Two Tails Story 2
婚約者来たる
ホテル暮らしにはだいぶ慣れた。
贅沢な暮らしは気が引けるが、短期間のことと割り切り、珊瑚は弥勒との同居生活を楽しんでいる。
アルバイトも決まった。
弥勒の顔が利くところなら、彼が珊瑚の身元を保証できるということで、彼女は住んでいるこのホテルのルームメイクの仕事を決めた。
最初、カジノ内のレストランのフロア係なども考えたが、それには弥勒がいい顔をしなかった。カジノ内での接客業、殊に酒を扱う場所で彼女が働くことは、彼は心配であるらしい。
スイートに住みながら、同じホテルのルームメイクの仕事をするというのも妙な感じだったが、たまたま仕事中の彼女を見かけた弥勒に制服姿が可愛いと褒められ、内心、珊瑚は満更でもない。
至ってシンプルな黒のワンピースの上に白のエプロンという制服だが、ワンピースはパフスリーブ、エプロンには控えめなフリルが付いており、弥勒曰く「メイドっぽくて可愛い」とのことだ。
日常の家事をする必要はないが、スイートルームにはキッチンが付いていて、珊瑚は毎日二人分の食事を作った。
こんなことをしては鬱陶しがられるかと思ったけれど、彼は嬉しそうに食べたいものをリクエストしてくれる。
二人とも仕事はシフト制だ。
できるだけ休日を合わせ、二人で過ごす時間を作った。
この日も、ホテル内のテニスコートからホテルの本館へ戻る道に、二人の姿を見いだすことができる。
楽しそうな珊瑚と、対照的にひどく気落ちした様子の弥勒は、テニスラケットを持っていた。
珊瑚が弥勒を見上げると、結い上げたポニーテールが軽やかに揺れた。
「あたしの圧勝だったね、弥勒さま」
「はあ……」
弥勒はため息のような声を返す。
「気のない返事。弥勒さまのほうから誘ったくせに。負けたのがそんなに悔しいの?」
「調子が出なかったのは、珊瑚のせいですよ。なんでスコートじゃないんです。ったく、色気のない格好をして」
二人ともスウェットスーツである。
「持ってないから仕方ないじゃないか。そう言う弥勒さまだってテニスウェアじゃないだろう?」
「男はいいんですよ、何着たって」
並んで歩く二人は芝生の庭を横切って、テラスから建物の中へ入った。
歩きながら、弥勒は未練がましく愚痴をこぼす。
「これではテニスに誘った意味がないじゃないですか。珊瑚の足をじっくり観賞できると期待してたのに……」
「はあ? 何それ」
彼は大真面目に彼女の顔から足首までを眺めた。
「珊瑚はスタイル抜群だし、足がとても綺麗なことも知ってますよ」
「うそ。知ってるわけないじゃないか」
珊瑚は疑わしそうに彼を見たが、弥勒はいとも無造作に言い放つ。
「一度だけ見ました。初めてカジノで珊瑚を見かけたとき、一瞬でしたが、転んだおまえの足が太腿までばっちり見えてしまいました」
「……!」
唖然となった珊瑚の歩みが止まる。
一緒に立ち止まった弥勒は、悪戯っぽい笑みを浮かべ、視線で軽く珊瑚の足のラインをなぞった。
「次はビリヤードなんてどうですか? こう、大胆にスリットの入ったドレスを着て」
「弥勒さまのスケベ! そんなの着ない!」
「絶対に似合いますって」
頬を赫く染め、つんとなって歩き出す珊瑚を、弥勒は楽しそうに追いかけた。
そんな二人がエレベーターへ向かってフロントの前を通り過ぎようとしたとき、突然、男の声に呼び止められた。
「珊瑚!」
「えっ?」
弥勒と珊瑚が振り返ると、スーツを上品に着こなした背の高い青年が、驚いたように珊瑚を見つめている。
「やはり、珊瑚。捜したぞ」
「蔵乃介さま……!」
眼を見張る珊瑚のもとへ、青年がまっすぐ近寄った。
「どうして、蔵乃介さまがここに?」
「どうしても何も、珊瑚が突然いなくなって、どれほど心配したと思っている」
爽やかを絵に描いたような青年だ。スーツも高級品とひと目で判る。
弥勒ははっとした。
「もしかして、武田財閥の……」
珊瑚が弥勒と出逢う前、彼女に求婚していたという財閥の御曹司だ。
蔵乃介と呼ばれた青年は、じっと珊瑚を見つめていた。
「電話もメールも通じない。転居先も知らせてこない。おまえの身に何かあったのではと心配するのは当たり前だろう」
珊瑚は困惑気味に言葉を探した。
「あの。引っ越す前に挨拶に伺ったら、蔵乃介さまは留守で、仕事で外国にいると聞いたので、そのあと手紙を送ったのですが……届いてませんか?」
「あんな手紙だけで納得できるわけなかろう!」
珊瑚はばつが悪そうにちらりと弥勒を見た。
弥勒は珊瑚の斜め後ろで神妙に黙しているが、その表情は読めない。
「蔵乃介さま、よくここが判りましたね」
「おまえの交友関係をあたり、このホテルにいるという話を聞いた。それより、珊瑚、囲われているというのは本当か?」
「囲われる……?」
「カジノに入り浸りの賭博師と愛人契約を結んでいるというのは本当なのか?」
「え……」
珊瑚は大きく眼を見張った。
他人から見ればそう見えるのかもしれない。
などと他人事のように考えたが、ふと、傍らの弥勒のポーカーフェイスのこめかみが微妙にひくついていることに気づき、慌ててフォローを入れる。
「違うの、蔵乃介さま。あたしがお世話になっている人がカジノに入り浸っているのは、そこがその人の職場だからで……」
「その男は珊瑚をこのホテルに住まわせていると聞くが」
「それも、その人自身がホテル住まいで、あたしは単なる居候で」
「では、なぜ、電話もメールも繋がらん」
あ、と珊瑚は片手を口許にあてた。
「ごめんなさい、スマホは一度解約したんだ。今のあたしには贅沢品かなって」
だが、ないと不便だからと、弥勒が新たにスマートフォンを持たせてくれた。
そんなわけで、電話番号もメールアドレスも変更になったが、新しい連絡先を蔵乃介には知らせていなかった。弥勒に気兼ねしてというより、単にすっかり忘れていたのだ。
珊瑚は蔵乃介に深々と頭を下げた。
「……心配かけて、ごめんなさい」
「もういい、珊瑚。こうしておまえに会えたのだから」
蔵乃介は珊瑚をやさしく見つめ、彼女の手を握った。
「金銭的に困っているなら、なぜ、わしを頼ってこんのだ。今すぐに荷物をまとめ、わしの家へ来ればよい」
「えっ? でも、あの……」
「遠慮など水くさい。婚約者ではないか」
「婚約って、その話は……」
蔵乃介との婚約は、あくまでそういう話が出ただけで、彼女は承諾していない。
恐る恐る弥勒を顧みると、胡乱な目つきで彼が彼女をじーっと見ていたので、彼女は慌てて弥勒に向かって首を横に振った。
弥勒は小さく息をつき、二人に一歩近づいた。
「あなたが武田財閥の御曹司ですね?」
「そなたは?」
「弥勒と申します。隣のカジノ・トゥーテイルズでディーラーをしております」
「ああ、そなたが珊瑚を囲って……いや、失礼。同居させている方なのだな。わしは武田蔵乃介だ。御曹司という呼ばれ方は好きではない。財閥傘下の会社で社長をしておる」
「では、武田社長。珊瑚は自分の意思で私と暮らしています。友人として、彼女を見守ってやってはくださいませんか」
「友人ではない。婚約者だ。そなたこそ、嫁入り前の娘を自分の部屋に住まわせるなど、感心せんな」
正論で来られると反論のしようがない。
だが、弥勒の中には、これは己と珊瑚の二人の問題であり、二人の関係を第三者にとやかく言われたくはないという気持ちが強かった。
「さあ、帰ろう、珊瑚」
蔵乃介が珊瑚の腕に手をかけようとしたとき、弥勒は再び二人の間に割って入った。
「武田社長。実は、珊瑚の腹の中には、すでに私との子がいるのです」
「えっ?」
「ええっ!」
蔵乃介と珊瑚が、同時に声をあげて弥勒を見た。
珊瑚は急いで弥勒の腕を引き、爪先立って、彼の耳にささやいた。
「ちょっ、弥勒さま。強引すぎ。日数、合わない」
同居生活を始めてからまだ日も浅く、そもそも二人の間にそこまでの関係はない。
「信じられん……」
呆然となった蔵乃介の口からつぶやきが洩れた。
珊瑚が持っているラケットを一瞥し、彼は屹と弥勒を睨む。
「そんな身体の珊瑚に、テニスなどさせていたのか!」
「ちょっ、蔵乃介さま。突っ込むところ、そこ?」
蔵乃介は珊瑚の両肩を掴んだ。
「珊瑚。すぐに結婚しよう。何があっても、わしはおまえを愛している。子供はわしの子として育てる。だから、安心していい」
「待って、あたしは……」
「私の子です。私が珊瑚と育てます」
だが、弥勒を見据えた蔵乃介の眼差しは厳しい。
「弥勒どの。ご職業は理解した。ホテル住まいをされているというのは本当か?」
「ええ」
「お独りなら問題はない。ホテル暮らしは便利なものだ。だが、子供を育てる環境ではない。そんな場所に身重の珊瑚を置くことはできんし、珊瑚を任せるわけにもいかん」
弥勒ははっと眼を見開いた。
三人が立ち話をしているすぐそばのフロントで、顔馴染みのフロント係が控えめな咳払いをした。
立場上、彼は知らぬ顔をしているが、おそらく話は聞こえているだろう。
入れ代わり立ち代わりフロントを訪れる人たちに落ち着かない珊瑚は、はらはらと二人の様子を見守っていたが、とりなすように言葉を挟んだ。
「とにかく、場所を変えよう。蔵乃介さまはラウンジで待っていて。すぐに着替えてくるから」
「解った、珊瑚」
弥勒を促し、珊瑚はエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの中では二人きりだ。
「ごめんね、弥勒さま」
小さな声で珊瑚は言った。
弥勒は硬い表情で、じっと考えるように眼を伏せていたが、ややあって、重たげに口を開いた。
「珊瑚。おまえの幸せだ。おまえが決めるといい。今からでも、武田社長のもとへ戻りたいなら、私は止めはせん」
「えっ?」
どうして彼がそんなことを言うのか、珊瑚は理解できなかった。
「弥勒さま」
弥勒はちらと彼女を見て、儚げに微笑んだ。
珊瑚の胸が痛む。
いつも乗っているエレベーターの中が、こんなに息苦しく感じるのは初めてだった。
* * *
蔵乃介と話し合った珊瑚が、弥勒の部屋へ戻ったのは、午後十一時を過ぎていた。
カードキーで部屋の扉を開けると、部屋の中はしんとして、真っ暗だった。
弥勒はもう寝ているのだろうか。
(まさか、こんな日に遊びに出かけたりしないよね)
カーテンを引いていないリビングの大きな窓からは、青みを帯びた月の光が射し込み、広い室内を深海のように浸していた。
窓際まで行くと、宝石箱のような夜景が見える。
珊瑚はカードキーとバッグを置いて、遠慮がちに弥勒の寝室の扉をノックした。
「弥勒さま……いるの? もう寝た?」
扉に耳を押し当てると、中で人の動く気配がした。
「弥勒さま、開けて」
待っていると、静かに扉が開いた。
寝室の中も真っ暗だ。
「遅かったな」
明らかにベッドの中にいたらしい弥勒は、部屋着姿で、暗くこもる声で言った。
だが、彼の眼差しや声の感じから、眠っていたのではないと判る。
「あちこち案内してたの。あたしがどんな生活をしているのか、解ってもらうために。そのあと、一緒に食事をした。バーにも行ったけど、あたしはノンアルコールカクテルしか飲んでない。あたしが他の男の人とお酒を飲むの、弥勒さま、嫌がるだろう? だから……」
「それで?」
「それだけだよ」
「武田社長のもとへ、帰るのか?」
「どうして?」
「……」
弥勒は彼女の視線を拒み、瞳を斜めに伏せた。
「私は自分のことばかり考えていたようだ。珊瑚といると毎日が楽しい。だが、珊瑚が幸せになるためには、武田社長のような方と一緒になるべきではないかと」
それ以上、珊瑚は聞きたくなくて、弥勒の言葉をさえぎった。
「あたしの気持ち、最初から解っていたはずだろう?」
彼に何かを言わせないために、彼女は急いで言葉を紡ぐ。
「あたしが一人で生活できるようになるまで待つって言ってくれたじゃないか。あれは、あたしのこと、大切に思ってくれたからじゃないの?」
「珊瑚」
「部屋に置いてくれるなら、誰でもよかったわけじゃないよ」
涙がこぼれてしまわないように、乱れそうになる気持ちを抑えて、珊瑚は呼吸を整えた。
「弥勒さまの言う通り、自分で決めた。蔵乃介さまのところへは行かない。あと少し、住むところが見つかるまで、弥勒さまの部屋に置いてほしい。蔵乃介さまはとてもいい人だけど、結婚はできない。だって、あたしは──」
言いよどみ、珊瑚はうつむいた。
苦しくて、弥勒の顔を見ることができない。
「ねえ。今夜はあたし、弥勒さまの部屋にいてもいい……?」
彼はわずかに眼を見張ったが、すぐに低い声で答えた。
「いいんですか? 本当に子ができるかもしれませんよ」
「できないようにしてよ。あたし、働かなきゃならないんだから」
「……努力しましょう」
けだるげにつぶやいた弥勒の手が、珊瑚の腕を掴み、ぐいと寝室の中へと引き入れた。
倒れ込んできた彼女を抱きしめ、そのまま、流れるように唇を奪う。
挨拶程度のキスなら何度もした。
だが、恋人としてのこんなキスは初めてだ。
固く抱きしめられ、珊瑚は夢中で弥勒にすがりつく。
彼女の身体を抱く弥勒は、そっと片手で寝室の扉を閉めた。
そして、その扉は朝まで開くことはなかった。
Fin.
2014.4.17.