さまもご一緒ですか。ちょうどよかった」
 弥勒と珊瑚が恭しく額手礼サラームをすると、国王は満足そうに微笑みました。
 王の傍らには志麻姫も控えています。
「弥勒さま。さっそくですが、妹君の珊瑚姫の婚礼の……」
 黒の国の王の言葉に、弥勒は驚いて眼を見張りました。
「妹? 妹ではありません。珊瑚は私の妻です」
 よく通る声に、玉座の間が一瞬静まり、それはすぐに波紋のようなどよめきに変わりました。
 場の空気に怪訝そうな弥勒は傍らの珊瑚に視線を移し、小声で尋ねます。
「私、何かおかしなことを言いましたか?」
「言い忘れていたけど、この国ではあたしたちは兄妹ってことになってるんだ」
「なんでまた」
「ちょっと手違いがあって」
 ばつが悪そうに、珊瑚は下を向いたまま答えます。
 自分が黒の国の姫に求婚したと思われていることといい、先ほどの青年――蛮骨の態度といい、漠然と事態を察した弥勒は、はあ、と小さくため息をつきました。
 けれど、広間での注目が自分に集まっている以上、場を取り繕わねばなりません。
「時世の王様。黒の国の王よ。まず、私たちにかけられていた呪いについて、お話せねばなりません」
「呪い?」
 居合わせた人々とともに珊瑚もびっくりして弥勒を見ますが、彼は落ち着き払って語り出しました。
「この国を訪れたとき、私たち二人は、ある魔神の呪いによって特定の言葉を封じられていたのです」
「おお」
 人々がざわめきました。
「して、その言葉というのは?」
 心配そうな黒の国の王に、弥勒は無念そうな表情を浮かべ、言いました。
「否定の言葉です。私と珊瑚は、会話の中で、否定の言葉を発することができずにいたのです。ですから、兄妹かと問われれば肯定し、志麻どのとの結婚も、私たちが夫婦だという事実をお伝えする術がなく、お受けするしかなかったのです」
「否定の言葉とな」
 王をはじめ、そこにいた人々は驚きの表情を浮かべました。
 将校の中で一番王に近い位置にいる蛮骨が、納得したように声を上げます。
「ああ、だから、おれが結婚を申し込んだときも、部屋に忍んでいくと言ったときも、珊瑚は拒否しなかったんだな」
「なんだって……?」
 今度こそはっきりと非難の色を浮かべ、弥勒は珊瑚を見つめました。珊瑚はおどおどと困ったように視線を彷徨わせるばかりです。
 蛮骨はさらに弥勒に言います。
「そんな魔神、おれが始末してやるぜ。報酬は珊瑚姫でどうだ?」
 品物のような扱われ方に、珊瑚はむっとして蛮骨を睨みましたが、弥勒が丁重に断りました。
「お気持ちはありがたいのですが、くだんの魔神は、ここにいる両名が七日のうちに退治してくれました」
 方士が両手で示したのは、弥勒と珊瑚の足許にちょこんと立っている、七宝と雲母です。
「こちらが七宝、こちらが雲母です。二人は、私と珊瑚がこの黒の王宮でかくまわれている間に、見事に魔神を倒し、私と珊瑚の封じられた言葉を解放してくれたのです」
 弥勒の説明に家臣たちは口々に感嘆の声を上げました。
「こいつらが? 魔神を?」
 蛮骨は疑わしそうに二人の妖魔を眺めます。
 見るからに小さくて愛らしい七宝と雲母が二人だけで魔神を退治したというのですから、信じられなくても無理はありません。
 その視線に気づいた七宝が、蛮骨を見て、にこっと照れたように笑い、
「……どーやって倒したんだ」
 蛮骨は呆れ果ててつぶやきました。
 一方、人のよい黒の王は弥勒の言葉をすっかり信じた様子です。
「では、弥勒さま。第二夫人に、改めて志麻をもらってはくださらんか」
 珊瑚ははっとしました。
 こうなることは覚悟していました。
 回教徒には四人までの妻帯が許されているのですから、自分以外に弥勒が妻を娶ったとして、それを責める権利は珊瑚にはありません。
「いいえ、国王サルタン
 ですから、弥勒が美しくやさしい志麻姫との結婚を断ったときは驚きました。
「私はアラーに誓いを立て、珊瑚以外の妻は持たないと決めております。志麻どのには、アラーのお導きでもっと相応しい方が見つかるでしょう」
「そうですか。それは残念です」
 国王が傍らの志麻姫に視線をやると、姫は諦めたような表情を浮かべていました。

 宴は今宵も開かれます。
 昨日までは弥勒と志麻の結婚を祝う宴でしたが、今夜は弥勒と珊瑚の呪いが解けた祝いと、二人との別れの宴です。
 弥勒と珊瑚、そして雲母は、明朝、この国を発つのです。
 その宴の席では、弥勒の両側に珊瑚と志麻が座っていました。
「志麻どの、あなたには本当に申しわけないことをしました」
 志麻は寂しそうに微笑し、首を振りました。
「気づいていました。お二人は兄妹ではないと」
 意外な言葉に、弥勒と珊瑚は顔を見合わせました。
「弥勒さまはおやさしいけれど、そのやさしさはまるで妹に対するようで……わたしを妻として扱ってはくださいませんでしたし」
「それは」
 言いかけて、珊瑚は口をつぐみます。
 向こうの席で、雲母と競うように御馳走を食べている七宝へ、珊瑚はちらと視線を投げました。
「でも、珊瑚さんと話すときは、とても親密なご様子で」
 失踪した弥勒のことを七宝と相談していたときのことを言っているのでしょう。
 秘密の話なので、自然、顔を寄せ合ってこそこそとしゃべるわけです。
 それから、もうひとつ、志麻は気づいていました。
 昨日まで珊瑚がはめていた指輪を、今日は弥勒がしていることに。二人の絆を象徴しているようで、とても敵わない、と思わされました。
「お似合いです。わたしはこの国から、お二人の幸せを祈っています」
 それだけ言って、志麻はそっと席を立ちました。


 翌日、弥勒と珊瑚は、黒の国の宮殿の人々の盛大な見送りを受け、雲母に乗って、空へ舞い上がりました。
 七宝も一緒です。
 町から遠ざかり、広大な黒檀の森を過ぎ、国境に近い丘の上で、七宝は雲母から降りました。
「本当に一人で大丈夫なのですか?」
「おらは妖魔じゃからの。少しなら、時空を移動する術も使える」
 冒険譚を土産に、七宝も自分の住む街へ帰るのです。
「いろいろとありがとう。七宝がいてくれて心強かったよ」
「気にするな。おらは珊瑚が気に入ったんじゃ」
 屈託なく笑い、行こうとした七宝を弥勒が引きとめました。
「七宝、これを。私からの感謝の気持ちです」
 弥勒が差し出したのは、鮮やかな赤い色の、美しい宝石でした。
「おらにくれるのか?」
「珊瑚を守ってくれたお礼です」
 七宝は誇らしげに赤い宝石を小さな手で受け取ります。
 それは紅瑪瑙でした。
「ありがとう、弥勒。……帰ったら、犬夜叉とかごめに自慢してやろう」
 三人と一匹は別れを惜しみ、やがて、七宝は空中に消えました。
「ねえ、方士さま」
 ふと、思いついたように珊瑚が言います。
「あんな宝石、持ってたっけ?」
「ああ、あれですか」
 弥勒は悪戯っぽく笑いました。
「鳥を操る魔女を退治したとき、魔女の住処にあったものを、報酬代わりにいただいてきたんですよ」
 一瞬、目を丸くして、珊瑚は呆れたように苦笑しました。
「本当に、転んでもただでは起きないね。方士さま」
「いいじゃないですか。七宝も喜んでくれたんですから」
 そして、二人は雲母に乗って、天空へと翔け上がりました。

* * *

 懐かしい景色が見えてきます。
 風を切ってぐんぐん飛行を続ける雲母の背で、陽光を受けて輝く海を見下ろしていた珊瑚は、故郷の島にさしかかったとき、瞳が熱くなって、腰に廻された弥勒の手に自らの手を重ねました。
「方士さま、あたしたちの国だ」
「ああ。帰ってきたんです」
「なんだか胸がいっぱい」
「……そうだな」
「旅から帰ってきたとき、方士さまはいつもこんな気持ちだった?」
 一人で旅をしていた頃が遠い昔のように思われ、弥勒は珊瑚の腰を抱く手に少しだけ力を加えます。
「私には家族もいませんし、おまえが故郷みたいなものでしたが」
「……そういうことは、ちゃんと言ってくれないと解んないよ」
 旅に出た弥勒の帰りを待ち焦がれるばかりだった日々を思い出し、唇を尖らせる珊瑚に、そんな様子すら愛しいと、弥勒は頬を緩めました。
 陸地に入ってまもなく、方士と姫君を乗せた雲母は森の上空にさしかかりました。
 雲母の棲む森です。
 森の緑を眼下に見下ろし、その懐かしい風景に珊瑚は目を細めました。
 エメラルドの絨毯のような森がみるみる後ろへ流れ、その上空を過ぎると、今度は翡翠を敷いたような野が広がります。
「方士さま、琥珀だ」
 珊瑚姫は地上に、弟・琥珀が馬で遠乗りに出ている姿を認めました。
 雲母は珊瑚の意を汲んで高度を下げます。
「琥珀ー!」
 供も連れず、一人で馬を駆る少年は、空から聞こえてきた姉姫の声に振り返りました。
「姉上!」
 懐かしい人の姿がどんどん近づいてきます。
 雲母が滑るように大地に降り立ち、その背中から珊瑚は地に降りました。そして、馬首を返した琥珀に向かって走り出します。
「琥珀!」
 ひらりと馬から降りた琥珀も姉の珊瑚に駆け寄りました。
 互いの手を取って、姉弟は再会を喜びます。
「ただいま、琥珀。いま帰ってきた」
「お帰りなさい、姉上。旅はどうでした?」
「楽しかったよ。話したいことがたくさんあるんだ」
 珊瑚の後ろから、小猫の姿に戻った雲母を肩にのせた方士がやってきました。
「珊瑚、その前に私たちは謝らなくてはならないことがあるでしょう」
 そうでした。
 迅速に旅に出るため、二人は野獣に殺されたふうを装って出発したのです。
 それを思い出し、はっと顔を強張らせる珊瑚に向かって、琥珀はあどけなく微笑んでみせました。
「大丈夫です。姉上の置き手紙を読みましたから」
国王サルタンには」
「父上にも話してしまいました。姉上と弥勒さまが死んだと思って嘆き悲しんでいましたし、おれ、黙っていられなくて」
「私のことをさぞお怒りでしょうな」
「姉上を攫って駆け落ちしたんですから、嫌みくらい言われるでしょうね」
「駆け落ち?」
 弥勒は驚いて珊瑚を見ました。姫も大きく眼を見開いています。
「珊瑚、おまえ、駆け落ちするなんて書いたんですか」
 珊瑚姫は真っ赤になってぶんぶんと首を横に振りました。
「違う。旅に出るけど、方士さまと一緒だから心配しないでって……」
「それって、つまり、駆け落ちでしょ?」
 違うといえば違いますし、違わないといえば違いません。
 無邪気な琥珀の視線を受け、珊瑚ばかりか弥勒まで、困ったように赫くなっているように見えます。
 琥珀はくすりと笑いました。
「父上は弥勒さま贔屓だから、弥勒さまなら仕方ないって言ってましたよ。下手なところへ嫁にやるより安心だって」
 琥珀は軽やかに愛馬に跨りました。
「先に宮殿へ戻って、姉上と弥勒さまが帰ったことを伝えてくるね」
 颯爽と馬で都のほうへ駆けていく琥珀の姿を見送って、二人は顔を見合わせ、くす、と微笑みを交わしました。
 珊瑚が手を差し出すと、弥勒はその手を握りました。
「方士さま、方士さまが黒の国であたしを選んでくれて、本当に嬉しかった」
「私も、おまえが大臣のご子息ではなく、私を選んでくれて嬉しかったですよ」
 からかうように答える方士を、ちらと珊瑚は睨みます。
「それはちゃんと説明しただろ? 何もなかったんだって」
 弥勒はくすくす笑いました。
「信じますよ。でも、これからはおまえから目を離しません」
 弥勒の肩から雲母が飛び降り、いつでも飛べるように変化しました。
「行きましょう、珊瑚」
「はい、……弥勒さま」
 弥勒ははっと足をとめました。
「いま、何と?」
「夫になろうというひとに、“方士さま”じゃ、おかしいだろ?」
 恥ずかしそうな珊瑚を見て、ふっと笑んだ弥勒は、彼女の肩を抱き寄せ、軽く唇を奪いました。

 こうして、方士・弥勒と支那の姫君・珊瑚の旅は終わりのときを迎えました。
 全能なるアラーのお導きにより、二人は大切なものを掴んだのです。
 王宮に帰ったら、まず、国王からきついお叱りを受け、そのあと結婚の宴が何日も続くのでしょう。

 幸せに満ちた二人の前途に、これからもアラーの祝福がありますように――

≪ prev  Fin.

2010.7.23.

【参考図書】 「千夜一夜物語」 “カマル・アル・ザマンの物語”より
前作・『葡萄姫』で旅に出たままだった弥勒と珊瑚が、無事、故国に帰ってくることができ、ほっとしております。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。