花喰い鳥の塒
眼を開けると、視界いっぱいに珊瑚の顔があった。
「うわっ……!」
睡眠から覚醒したばかりの弥勒は、ぎょっとして珊瑚の顔をさけ、上体を起こして少しだけ後ろにずれた。
「なんです、寝込みを襲うつもりですか」
ばつが悪そうに珊瑚の返事が一瞬遅れた。
「法師さまこそ、まるで化け物でも見たような反応して」
小さく口をとがらせる。
その様子は食べてしまいたいほど愛らしいが、たとえ化け物でなくともどんな美女でも、それが最愛の珊瑚であっても、驚くのが当たり前だろうと弥勒は思った。
「いえ、だって。いったい何をしていたんです、珊瑚」
まだ朝の早い時間帯だ。
彼女の体勢からして、寝床で眠っていた法師の顔を覗き込んでいたようではあるが。
「何もしてないよ。寝顔を見てたの。……旦那様の」
そう言って、珊瑚は恥ずかしそうに頬を染めた。
祝言をあげて、そろそろ半月が経とうかという頃。
二人きりで暮らす毎日は、まだまだ珍しいものに満ちていた。
「では、新妻におはようの口づけを」
と妻に手を伸ばそうとしたときには珊瑚はもうそこにはいなかった。
文机の上にあった櫛を手に取り、また弥勒のもとまで引き返してきて膝をつく。
「法師さま、髪が少し乱れてる」
はにかみつつ、彼女は法師の元結いを解き、いそいそと彼の髪を梳かし始めた。
「いいですよ、そんなに丁寧にしなくても」
「前を向いてて。あたしが結わえてあげるから」
慎重に弥勒の髪を結いながら、珊瑚は楽しげに「ふふ」と笑った。
「何を企んでいるんですか?」
「そんなんじゃないよ。大抵、法師さまのほうが早いから、こういうの新鮮で」
珊瑚も決して寝坊なわけではないが、彼女が身支度を終えても、まだ弥勒が眠っていることは稀だった。ここ数日、妖怪退治が立て込んでいたから、疲れがたまっていたのだろう。
珊瑚のほうは、弥勒の妻として、できるだけ家事を優先させようと仕事を選んでいる。
そのため、弥勒は犬夜叉と二人で仕事を引き受けることが多く、また、法師としての仕事も積極的に受けているので、思いのほか多忙であった。
妖怪退治を中心に独立して生計を立て始めた二人の、この日は初めての休日になる。
夜具を片付け終えた弥勒のそばに、法衣を手にした珊瑚がそっと控えた。
寝乱れた白小袖を直してから両手を広げる彼の腕に背後から緇衣を通す。
帯を渡し、袈裟を渡し、けれど袈裟の着付け方はまだ覚えていないので、彼が自分で着る様子を注意深く観察する。
「そんなに見つめていられると照れますよ」
「法師さまの身の回りのこと、早くひと通り覚えたいの」
久しぶりの休みだ。
二人はゆっくり朝餉を取って、一緒に家の掃除をした。
ずっと互いの気配を近くに感じていると、時間がゆったりと流れているような気がする。
「天気もいいことですし、少し散歩に出ませんか?」
「うん」
弥勒の提案に、珊瑚はまぶしそうにうなずいた。
穏やかな陽気のもと、のどかな田園風景が広がっている。
田畑で働く村の人たちの姿もどこかのんびりして見えた。
連れ立って少し行くと、弥勒は何気ない調子で妻に尋ねた。
「新しい生活はどうですか?」
珊瑚は照れくさそうにちらと夫を見遣る。
「法師さまと二人きりで、同じ屋根の下にずっといることが何だか不思議」
「そうだな。夢のようだと、私も感じる」
「でもそれが、そのうち“当たり前”になっていくんだよね」
清かな風が吹き、錫杖の六輪が小さな音を立てた。
「あと、何をするにも、里にいた頃、父上や琥珀にしていたのとは違って緊張する」
「緊張? 私に?」
「うん。だって、旦那様だもの」
二人は顔を見合わせて、照れたように笑みを交わした。
多少ぎこちなくも、それが愛おしく感じるのだ。
「とにかく、毎日がすごく楽しいよ」
「私もですよ」
法師は愛しげに珊瑚を見つめた。
「この村でよかったか?」
珊瑚は本当は退治屋の里に住みたかったのではないかと、やはり気になる弥勒は、そっと尋ねてみる。
「この村、好きだよ? 楓さまがしっかり村をまとめていらっしゃるし、みんな、いい人たちばかりで」
そして珊瑚はふと思い出したように、ちょっとした秘密を打ち明けるように爪先立って法師の耳へ口を寄せた。
「あたしね、村中の女の人と仲良くなるつもり。そうしたら、もう法師さまはこの村で浮気ができないだろう?」
弥勒は声を立てて笑った。
「浮気などしませんよ」
こんなにおまえが大切なのに、と、心の中でつけ加える。
満ち足りた想いは空気を伝って珊瑚にも通じているはずだ。
そんなふうにとりとめもなく言葉を交わしていると、いつの間にか村の外れまで来ていた。
ふと見遣ると小さな花がいくつも咲いている道端の木の枝に、小鳥が二羽、とまっている。小鳥は軽やかに花の蜜を吸っていた。
さらに蜜だけでは足りないのか、花をもついばんでいる。
二人は足をとめて小鳥を見つめた。
「まるで花喰い鳥のようだな」
「花喰い鳥?」
弥勒の言葉に興味を引かれたらしい珊瑚の様子に、彼は木切れを拾って、地面に鳥の絵を描いてみせた。
鳥は大きく羽を広げ、花を一輪、口に咥えて飛んでいる。
「これが花喰い鳥?」
「吉祥文のひとつですよ」
花を運ぶ鳥。
弥勒の描いた鳥を、珊瑚は興味深げにしげしげと見つめた。
「ふうん。じゃあ、それを見たあたしたちにも、いいことあるかな」
「きっと、たくさんのいいことが待っていますよ」
蜜の味に満足したのか、小鳥たちは飛び立っていった。
恐らくつがいなのだろう。
小鳥を見送った弥勒の視線がそっと傍らの妻に向けられ、彼女に手を差し出した。
それに気づいた珊瑚は、近くに誰もいないことを確認して、そっと彼の手を取った。
二人が寄り添って我が家に戻ってくると、庭先の木の枝に小鳥が二羽、羽を休ませていた。
先程の小鳥たちだろうか。
「私たちの家に、吉祥が先回りしていたようですよ、珊瑚」
その木には小さな花がまばらに咲いていた。小鳥はそれをつついている。
「食べられてしまうかな。蕾もあるのに。あの花、もう少し愛でていたかったんだけど」
「そうは言っても小鳥たちのほうが先住者かもしれませんよ」
「ふふ、それもそうだね」
少し困ったように、慈しむように小鳥たちを眺める珊瑚に、弥勒は小さく笑いかけ、繋いだ彼女の手を引っ張った。
「茶を淹れて、私たちもひと休みしましょう。昨日、妖怪退治をした屋敷で珍しい菓子をいただきました。おまえの口に合うとよいが」
「嬉しい。もちろん、合うと思うよ」
最愛の人と顔を見交わし、二人はゆったりと玄関のほうへと向かった。
ここにはきっと幸せが棲んでいる。
だから、こんなに居心地がいい。
庭の木の上では、小鳥たちが戯れるように、小さなくちばしで花を散らしていた。
〔了〕
2011.4.21.
「結婚直後の二人で静かに暮らしている感じ」というご要望をいただきました。ありがとうございました。