やさしい日々
最愛の人と夫婦になり、望んでいたその人の子を授かって、日々、少しずつ腹の中で小さき命が育っているのが解る。
そんな幸せを、珊瑚は噛みしめていた。
けれど、ただ、ひとつ。
(──甘かった)
珊瑚はけだるげにため息をついた。
今日も調子が悪い。
健康には自信があったし、自分はそれほど悪阻なんてひどくはないだろうと高をくくっていた。
正直、こんなにつらいとは思わなかった。
その日も何とか朝餉の用意をして、膳の前についたものの、食欲は全くなく、彼女は微かな吐き気と闘っていた。
「今日も食べたくないんですか?」
囲炉裏に向かう形で斜め横に座る弥勒が心配そうに尋ねた。
珊瑚は困ったように、でも、できるだけ明るい表情で、夫に向かって微笑んでみせる。
「あたし、駄目だね。法師さまの子だから、もっと頑張れると思ってたんだけど」
「おまえの子でもあるんですよ?」
「“法師さまの子”って言ったほうが、なんか、いいな」
彼女は口許に微笑を湛え、自らの腹を撫でた。
「少しでいいから食べてください。“私の子”が育ちませんよ?」
愛しい夫の気遣わしげな言葉に、珊瑚は味噌汁の椀を取り上げた。だが、匂いだけで気持ち悪くなり、すぐにそれを膳に戻して口を押さえた。
ふと眼を上げると、じっとこちらを見ている弥勒と視線が合った。
「そうだ、食べさせてあげ──」
「いらん」
つれない妻の言葉に、弥勒はつまらなげに自らの口に飯を運ぶ。
いろいろなものが少しずつ変わりつつある、けれども平和で幸せな日々だった。
洗濯物をたたんでいると、近在の寺に破魔札を納めに出向いていた弥勒が戻ってきた。
彼が室内に入ってきて、はじめて珊瑚は夫の帰宅に気づく。
「ごめん、出迎えてあげられなくて。ぼーっとしてた」
「いえ。体調が悪いんですから、無理はせぬことです」
身重の妻を制し、荷を置いてきた弥勒は、彼女の隣に座し、洗濯物をたたむのを手伝った。
そんな彼の横顔を、珊瑚はじっと見つめる。
「私が留守の間、変わりはなかったか?」
「うん。……法師さま」
「はい」
「ちょっとだけ、弱音吐いてもいいかなあ」
「ええ、いいですよ?」
珊瑚はそっと弥勒に身を寄せ、声をひそめて言った。
「だるい」
こんなふうに、控えめではあるけれど、珊瑚が弥勒に甘えるようになったのはここ最近のことである。
弥勒は微笑し、妻の華奢な肩を抱き寄せた。
「無理しなくていいですよ。あとは私がやりましょう」
家事を引き受け、そして、額に口づけをひとつ。
「もうすぐ、何よりの見舞いが届きますよ」
「見舞い?」
開け放した障子の向こうから、気持ちのいい夏の風が流れ込んでくる。
「法師さまがいてくれたら、あたしはそれだけで充分だよ」
夢見るように法師の肩に頭を乗せてささやく、そんな珊瑚の頬に手を添えて、弥勒は彼女の顔を自分のほうへと向けさせた。
「珊瑚」
掠めるように唇を合わせた。
「……もう一度」
そっとねだる妻の様子に満足感を覚え、法師は彼女の唇をゆっくりとついばんだ。
しばらくそんなことをしていると、不意に庭に人の気配を感じて、二人は顔を上げる。
「!」
具合が悪いことも忘れて、珊瑚は弥勒の腕から飛び離れた。
「こっ!」
「えっと……邪魔してすみません」
雲母を肩に乗せ、真っ赤な顔をした琥珀が、ばつが悪そうに立っている。黙って引き返そうと踵を返しかけたところらしい。
「琥珀!」
勢いよく立ちあがった珊瑚が急な眩暈に襲われてふらついたのを見て、弥勒が素早く彼女を支えた。
そうして、照れくさそうな表情で、目顔で琥珀に家に上がるよう促した。
久しぶりに帰ってきた琥珀は、居間で姉夫婦に礼儀正しく挨拶をし、土産を渡した。
雲母は琥珀の肩から珊瑚の膝に移っている。
「あ、いい匂い」
「大柑子。こういうものが、姉上はいいのかなって」
あどけない弟の笑顔に心が休まるようだ。珊瑚はにっこり笑った。
「嬉しい。でも、顔を見せに来てくれただけで充分。気を遣わなくてもよかったのに」
法師さまがいるだけで充分とか、ついさっき言っていたのは誰でしたっけ? 楽しそうな姉弟の傍らで、弥勒はそんなことを考えた。
「法師さまは、琥珀が帰ることを知ってたの? そんな口ぶりだったけど」
「ああ、先ほど楓さまの家のほうへ向かう琥珀の後ろ姿を見かけたんですよ」
「姉上の具合があまりよくないから顔を見せてやってほしいと、義兄上から文を受け取って。それで見舞いに来たんです」
「法師さまがわざわざ?」
現在、琥珀は弥勒の紹介である山寺へ身を寄せて、心身の修業をしながら妖怪退治を引き受けている。しばらく見ないうちに少し精悍さが加わったと、珊瑚は目を細めた。
「おれも姉上のこと、ちょっと心配だったし。でも、思ったより元気そうでよかった」
琥珀は無邪気に言ったのだが、先ほど目撃された場面を思い出し、珊瑚は頬を赤らめた。
台所を手伝おうとする琥珀を制し、弥勒は一人で夕餉の支度に取りかかった。日頃、離れ離れで暮らしている二人に水入らずの時間を作ってやりたかったのだ。
(まあ、仲のいい姉弟だということは解っていましたし)
珊瑚と一緒になって、三月と少し。
妻を喜ばせたくて、八衛門狸を介し、琥珀にしばらく姉のもとに滞在してはどうかと伝えたものの、仲睦まじげな姉弟の様子に軽い嫉妬を覚えてしまう。
(仕方のないことだが)
珊瑚にとって琥珀は特別なのだ。
ほっとため息をつき、弥勒は包丁を振るった。
料理ができた旨を告げ、鍋を居間の囲炉裏に移すと、珊瑚と琥珀も一緒になって夕餉の膳を台所から居間に運んだ。今夜は鯉料理だ。
「数日前から漁夫に鯉を頼んでいましてね。ちょうど昨日、手に入ったものですから」
飯の匂いに珊瑚はまたもや口許を押さえたが、法師が作ってくれた料理が嬉しくないはずがない。
「美味しそう。義兄上、料理上手だね」
「……そうなんだ。嫁なんか要らないんじゃないの、ってくらい。裁縫だって、洗濯だって」
やや拗ねた口調で珊瑚は言う。
「でも、法師さまはあたしにね……」
次いで、琥珀のほうを向いて言葉を続けようとして、それが惚気であることに気づき、珊瑚は恥ずかしそうに口をつぐんだ。
主菜は鯉こくである。
鯉をぶつ切りにして味噌汁で煮た鯉こくは、妊婦の滋養強壮に、また出産後は母乳の出をよくするといわれている。
琥珀は、法師の姉への深い愛情を感じずにはいられなかった。
「もう少し煮込まねばなりませんので、まずは洗いからどうぞ」
鯉の洗いを盛った皿を、法師はそれぞれ二人に手渡し、ひとつを雲母の前に置いた。
ありがとうと言うように、雲母がみうと鳴いた。
和やかな食事のあと、夕餉の後片付けを申し出た琥珀は、汲んできた水で食器類を洗いながらちらちらと弥勒を窺った。
「なんです?」
「あの、ご馳走様でした。義兄上が姉上のこと、とても大切にしていることが解って嬉しかったし、安心しました」
「今日からしばらくはおまえに珊瑚を貸してあげますよ」
悪戯っぽく言う義兄の言葉に、琥珀は困ったように微笑して、瞳を伏せた。
「義兄上の気持ちは嬉しいんですけど、おれ、明日お暇しようと思ってるんです」
弥勒は食器を片付ける手をとめて義弟を見た。
「私に遠慮していますか?」
「いえ、遠慮とかそういうことじゃなくて、ただ、姉上が」
「珊瑚が?」
ここからは見えないが、雲母と戯れているであろう姉のほうへ、琥珀はちらと視線を投げた。
「……法師さまがいつもどんなにやさしいとか、どんなことをしてくれるとか、それはもう、事細かに話すんです」
意外なことを聞かされて、弥勒は軽く眼を見開いて少年の顔を見た。
「聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらい。姉上があんな、臆面もなく惚気る人だとは思わなかった」
「珊瑚が、私のことを……?」
この姉弟の間には入り込めないと思っていた。それだけに、彼らの──というより珊瑚の──話題が己であることを知り、弥勒の口許が綻んだ。
「琥珀」
「はい」
「珊瑚は私のことをどんなふうに話していたんです? ちょっとだけ教えてくれませんか?」
「……え゛」
にこやかに迫る法師に琥珀はたじろぐ。
長く滞在したくても居づらい理由は、果たして義兄に伝わっただろうか。
* * *
やってきた翌日に早々に帰ってしまった琥珀の土産の大柑子を食べながら、弥勒と珊瑚は縁側でのんびり茶を飲んでいた。
「行っちゃったね、琥珀」
「引きとめなくてよかったんですか?」
「うん……琥珀にも琥珀の生活があるんだし」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、珊瑚は大柑子を口に入れた。
「ただ、たまにこんなふうに、家族みんながそろうことができたらいいなと思う」
「ああ、そうだな」
夫妻は濡れ縁から白い雲に縁取られた空を見上げた。
「丸一日、休養させてもらったね。また頑張ろうって気持ちになった」
「それはよかった」
並んで座る夫の横顔を、珊瑚はじいっと見つめた。
なんですかというように、少し首を傾げて弥勒は珊瑚を見返す。
「法師さま、あ……」
「あ?」
“愛している”
それだけのことを音にするのが、どうしてこんなに難しいのだろう。
「あ……」
耳まで朱に染めて、珊瑚はふいっと法師から視線を逸らせた。
「……ありがとう」
くす、と弥勒は小さく笑う。
「“愛してる”」
なめらかに弥勒の口から出た言葉に、珊瑚の心臓がどきんと跳ねた。
「とか、告白してくれるのかと思いました」
珊瑚の動揺を楽しむように、弥勒は茶器を置き、その場に身を横たえた。
「膝を貸してもらえますか?」
「うん。どうぞ」
珊瑚の膝に頭を乗せ、彼女の腹部に顔を向ける。我が子がいる位置に。
「聞こえますか」
弥勒はやわらかく胎内の子供に話しかけた。
「丈夫に生まれてきなさい。父も母もおまえを待っている」
彼の言葉に胸がいっぱいになり、霞むように微笑んだ珊瑚は、やさしい手つきで弥勒の髪を撫でた。
「それから、珊瑚」
「なに?」
顔を腹部に伏せたまま、弥勒は彼女の腰に手を廻して、その肢体を軽く抱いた。
「愛している」
そっと伝えられた言葉の重みに、珊瑚は小さく息を呑んだ。
「──うん」
愛しい。
花びらが降り注ぐように、雪が降り積むように、自分の周りにやさしさが降り積もる。そんな日々を与えてくれる、弥勒への愛しさが心に沁みた。
弥勒も、自分との生活に幸せを感じてくれているだろうか。
「……法師さまを、愛している」
言葉は自然にこぼれ出た。
驚きに眼を見張る弥勒が妻の膝から跳ね起きた。
大柑子の香りをまとった風が、見つめあう二人の間をふうわりと通り過ぎていった。
〔了〕
2011.2.21.
「妊娠してちょっと具合の悪い珊瑚ちゃんと心配する弥勒様」というご要望をいただきました。ありがとうございました。