眼が覚めた。
昨日と同じ朝。でも、今日は特別な朝。
今日からわたしの毎日が一変する、――婚礼の、朝。
空蝉 〜花霞の章〜
朝の光に眼を細めた。
夕べ、弥勒とともに祝言の報告に行った夢心の寺から帰ってきたばかりで、少し疲れているが、この日を迎えたことへの高揚感と緊張のほうがはるかに大きい。
すでに新居となる家に、同じ屋根の下に弥勒と住んでいるのだが、大家族になることを見越して広めに建てられた家の中では、寝室はまだ別々の部屋を使っている。
夜具を片付け、顔を洗い、珊瑚は朝餉の支度に取りかかった。
「おはようございます、姉上」
台所に顔を出したのは弟の琥珀だ。
闘いが終わり、姉のもとへと帰ってきた琥珀は、ここ数日、弥勒と珊瑚と行動をともにしている。大切な弟と再び一緒に生活できる喜びを珊瑚は改めて強く感じた。
「おはよう、琥珀。もう少し眠ってていいのに」
「姉上こそ、今日は特別な日なんだから、雑用はおれに任せて、自分のことだけしてて」
「ありがとう」
「昼前には楓さまもこちらを手伝いに来てくださるし」
「うん――」
姉が嫁ぐことを意識して、姉弟はどこかぎこちない。無言で作業をする中、珊瑚に背を向けたまま、琥珀が小さな声でぽつりと言った。
「今までいろいろありがとう、姉上」
「なに、急に」
「今日、言っておきたかったから」
それだけを伝え、姉を振り返った少年は淡く微笑んだ。
朝餉は、弥勒と珊瑚と琥珀、そして雲母の四人で静かに取った。
祝言の宴の支度は楓と琥珀が中心になってやってくれることになっていたので、朝餉の膳を片付け終えた珊瑚は、衣裳を合わせてみることを思い立った。
弥勒が用意してくれた、純白の綾絹の小袖。
明日から夫婦の部屋となるその場所で、やわらかな手触りのそれに手を通し、手鏡を置いた文机の前に座った。
紅を取り出す。
これも、弥勒からの贈り物だ。
こんなふうに、弥勒を思わせるものが身の回りに増えていくにつれ、己の生活に彼の存在が切り離せないものになっていくのだと実感し、珊瑚は仄かに幸福を覚えた。
貝紅の紅を薬指に取って、己の唇にそっと乗せた。
鏡の中を覗いてみれば、初めて見る女がそこにいる。自然、唇が綻んだ。
奈落を追って闘い続けている間は笑うことなど忘れていた。自分に笑顔を取り戻してくれたのが、他でもない、弥勒なのだ。
不意に部屋の板戸が開かれた。
「珊瑚、ちょっといいか?」
酒の置き場所を訊きに来た楓が、花嫁の衣裳をまとった彼女を見て、目を細めた。
「楓さま」
「よく似合っておる」
珊瑚は頬を染めてうつむく。
「でも、楓さま。花嫁衣裳なんて贅沢ですよね」
「おぬしのわがままではなく、法師どのがそうしたかったのだろう? その辺は甘えておいてもいいのではないか?」
「そう、思われますか?」
珊瑚は少しほっとしたように言った。
彼女のためにあつらえた花嫁の衣裳は、染め直して晴れ着にすればいいと弥勒は言った。
分不相応だからと躊躇う珊瑚を説き伏せ、私に褒美をくれるつもりでこれを着てほしいとそよ風のように笑った。
――彼の顔を見たい。
「あの、法師さまは」
「円座など運んでもらっている。婿どのを働かせて申しわけないがな」
婿どの、という言葉に胸がときめいた。
身を固くしている花嫁の様子に微笑を誘われ、珊瑚の緊張を解きほぐそうと、楓は気を利かせた。
「少し、外の空気を吸ってきたらどうだ? 家の中のことは皆に任せて」
その勧めに従い、被衣を手に、珊瑚は外へ出ることにした。
とはいえ、このような目立つ格好であちこちを歩くわけにはいかないから、楓が仕えるこの村の鎮守の社へ足を運んだ。
まだこの村の鎮守神にきちんと挨拶をしていないことに気づいたのだ。
社へ参り、両手を合わせ、これから弥勒とともにこの村に世話になることを報告し、新しい生活の平穏を祈願する。
「珊瑚――」
ふと背後に気配を感じ、振り返ると、法師がいた。
驚きに軽く見張られた彼の瞳は最愛の娘の花嫁姿を映していた。
「……」
美しい。饒舌な彼も他の言葉がなかった。
真白の小袖に真白の被衣をかづき、目縁と唇に紅をさした姿。頬にかかる額髪が楚々として愛らしく、清らかでつつましい彼の花嫁がそこにいた。
法師は、一歩、彼女に近づく。
「おまえは紅がよく映えるな」
その言葉で唇に紅を引いていたことを思い出し、微かに口許を笑ませ、珊瑚は恥ずかしそうに一旦眼を伏せてから弥勒を見た。
「法師さま。どうしてここに?」
「装った花嫁を最初に見る権利は花婿にあると楓さまに言われまして」
どこからか摘んできた白い花を彼は珊瑚に差し出した。
「ありがとう、法師さま。でも、いつもあたしは受け取るばかりだ」
「おまえだって私に法衣を縫ってくれたではないか。それに、今後はもっとたくさんのものを分け合う間柄になる」
弥勒は花を持つ珊瑚の手にそっと自らの手を添えた。
いつものように一方的な握り方ではなく、壊れものを押しいただくように、彼女の手を指先でいざなうように、小さな手を取って珊瑚を自らのほうへと引き寄せる。
「これからはこの腕はおまえだけのものですから」
もう浮気はしないという意味に受け取り、珊瑚は弥勒の顔を見上げて彼の眼をじっと見つめた。
「あ、おまえだけのものとは言えないな」
「え……」
ふ、と揺れた珊瑚の瞳が警戒の色を濃くした様子に弥勒は悪戯っぽく微笑み、
「おまえと、これから生まれてくる子供たちのためのものだ」
とささやいた。
息を呑んだ珊瑚を羽のように腕に包む。
いつもとは違う抱擁に、ある種の驚きを覚え、珊瑚は胸をときめかせた。
しばらく、そうして彼女をやわらかく抱きしめていた法師は、思い出したように言葉を紡いだ。
「ここ数日、琥珀と同じ部屋で寝起きして、いろいろなことを話しましたよ」
「琥珀とはどんなことを話すの?」
「おまえが幼い頃の話をいろいろと教えてくれました」
珊瑚は窺うように下から弥勒の顔を見た。
「雨に降られてずぶ濡れになって、泣きながら雨宿りした話や、山菜を採りに行って、二輪草と烏頭を間違えて摘んできた話など」
法師が語ったその内容に、珊瑚は頬を赤らめてうつむいた。
「何それ、琥珀ったら。もう少しいい話をしてくれればよかったのに」
「私にはうらやましい話でしたよ。これからは私が、おまえとそんな思い出を作りたいと思った」
珊瑚はおもねるように弥勒を見上げた。
「雨宿りをするの? 一緒に、ずぶ濡れになって?」
「そうしたら、私がおまえを温めてあげます」
くす、と二人は同時に小さく笑った。
そのまま見つめ合っていると、ふと、弥勒が真顔になった。
「……」
いま、求めてやまなかった娘が腕の中にいる。紅を引き、白綾の衣裳で美しく装い、永遠を誓う瞬間を待っている。
「なに?」
じっと見つめてくる弥勒の瞳を見返して、艶やかな紅唇が誘うように動いた。
「いや。今宵まで取っておこう」
何を、と眼で問う珊瑚の唇を弥勒は指先で、つん、とつつく。
「紅が落ちてはいけませんし」
はっとした珊瑚は頬を染めて瞼を伏せる。抱擁のせいでずれた被衣を頭に掛け直してやり、弥勒は珊瑚から身を引いた。
「私も社に参ろう」
微笑を浮かべ、弥勒は鎮守神の社に向かう。
男のくせに、花が綻ぶような笑い方をする人だと珊瑚は思った。
けれど、社に手を合わせる姿は優美でありながら、厳然として、凛々しかった。
彼から贈られた白い花を握りしめ、それがうたかたの幻ではないことを、確かな現実のものとして在ることを確認するように、珊瑚は可憐な花びらに口づけた。
――わたしは今日、弥勒さまの妻になる。
珊瑚はじっと法師の後ろ姿に見入り、夫となる人が振り返るのを待った。
〔了〕
2010.11.29.
「祝言の朝〜祝言の様子」というご要望をいただきました。ありがとうございました。