仔狐方士と黒の国

第五章 方士の帰還

 恋い焦がれていた弥勒の腕に包まれ、唇に彼の唇を受け、珊瑚は涙がとまりません。
 弥勒は、息が苦しくなるほど姫の唇を求めます。
「んん――
 いつまでも離れようとしない方士に、呼吸がままならなくなって珊瑚は小さく呻きました。
 それに気づいた弥勒はようやく唇を離し、
「涙の味がする……」
 と、少し照れたようにささやきました。
 彼は彼女の濡れた頬を指先で拭い、再び顔を寄せようとします。
「待って」
「この数日分を取り戻したいのだが」
 けれど、珊瑚は顔をそむけて拒否しました。
「先に縄を解いてほしいんだけど」
「あ……そうだった、すまん」
 気持ちが逸って珊瑚を気遣う余裕がなかったことを心の中で反省し、近くに落ちている短刀を拾い上げ、弥勒はそれで珊瑚の両手を縛っている縄を切りました。
 縄の痕がついて赤くなっている手首をさすり、「ありがとう」と恥ずかしげに微笑する珊瑚に、また触れたい気持ちがこみあげて、弥勒は彼女に手を伸ばしました。しかし、
「雲母!」
 珊瑚の胸にいち早く飛び込んだのは雲母でした。
「雲母、助けてくれてありがとう」
「みう」
 珊瑚のことを案じていたのは雲母も同じです。
 頭をすり寄せてくる愛らしい妖猫を、珊瑚もまた、ぎゅっと抱きしめて頬を寄せ、その小さな頭や背中を撫でました。
「あたしもすごく会いたかったよ、雲母」
「なんで雲母だけ“すごく”がつくんです」
 苦笑した方士は、珊瑚の背に手を添えて、水汲み場への移動を促しました。

 盗賊たちの姿の見えない場所まで来て、顔と手を洗い、やっと、人心地がつきました。
「大丈夫ですか、珊瑚」
「うん。本当にありがとう。あたし、売られるところだった」
 弥勒はやりきれないような表情で、くしゃりと前髪をかきあげました。
「悪かった。おまえを危険な目に遭わせたのは私だ。どんなに謝っても、許してもらえなくて当然だと思っている」
「いいよ、もう」
 珊瑚は小さく笑って首を横に振りました。
「方士さまはこうして戻ってきてくれたんだし。でも、どうして突然いなくなったりしたの?」
「まず、これを」
 弥勒は美しい真珠を連ねた耳飾りの片方を取り出し、それを手ずから、飾りをつけていないほうの珊瑚の耳につけました。
 両方の耳に揃った耳飾りに、珊瑚はきょとんとしています。
「これ、どこで拾ったの?」
「拾ったというか……この耳飾りを鳥の妖魔に奪われ、その鳥を追っていたんです」
「耳飾りを奪われて、って――
 あまりな理由に珊瑚は唖然となりました。
「耳飾りを取り戻すだけのために、何も言わずにあたしの前から姿を消したっていうの?」
「結果だけを言うとそういうことに……」
「前言撤回。許さない」
 珊瑚は怒って、両腕を組んで後ろを向きます。
 どれだけ弥勒の身を心配したことか。
 それなのに、彼は耳飾りを奪った鳥を追っていたというのです。七日間も。
「……おまえが大切にしてくれていたものなので」
「大切だけど、どうして大切なのか考えればすぐ解るだろ? 方士さまがくれたものだから大切なんであって、方士さま自身がいなくなっちゃったら本末転倒じゃないか!」
「返す言葉もありません」
 背を向けたまま憤然とする珊瑚の様子に、弥勒は表情を曇らせてため息をつきました。
「で、耳飾りは無事取り戻したのですが、追っていた鳥というのが、数多の妖鳥を操る魔女のしもべだということが判りまして」
 珊瑚はちらりと肩越しに、言葉を続ける方士を見遣ります。
 弥勒の話を要約すると、こうです。
 ある高い、険しい山に、鳥たちとその魔女は住んでいました。
 麓の町に住む人々は、人間の血を集めて魔術の材料にするというその魔女に何年も苦しめられ、ふらりと町を訪れた方士に鳥に脅える恐怖を訴えました。
 困っている人々を見るに耐えかね、方士は魔女退治を引き受けたというのです。
「それじゃあ、魔女退治をしていて?」
 怒りの色が少し和らぎ、彼を振り返った珊瑚に、弥勒は苦笑してみせました。
「思ったより手強くて。それが、おまえのもとに戻るのが遅れた理由です。魔女を退治したあと、すぐ、夜通し雲母に乗って引き返してきたのだが」
 廃墟に到着した途端、弥勒が目にしたのが、珊瑚が盗賊たちに襲われている光景だったのです。
 弥勒は手を伸ばして珊瑚の髪を撫でました。
「おまえが無事でよかった。おまえに万が一のことがあったら、私は一生自分が許せなかったでしょう」
「方士さま」
 遠慮がちに髪を撫でる彼の手に珊瑚が触れると、その手を掴み、弥勒は彼女を引き寄せました。
「さあ、国へ帰りましょう。ここにぐずぐずしていては、すぐに盗賊たちが眼を覚ます。おまえも雲母も疲れているだろうが」
「あ、待って、方士さま」
 雲母が変化し、その背に乗ろうとした方士を、珊瑚は繋いでいる彼の手を引いて制しました。
「一度、黒の国の王宮に戻らないと。あたし、この七日間、王宮で世話になってたんだ」
「黒の都の?」
 弥勒は大きく眼を見張ります。
「では、どうしてこんなところで盗賊に襲われていたんです」
 結婚を迫られて逃げ出したのだとは言いにくい。珊瑚は言葉を濁しました。
「あの、話せば長くなるんだけど。そうだ、ずっと七宝が一緒にいてくれたんだよ」
 弥勒の眉がぴくりと動きました。
「……それは男の名前ですか?」
「方士さまの知り合いでしょ? 七宝がそう言ってた」
 小さく首をひねる方士に、珊瑚は七宝の特徴を伝えます。
「七歳くらいに見える尻尾のある妖魔の男の子だよ」
「男の子……ああ!」
 波斯ペルシャの街で出会ったあの子でしょう。
 珊瑚は弥勒の手を取って、その指に、己の指から抜き取った彼の印章指輪をはめました。
「これ、ありがとう。でも、ちゃんと覚えておいて。耳飾りよりも印章指輪よりも、あたしは方士さま自身にそばにいてほしい」
 それを許しの言葉と取り、弥勒は淡く微笑みます。
 そして、二人は雲母に乗って、黒の都の宮殿に向かいました。

「方士さまがなんで黒の国を避けていたか解った」
 中空を翔ける雲母の背で風を受けながら、珊瑚が後ろの方士に言います。
「二年前、あんた、姫に求婚したんだってね」
 声に棘が含まれるのは仕方ありません。
「え? してませんよ」
 弥勒は心外だと言わんばかりに答えましたが、珊瑚は納得できません。
「姫がそう言ってたもの。二年間、志麻さんはずっと方士さまを待っていたんだよ」
「私の子を産んでくれるかとは言ったかもしれませんが、結婚してくれとは言ってません」
「はあ?」
 珊瑚は呆気にとられて、背後の方士を振り返りました。
「それ、普通に求婚じゃないの?」
「違いますよ」
 バランスを崩しかけた珊瑚の身体を支え、弥勒はしれっと返します。
「旅先で出会ったおなごにはそう言うことにしているんです」
「……あたしは言われてないけど。幼なじみだから?」
「おまえは言わなくても産んでくれるでしょう?」
 腰をぎゅっと抱きしめられ、珊瑚はどぎまぎと前を向きました。
「しかし、困りましたな」
 ふと、あまり困っていないようなつぶやきが珊瑚の耳に洩れ聞こえてきます。
「二年前、手元が不如意だったので、国王を相手に荒稼ぎしてしまったんですよ。私のことなど、忘れていてほしかったのだが」
「ぼったくった自覚はあるんだ」
 くすっと珊瑚は笑いました。
「黒の国の王様はそんなこと怒ってないよ。むしろ、志麻さんの病を治してくれたって、方士さまに感謝してる」
 だからこそ、方士さまを姫の婿にと望んでいたのだと、珊瑚は心のうちでつぶやきました。

 黒の都の王宮に戻ると、黒衣をまとった長身の青年が、珊瑚の姿をいち早く見つけ、足早に駆けてきました。
「珊瑚! どこ行ってたんじゃ。心配して捜し廻っておったんじゃぞ!」
「七宝!」
「七宝? って、え……」
 自分と同じ姿が向こうからやってくるのを見て、弥勒は驚きます。
「おお、弥勒ではないか! やっと戻ってきたのか」
 方士が二人いてはまずいと、七宝はすぐさま変化を解き、子供の姿に戻りました。
「これは驚きました。見事な術ですな」
「七宝が方士さまの身代わりをしていたんだ」
 珊瑚が七宝に謝ると、七宝は二人に、黒の王が珊瑚を呼んでいると伝えました。
 七宝に導かれて王宮の中を進み、急いで玉座の間に入ると、そこにいた蛮骨が二人を見つけ、姫の名を呼びました。
 珊瑚はぎくりとします。
「ひどいじゃねえか、珊瑚。一晩中、待ってたんだぜ?」
「“珊瑚”? “一晩中”?」
 蛮骨の言葉を聞き咎めた弥勒の表情が微妙に引きつっていることに気づかないわけにはいきません。が、珊瑚は見ない振りをします。
「ごめん、今、あたしは王様に呼ばれて来たんだ」
「ああ、おれとの結婚の話だろ?」
「“おれ”と結婚……?」
 弥勒の視線が痛すぎます。珊瑚は身を小さくして彼の視線をひたすら避けました。
「それから、おまえ、面紗を忘れていっただろ」
「えっ?」
 決して「忘れて」いったわけではありません。
 弥勒の手前もあり、否定しようと珊瑚は口を開きかけますが、そのとき、宦官が王の入室を告げました。
「今夜、おまえの部屋に行ったときに返す」
 蛮骨はこそっとささやいて、定位置に戻りました。
 玉座の正面に進み出た弥勒は、隣にいる珊瑚を横目で睨みます。
「おまえの面紗を男が持っているってどういうことですか。そういえば、おまえ、面紗をしていませんね」
 珊瑚は困惑しきった視線を、ちらと弥勒に向けて、うつむきました。
「人前ではちゃんと面紗をかぶってたよ。二人きりのときに蛮骨に取られて、そのまま都を出てきてしまったから……」
「二人きり? ……って、どんな状況でそうなったんですか」
 やましいことがあったわけでもないのに、どうしてこんなに責められなくてはならないのでしょう。
 変な方向へ弥勒が誤解しているのは明らかで、珊瑚は焦ってうまく言葉が出てきません。
「そうじゃなくて。蛮骨が強引だから、取り返せなくて……」
「強引?」
 咎めるような目付きで珊瑚を見遣り、弥勒は視線を前方へと戻しました。
「どういうことなのか、あとでゆっくり説明してもらいますからね」
 黒の国王が姿を現したので、二人は会話を中断させて、その場にひざまずきました。

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2010.7.16.