Two Tails Story 1
ホテルの部屋で
マイカ公国の首都。
公国最大の国営カジノ・トゥーテイルズに隣接する、ここは、高級ホテルのスイートルームだ。
その広いリビングの大きなソファの端っこに、白いリネンのワンピースをまとった珊瑚は、身を丸めてクッションを抱いて、途方に暮れていた。
この部屋の主はトゥーテイルズにディーラーとして勤める弥勒という青年で、珊瑚は彼に拾われ、一緒に暮らしている。
二人が知り合ったのは、珊瑚が客として彼の仕事場であるカジノを訪れたのがきっかけだった。
不慮の事故で父親を亡くし、父が経営する小さな会社が倒産、全てを失った珊瑚に、弥勒は住む場所を提供してくれた。彼女が独立する資金を貯めるまでという約束だ。
だが、珊瑚は彼のことをほとんど何も知らない。
高級ホテルのスイートに住む弥勒に、どうしてこんなところに住んでいるのかと尋ねても、「この辺りで一番大きな建物なので」という、よく解らない答えが返ってくるのみだ。
知り合った夜、ひと晩、彼と語り明かしたが、彼は聞き役に徹していた。
父亡きあと、倒産してしまった会社の後始末に奔走していた珊瑚が、父を喪った悲しみに初めて泣きじゃくったのが、弥勒の腕の中だった。
その弥勒のもとへ身を寄せて、二週間ほどが経とうとしている。
遊ばれるだけ遊ばれて、捨てられるかもしれないと警戒もしたが、実際にはそんなことはなかった。
彼は外で遊んでいる。
長年来の友人のように親しげに迎えてくれたが、女として見てもらえていないようで、珊瑚の心中は複雑だった。
リビングのテーブルの上に、弥勒が置き忘れたらしい本があった。表紙には"Cat of Many Tails"とある。
猫が好きな珊瑚は何となくそれを手に取ってみた。
作者を見るとミステリーのようで、本物の猫は関係ないようだ。
(あの人が読んでいる本)
栞が挟んであるページに目を通し、最初から読み始めようとページをめくったが、すぐに彼女は本を閉じ、クッションに顔を埋めた。
(悠長に本なんか読んでいる場合じゃない)
テーブルの上に散乱する履歴書や求人誌を見遣ると、ため息がこぼれた。
仕事を探し、いくつか面接を受けてみたが、どこへ行っても、住所を見て不審な顔をされる。
(そりゃそうだよね)
主に富裕層の長期滞在用として知られる高級ホテルのスイートに住んでいると言えば、怪訝に思われて当然だ。
(でも、住所不定なんて書けないじゃないか)
正式な雇用が難しいなら、アルバイトで資金を貯めて、まず、住むところを探したほうがいいかもしれない。
その辺のことを弥勒に相談に乗ってほしかった。
朝から出かけている弥勒からは、昼前に、今夜は仕事で遅くなるとのメールが届いた。夕食は食べてくるから、珊瑚にはルームサービスで好きなものを頼んでほしいとのことだ。
午後になって、珊瑚は必要なものを買いに出たついでに、何となく弥勒の職場のカジノを覗いてみたのだが、そのとき、私服の彼を目撃してしまった。
カジノフロアではなく、レストランのほうへ向かって、彼はどこかの令嬢らしき女性に腕を貸して歩いていた。
(あれ、仕事……? 副業にジゴロでもしてるわけ?)
ちゃんとしたものを食べる気にもならず、夕食はルームサービスで簡単にピザを頼んだ。
だが、一流ホテルの味はやはり一流で、食欲はないのに、思わずじっくり味わってしまう。
(琥珀がここへ遊びにきたら、このピザを頼もう)
今となってはたった一人の肉親である弟の琥珀は、スイスの学校の寮にいる。
弟の学費だけは何とか確保したのだ。
(でも、男と暮らしてるなんて言えないよね)
珊瑚はソファに身を沈ませ、また、重いため息をついた。
「ただいま」
スーツ姿の弥勒が帰宅した。
珊瑚は時計をちらりと睨み、リビングのソファにうずくまったまま、怖い顔で彼を迎える。
「ずいぶん早かったね。場合によっちゃ、帰ってこないかと思ってた」
「どうして? 遅くなるってメールしたでしょう?」
「女の人と一緒だったから」
ネクタイを緩めようとした弥勒の動きが、ぎくりと止まった。
「見たんですか?」
「腕組んで、一緒に食事して、それが今日の仕事なの?」
「あれは接待だと思ってください。世話になっているこのホテルの会長の知人をカジノに案内したり、そんなこともたまにしています」
「デートにしか見えなかった」
口をとがらせる珊瑚の様子は愛らしく、弥勒は苦笑し、なだめるような口調になった。
「今後は妙齢のご婦人相手の接待役は断りますよ。私には珊瑚のご機嫌のほうがずっと大事ですから」
どきんと鼓動が跳ねる。
珊瑚はそっと、ネクタイをほどき、上着を脱ぐ弥勒の動きを視線だけで追いかけた。
「珊瑚こそ、私の同僚に私との関係を訊かれ、ただのルームメイトだと答えたそうだな」
上着とネクタイを自分の寝室に置いて戻ってきた弥勒が、相変わらずソファの端っこにうずくまるように身体を丸めている珊瑚の後ろから、背もたれに両腕をついて、身をかがめた。
「だって、事実じゃないか」
「“ただの”ルームメイトではないでしょう? 同僚や友人には本命ができたと言ってあるのに、脈はないんじゃないかと散々からかわれました」
「だって、本当にただのルームメイトだし」
拗ねたようにぽつりと洩らし、珊瑚はクッションを抱きしめた。
彼はソファの背もたれ越しに、うつむく彼女の顔を覗き込む。
「私は珊瑚の気持ちを尊重しているんですよ。お金のためではなく、結婚は好きな人としたいと言っていたでしょう? いくら私がおまえを好ましいと思っても、住む所さえない珊瑚の弱みにつけ込むような形にはしたくない。おまえが経済的にやっていける自信がつくまで、私からは何もしてはいけないと思っている」
「弥勒さま」
「いつの間にか、珊瑚もそう呼ぶようになったんだな」
彼の周囲では彼を弥勒さまと呼ぶ人が多い。
ホテル住まいであることや、ギャンブルの腕がそう呼ばせるのか、彼の同僚や友人たちとつき合ううちに、珊瑚も同じように彼を呼ぶようになっていた。
「珊瑚、食事は?」
「すませた」
弥勒はテーブルの上の履歴書へ目をやった。
「それについては、明日、話し合いましょう。今日は疲れた」
彼はソファに腰を下ろし、テレビのリモコンを手に取った。
「映画とかどうです? ちょっと恋人っぽいでしょう? それくらいなら、今からでもつき合えますよ」
「いいの?」
リモコンを操作し、視聴できる映画のラインアップを呼び出す。ホテルが提供しているサービスだ。
「これなんかどうです? 冒険ファンタジー。それとも、アクションがいいですか?」
「あたし、その横のがいいな」
ちらと弥勒が珊瑚を見た。
「これ、恋愛映画ですよ?」
「知ってるよ。評判になってたやつだよね」
「思いっきり甘いラブシーンがありますよ?」
弥勒の視線を意識し、珊瑚はさりげなく眼を伏せた。
「面白くないの?」
「いや、いい映画ですが、大丈夫ですか?」
「何が?」
あくまで強気に珊瑚は答える。
「こういうの、私と観て、珊瑚は気まずくならないかと」
「弥勒さまは、これ観てるの?」
「ええ。映画館で」
「女の子と?」
「まあ、そうです」
「じゃあ、あたしも観る」
張り合うように、珊瑚は抱いていたクッションをわきに置いて、立ち上がった。そして、冷蔵庫から缶ビールを二本、取り出して持ってくる。
「何か食べる?」
「いや。ビールだけでいい」
リビングのソファは二人で腰掛けても余裕がありすぎるほどの大きさなのに、身体をくっつけるようにして、珊瑚は弥勒の横に座った。
「……」
恋人っぽく。
それを実践しているのだと気づき、弥勒は缶ビールのプルタブを開けて、可笑しげに愛おしげに笑みを洩らす。
「いいよ。始めて」
映画が始まると、弥勒はそっと彼女に身を寄せ、緊張で強張る珊瑚の肩に手を廻した。
珊瑚も遠慮がちに弥勒に頭を寄せる。
最初のラブシーンで、ビールを片手に弥勒が珊瑚を窺うと、彼女は仄かに頬を染め、身を硬くしながらも、じっと画面を見つめていた。
彼は彼女の肩を抱く手に力を込めた。
始めのうちは弥勒を強く意識していた珊瑚も、次第に映画に惹き込まれていった。クライマックスでは、弥勒が寄りかかるように身を寄せてきたので、ひどく胸がときめいた。
胸の高鳴る二時間だった。
エンドロールが終わり、珊瑚はリモコンを操作してテレビを消した。
そして、照れ臭そうに、彼女に寄りかかる弥勒を横目で窺った。
「あ、あの。映画、すごくよかったね」
と、話しかけた途端、ずずっと体重をかけられ、珊瑚はそのままソファに押し倒されてしまった。
「えっ、ちょっ、弥勒さま?」
心臓がとまるほど驚いたが、耳元に聞こえるのは規則正しい寝息のみ。
彼は途中で眠ってしまったらしい。
(……疲れてるって言ってたっけ)
それでも、映画を一本、珊瑚につきあってくれたのだ。
缶ビールは二本とも空になっている。
(いい加減なのか誠実なのか、よく解らない人)
だが、魔法にかけられたようなあの出逢いは幻ではなかった。
珊瑚は、弥勒を起こさないように彼の身体の下から抜け出すと、そっとソファから立ち上がって、彼の寝室から毛布を持ってきた。それを眠る彼の上に掛けて、自分の寝室に引き上げる。
(早く、仕事見つけなきゃ)
彼女は履歴書と求人誌を持ち、"Cat of Many Tails"も一緒に手に取った。
こんなにドキドキしている。
すぐには眠れないだろう。
「おやすみなさい、弥勒さま。この本、借りるね」
今日、ひとつ、彼と同じ映画を観た。
来週には、本を一冊、彼と同じものを読み終えているだろう。
Many Tails ならぬ Many Tales。
彼とのたくさんの物語を、これからひとつひとつ積み重ねていきたい。
Fin.
2014.4.2.