視線の先
予想外に積極的な娘だった。
仕事の合い間を縫って、何かと声をかけてくる。
最初に声をかけて、いつもの調子で口説いてしまったのはこちらだから文句も言えないし、なかなか可愛らしい娘だから、悪い気もしない。
だが、本命のあの娘のご機嫌が──
弥勒は恐る恐る珊瑚を振り返った。
ご機嫌、が──
「……」
何故、機嫌が悪くないんだろう?
機嫌が悪くないどころか、弥勒が目に入っていないようだ。
弥勒はやけくそのように問題の娘に声をかける。
「美世」
「何ですか、法師さま」
「あとで、手相を見てあげましょう。仕事がすんだら、私の部屋へおいでなさい」
「まあ、嬉しい」
にこっと顔を綻ばせて部屋を出ていく、屋敷の若い女中に法師は自虐的な笑顔を振りまく。
珊瑚の制止を計算に入れていたのに、それがないというのはどういうことなのか。
「なに珊瑚ちゃんの前で堂々と浮気の約束取り付けてるのよ」
かごめの突っ込みに返す言葉もなく、弥勒は小さくため息をついて肩を落とした。
振り返ると、珊瑚は黙々と武具の手入れを行っていた。
宿を借りた屋敷の主人はやさしそうな老夫婦だった。
何人もの使用人を使う裕福な家庭で、法師と親しくなった美世もこの家で働く者の一人だ。
眠れぬ一夜を過ごし、仲間たちと朝餉の膳を囲む法師は、ちらちらと珊瑚に眼を向ける。
視線を感じたらしい珊瑚と目が合って、弥勒はぎこちなく微笑んでみるが、一方の珊瑚は不思議そうに首を傾けただけだった。
そんな二人を残る三人がじーっと見守っている。
「珊瑚はとうとう弥勒に愛想をつかせたのかのう」
「七宝ちゃんもそう思う? 浮気を許すにも限度ってものがあるわよね」
「もう、なるようにしかならねえんじゃねえか?」
こそこそ話している犬夜叉たちの言葉は全部丸聞こえで、黙々と食事を続ける弥勒は冷静を装いつつ、実はこれ以上ないほどの不安に駆られていた。
珊瑚があからさまに怒ってくれたほうがどれほど気が楽か知れない。
「法師さま。……法師さま?」
膳を片付けに来た美世が、自分の顔の前で手をひらひらさせていることに気づいて、法師ははっと我に返った。
「どうしたんですか、法師さま。顔色が悪いですよ?」
「あ……いえ、何でもありません」
苦笑する弥勒に美世はにっこりと笑みを返した。
「法師さま、聞いてなかったでしょう。今日、あたし、旦那様の言いつけで市に行くので、一緒に行きませんかって言ったのに。みなさんも来られるそうですよ」
弥勒はちらりと珊瑚を見た。
市が立っているなら、そこを一緒に廻って彼女に何か買ってやり、ご機嫌を取り結ぶという手もある。
「いいですよ。みなが行くなら、私も」
「嬉しい!」
美世が両手を合わせる後ろで、かごめと珊瑚が言葉を交わしていた。
「じゃあ、珊瑚ちゃん、必要なものを言ってくれたら、代わりにあたしが買ってくるから」
「悪いね」
二人の会話に弥勒は驚く。
「ちょっと! 珊瑚は行かないんですか?」
「やだ、それも聞いてなかったの? 珊瑚ちゃん、用があるからお屋敷に残るって」
そんな。
「弥勒さまが浮気しないように、ちゃんとあたしが見張ってるからね、珊瑚ちゃん」
「気にしてないよ、そんなこと」
“そんなこと”。
落ち込む弥勒の背中を小さな七宝がなぐさめるように叩いた。
「気にするな。自業自得じゃ」
「おまえ、傷口に塩を塗ってどうする」
すかさず犬夜叉が七宝をたしなめたが、反論する気ももう失せた。
もう誰も何も言わないでくれ……と、弥勒は切に願った。
珊瑚を屋敷に残し、犬夜叉たちの一行は美世と市へ出かけた。
雲母を肩に乗せた弥勒は落ち着かなげに歩を進める。
珊瑚は屋敷で何をするつもりなのだろう。
昨日から、老主人と何やら話し込んでいたから、妖怪退治でも頼まれたのかもしれない。しかし、それならそうとはっきり言ってくれればこんなに気に病んだりしないのに。
(そもそも、なんでおれが妬かなきゃならねえんだ! ここで妬くべきは珊瑚だろう?)
弥勒は手近にいる犬夜叉にいきなり詰め寄った。
「ひどいと思いませんか、犬夜叉。珊瑚は私に恨みでもあるんでしょうか」
「恨みだらけだろうよ。自分の日常を振り返ってみろ。っつうか、珊瑚は何もしてねえじゃねえか」
「弥勒さまもたいがい素直じゃないわね」
二人に歩調を合わせたかごめが、ちらと横目で弥勒を見遣って言う。
「珊瑚ちゃんが気になるなら、お屋敷に戻れば?」
「……」
一瞬、弥勒は迷うように視線を彷徨わせたが、すぐに七宝を抱いて少し前を歩いている美世を追いかけ、彼女の腕からいきなり七宝を抱き取った。
そして、七宝をかごめに渡し、美世の手を握る。
「すみませんが、大切な用事を思い出しました。市には行かず、屋敷に戻ります」
「え……法師さま……?」
唖然とする美世を顧みることなく、
「あとは頼みます」
犬夜叉にそう言って、彼は雲母と一緒にいま来た道を足早に引き返していった。
「あそこで手を握るのが弥勒の悪い癖じゃな」
「それがなければね」
「弥勒らしいけどな」
冷静に分析する三人と法師の後ろ姿を、美世は戸惑ったように見比べていた。
珊瑚は屋敷にいなかった。
主人に話を聞くと、なんでも、手に入れたいものがあって、屋敷の裏の森に探しに行っているという。
「……そうですか」
「まあ、簡単に手に入るものではないし、そのうち諦めて帰ってくると思いますよ」
そんなに欲しいものがあるなら、自分に相談してくれればよかったのに。
水くさい、と弥勒はため息をつく。
「ところで、珊瑚は何を探しに行ったのですか?」
「それは私の口からは申せません。珊瑚さんは法師さまを驚かせたいと言っておられましたからな」
意味ありげに微笑する老主人に、弥勒は眉を上げた。
しばらく老夫婦と語り合っていたが、いつまで待っても一向に珊瑚が戻ってこないので、弥勒は彼女を迎えに行くことにした。
老夫婦の相手を雲母に頼み、屋敷を出て森へ向かう。
改まって謝るのも今さらな感じがして照れくさいが、一刻も早く彼女の顔を見て安心したかった。
屋敷からそう遠くない森の入り口まで来て、ふと躊躇う。
森へ入ると、行き違いになる恐れがある。
「珊瑚……」
祈るようにその名前をつぶやいたとき、森の奥から人の気配が近づいてきた。
「法師さま」
弥勒ははっと顔を上げる。
退治屋の装束に身を固めた愛しい娘が、眼を大きく見張って彼を見ていた。
「珊……」
言葉に迷う。
珊瑚が何も言っていないのに、こちらから謝ると、浮気をしたと認めることにはならないだろうか。己に対する態度を咎めるわけにもいかない。彼女は怒ってなどいないのだから。
「法師さま」
だが、躊躇していると、珊瑚のほうから近づいてきた。
哀しげな表情で、彼の顔を見つめ、すぐに顔を伏せた。
「珊瑚。どうし……」
鼓動が跳ねた。
珊瑚が、法師に近寄り、うつむかせた額を彼の胸元へ押し当てたのだ。
「ごめんね。何も採ってこられなかった」
これは抱き寄せてもいいのだろうか。
わけが解らないなりに彼女をなぐさめようと焦る弥勒だが、いつもの余裕は完全に失われていた。
ただ、愛しさがあふれ、胸が苦しい。
弥勒はそろそろと彼女の肩に手を乗せ、遠慮がちに、なだめるように彼女の背をとんとんと叩いた。
「大丈夫ですか、珊瑚」
「うん」
「おまえは森で何をしていたんです?」
珊瑚はばつが悪そうに弥勒を見た。
「笑わないでね」
「笑うものですか」
「薬の材料を……探していたの」
恥ずかしそうな珊瑚を、弥勒は問いかけるように見つめた。
珊瑚はとぎれとぎれに説明を始めた。
「昨日、屋敷へ来たとき、ご主人が飛来骨に興味を持って、話が弾んでさ」
「それは知っていますが」
「そのとき、屋敷に伝わる秘薬の話を聞いたんだ」
「秘薬?」
珊瑚はうなずく。
「百年も前から家に伝わる巻き物にその作り方が載っているんだって。それが、万能の毒消しだってご主人がおっしゃるから……」
弥勒は驚いて眼を見張った。
「おまえ、その薬を作るつもりだったのか?」
叱られた子供のように、珊瑚は弥勒の視線から逃れて彼に背を向けた。
「そりゃ、あたしだって、眉唾物かもしれないって思ったさ。だけど、巻き物によると、材料は全て裏の森で手に入るらしいし、もし手に入ったら、法師さまはもう毒に苦しまなくてすむし」
「珊瑚」
屋敷の主人と一緒に巻き物を読解し、必要な材料を採りに森の中へ入ったのだという。
珊瑚は、薬の材料を書きとめた紙を弥勒に見せた。
──竜の髭二本、化け犬の毛一本、河童の皿の水一滴、優曇華の花びら三枚。その他もろもろ──
「化け犬の毛はすぐに手に入りそうですが、何というか、怪しげな薬ですな」
しゅんとなった娘はいたたまれない様子でうつむいていた。
「おまえは意外と騙されやすい質かもしれんな」
「解ってるよ。もう言わないで」
「私が、いつもおまえについていなければ」
珊瑚ははっとして顔を上げた。
その瞳をやさしく見返して、弥勒は左手でゆっくり彼女の頭を抱き込んだ。
「ありがとう。私のために心を砕いてくれて」
「……」
その言葉だけで酬われた気がした。
珊瑚は己の頭を抱く弥勒の法衣を躊躇いがちに掴み、安心したように吐息を洩らして眼を閉じた。
翌日の朝、世話になった礼を厚く述べ、犬夜叉たちの一行は老夫婦の屋敷を出発した。
仲睦まじげに並んで歩く弥勒と珊瑚から少し離れた後方で、犬夜叉とかごめと七宝は、前日とは打って変わった二人の様子を珍しいものでも見るように眺めている。
「で? 結局、弥勒のためだったのか?」
「珊瑚ちゃん、いじらしー」
「前にもこんなことがあったのう」
仲間たちの視線が注がれていることなど全く意に介していないように、弥勒と珊瑚は楽しそうに言葉を交わしていた。
「それで、私が目に入らなかったんですか?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、薬を手に入れるまでは法師さまや屋敷の人と揉めたくなかったし。……法師さまがあの人と親しげにしているのはちゃんと目に入ってたよ」
弥勒の行動も一応把握していたことを、珊瑚は小声でつけ加えた。
「では、私に何か言うことは?」
「えっ?」
珊瑚は少し考えるような眼差しをして、ゆっくり言葉を紡いだ。
「結局、法師さまはあたしを追ってきてくれたし、今度からは、法師さまが他の女と親しくしても、あまりうるさく言わないようにするよ」
「違いますよ!」
弥勒が振り向いたその勢いに、珊瑚は驚いて眼を見張った。
「もっと焼きもちを妬いて、怒ってもいいから、私をしっかり掴まえていてください」
「え、あの……」
「私の隣に、いつもいてくれ」
見つめあう二人の歩みが完全にとまった。
法師を見上げる珊瑚の頬がほんのり桃色に染まる。
後ろを歩いていた三人は、そそくさと二人を追いこしていった。
「実は、あのね。強がって、かごめちゃんにはああ言ったけど、やっぱり気になってさ。ごめん、雲母に法師さまの監視を頼んでたんだ」
「ああ、だから、市に行くとき、雲母は私にくっついていたのか」
くすりと弥勒が頬を緩ませると、珊瑚はぷいっとそっぽを向いた。
「あの人の手を握ったんだってね」
「誰から聞いたんです」
「みんな見てたじゃないか。怒っていいって言ったのは法師さまなんだからね」
つんとして歩き出す娘を、軽やかに錫杖を鳴らし、法師は追った。
並んだ弥勒を珊瑚はちらと横目で窺う。
「あたし、怒ってるんだからね」
「はい」
「なんでそんなに嬉しそうなの」
「さあ。なんででしょうねえ」
最上の笑みを浮かべて珊瑚を見つめれば、彼女は微かに頬を赤らめ、恥ずかしそうに法師から視線を逸らせた。
彼女が彼を見ているように、彼も彼女を見つめている。呼吸をするように当たり前に。
──いつからだろう。
視線の先に、必ず珊瑚がいるようになったのは。
〔了〕
2011.1.16.
「弥勒様の浮気(?)に全く反応しない珊瑚ちゃんと、そんな彼女の様子に本気で焦る弥勒様」というご要望をいただきました。ありがとうございました。