牡丹と旅する男

 大きな川だった。
 少年は、その川を渡す舟を桟橋につないだ縄がほどけかけていないか確認し、渡し舟に乗り込んだ乗客の数を数えた。
 出発まではもう少し間がある。
「父御の手伝いですか?」
 不意に声をかけられ、少年は声のしたほうを振り返った。
 出発を待つ舟の中に座る客の一人――清げな青年法師が彼を見ていた。
 少年と目が合うと、法師は穏やかに破顔した。
「うん。おれも、父ちゃんみたいな船頭になるんだ」
 得意げに答えた少年は、まだ十歳になっていないと思われる。ふと、少年は怪訝そうに法師に近寄った。
「法師さま、変わった荷物持ってるね」
「これですか?」
 法師が傍らに置いていたものを自らの膝にのせると、少年は誘われるように、空いたその場所に腰を下ろした。
 視線の先は牡丹を植えた鉢。
「美しいでしょう?」
 愛しげにその花を見つめ、憧れるように言う法師に、少年は素直にうなずいた。
「うん。こんなに綺麗な花、おれ、見たことない」
 少年はほうっと吐息を洩らしてその花を見つめた。
 薄絹のような繊麗な八重の花びらを持つ、薄紅と白の濃淡が美事な花であった。
「なんていう花? 大きな町じゃ、花は売り物になるって聞いたけど、これもそう?」
 無邪気に問う少年の言葉が、法師の口許に笑みを刻ませた。
「これは牡丹、深見草ともいいます。売り物ではありませんよ。この花は私の妻なんです」
 悪戯っぽくそう語る法師が、少年の眼を見て笑ったので、一瞬、少年はぽかんとした。
「……」
「……」
「うそだあ!」
 人間と花が夫婦なんて聞いたことがない。
「いくらおれが子供だからって、そんな話に騙されるもんか」
 勢い込んで言う少年の様子にくすりと笑みをこぼし、法師は少し声をひそめてささやいた。
「この花に私が恋をしたから、花の精霊が人の姿で私に逢いに来たんです」
「絶対うそだよ」
「法螺話か、私の気が触れているのか、さあ、どちらだろうな。どちらにせよ、私がこの花を愛していることが、私の中では真実だ」
 花を見つめる法師の眼差しに惹きつけられ、少年は話の先を促した。
「花が人の姿で法師さまに逢いに来て、それで夫婦になったの?」
「そうですよ」
「じゃあ、どうして法師さまは旅をしているんだ? 花と一緒に」
 法師はわずかに顔を曇らせた。
「私がこの花と出逢った村の人々は、妖をひどく恐れ、忌み嫌っていましてね。牡丹の精は珊瑚という名ですが、その珊瑚が人でないことに気づき、彼女を迫害し始めたのです」
「へえ」
 少年は大きく息を吸って、丸い眼を見開いた。
「妖に魅入られたと言って、私の話もろくに聞いてはくれなかった」
「ひどいや! おれは渡し舟のお客からいろんな旅の話を聞くよ。だから、世の中にはいい妖と悪い妖がいることも知っている。この牡丹の花の精がいい妖なら、迫害されるなんて理不尽だ」
「ありがとう」
 愛する者のために少年が憤ってくれたことに法師は礼を言い、彼の頭を撫でた。
「当然のことながら、そういう土地に住み着くわけにはいきません。珊瑚が安心して住める場所を探して、私たちは旅をしているというわけです」
「当てはあるの?」
「ええ、いくつか。私は妻と出逢う前、あちこちを旅していました。ですから、妖や物の怪、そういったものに偏見のない村があることも知っています」
「安心して住めるところ、見つかるといいね」
「ええ」
「で、今、その人は?」
 ふっと霞むように法師が微笑んだ。
 それを見て、少年はどきっとした。
(まさか、もう――
 迫害を受けて、花だけの姿になってしまったのか。
 何と言葉を続けていいか判らず、おろおろしていると、岸のほうから若い女の声が聞こえた。
「法師さまー!」
 笹折りと竹筒を手に持ったうら若い娘がこちらへ向かって駆けてくる。
 少年はその姿に目を奪われ、息を呑んだ。
 こんな綺麗な娘は見たことがないと思った。
 軽やかに舟に乗り、舟の乗客の中をかき分けて法師のそばまでやってきた娘は、
「法師さま、おむすび二つ、もらっちゃった」
 手にした笹折りを少し持ち上げてみせた。
 法師は困ったような表情を作る。
「水を汲みに行ったんでしょう? どうしてそのようなものをいただいたんです?」
「水を汲む順番を待っているときにちょっと世間話をして。あたしと同じくらいの年頃の孫がいるんだって。やさしそうな老夫婦だったよ」
「全く、美人は得だな」
 法師はやさしく苦笑した。
 娘が法師の隣に座る少年に視線を向けたので、はっとした彼は少し赤くなって立ち上がった。
「あ、あのっ、この人、法師さまのお連れさん?」
 少年が場所を空けると、娘が入れ替わりに法師の隣へ腰を下ろした。
「これが、私の妻の珊瑚ですよ」
「こんにちは」
 珊瑚が少年に向かって微笑した。
 とっさに返事ができず、どぎまぎしてしまう。ただ、花のような笑みだと思った。
 法師は妻を愛しげに見遣る。
「珊瑚。世の中よい人間ばかりとは限りませんから。むやみに私のそばを離れるんじゃありませんよ」
「うん。解ってる」
「おまえに何かあったら私は……」
「大丈夫。花は法師さまが守ってくれてるもの」
 出船を告げる船頭の声が響いた。
 美しい夫婦者に見惚れていた少年は我に返る。
「あ、じゃあ、おれは岸に残るから。お二人とも、元気で」
「ああ。おまえも、立派な船頭になってください」
 少年が桟橋に降りると、舟は川面を滑るように動き出した。
 ゆるやかに移動する舟の中に、少年が法師とその妻の姿を探すと、少年を見ていたらしい法師が笑顔を見せ、彼に寄り添う娘が小さく手を振った。
 名残惜しいような、不思議な気持ち。
 だけど。
(……)
 牡丹の、花の精……?
(法師さまの奥さん、人間じゃないか)
 夢かうつつか判らない、法師の語り。
(おれ、なんであんな話を信じたんだろう?)
 不意に可笑しくなって、独り、少年はくすくすと笑った。

 舟が遠くなる。
 記憶に残るのは、鮮やかな牡丹の美しさ。そして、珊瑚という娘の美しさ。
 牡丹に恋した法師の気持ちが、ほんの少し、解ったような気がした。

〔了〕

2010.11.18.

アンケートで答えていただいた内容をもとにしております。
「『深見の里』の二人のその後」というご要望をいただきました。ありがとうございました。
タイトルは江戸川乱歩の「押絵と旅する男」からお借りしています。