白雨に惑う
突然、降り出した雨は先ほど少し小降りになった。
その雨のせいで、辿るべき匂いは消えていたが、犬夜叉が弥勒の指示した場所に行くと、そこで幼い二人の女の子が雨宿りをしていた。
「犬ー!」
「いーぬ!」
道端の小さな祠の中に身を寄せ合うようにして座り込んでいた弥勒と珊瑚の双子の娘・弥弥と珠珠は、犬夜叉の姿を認め、ぱっと瞳を輝かせた。
祠は犬夜叉の腰くらいの高さしかない。
「おまえらの父上、鬼みてえに機嫌悪いぜ?」
腰をかがめ、祠に手をついて犬夜叉が言うと、二人は困ったように顔を見合わせた。
遊びに出たまま迷子になり、にわか雨に降られて雨宿りしていた双子だったが、犬夜叉が無事二人のもとに辿りつけたということは、その行動範囲は弥勒の予想の範疇だったらしい。
雨がまたぱらぱらと降ってきた。
「ほら、乗れ」
犬夜叉は双子に背中を向け、その場にしゃがんだ。
弥弥と珠珠は犬夜叉の背中にいそいそとよじ登る。
父のおんぶも母のおんぶも大好きだが、二人一緒におんぶしてもらえる犬夜叉の背中は、双子にとって特別だった。
「犬、大好きー!」
半妖の背中で二人ははしゃぐ。
「せめて犬夜叉と言え」
「犬やちゃ」
「犬やちゃん。あれ?」
「おめえら、そこだけ舌回らねえのな」
ため息まじりに犬夜叉が言うと、弥弥と珠珠は嬉しそうに大声で叫んだ。
「犬やちゃーん!」
「……いいよ、犬で」
こんなふうに呼ばれているなんて、弥勒やかごめにはとても言えない。
犬夜叉は双子を背負い直し、雨を縫うようにして走り出した。
「飛ばすぜ」
瞳を輝かせた双子が犬夜叉の衣にぎゅっと掴まる。
幼い女の子たちを背負った半妖の少年は、軽やかに地を蹴り、飛ぶように駆けていった。
一方その頃。
弥勒には自分で娘たちを捜しに行けないわけがあった。
「少し冷えるね。白湯でもどうぞ」
「ありがとう、いただきます」
珊瑚が白湯を差し出した相手は法師ではない。
否、彼にも一緒に出してくれたが、ついでのようで、弥勒はあまり面白くなかった。
「やみませんねえ」
雨を眺め、白湯を飲むのは弥勒より少し年嵩に見える旅装束の男。
わきに置かれた大きな行李や笠を見るまでもなく、行商人であることは明らかだ。
先刻の突然の激しいにわか雨に、この村を通りかかった男はすぐ目の前にあった弥勒の家に軒を借りた。
そこまではいいのだが、小雨になってもぐずぐずと居続けて、応対する珊瑚に色目を使う行商人の態度が弥勒には不快で仕方ない。
家を離れるのが気が気でなくて、折りよく顔を出した犬夜叉に双子を迎えに行ってくれるようにと頼んだのだ。
「このくらいの小降りなら、そろそろ出立できそうですな」
濡れ縁に腰掛けるその男に、弥勒はあくまでも穏やかに、早く出ていけと言わんばかりの言葉を投げた。
台所と居間を行き来する珊瑚と男の間に陣取って、法師はずっと、珊瑚に隙ができないようにと見張っているのだ。
「いいじゃないか、法師さま。少しくらい休んでいってもらっても」
「しかし、お急ぎでしょう。あまりゆっくりしていると日が暮れ……」
「いえ、特に急ぐ用はありません。それより、娘さん。何か小間物類はいかがですか。格安でお分けしますよ」
不躾に言葉を遮られ、弥勒はむっとしたように眉をひそめたが、珊瑚は淡く苦笑するだけだった。
「間に合ってるけど、見るだけでいいなら。よさそうなものがあったら買わせてもらうよ」
珊瑚にしか解らない程度の不満を漂わせ、弥勒は白湯をひとくち口に含んだ。
家屋から少し離れた樹の陰で、犬夜叉と珠珠と一緒に縁先での両親の様子を見ていた弥弥が、背後の犬夜叉を振り返って言った。
「犬ー、ヒトスジって、なに?」
「はあ? 一本の筋だろ?」
「あーゆう雰囲気になると、父上が母上によく言うの。私はおまえヒトスジなのに、って」
「そしたら母上が、そのテのホウシサマの言葉は信用できない、って」
面白そうに珠珠も言った。
「おまえら、そんな会話を覚えるんじゃねえよ」
犬夜叉は拳骨を作って双子の頭をそれぞれ軽く小突いた。
「いたーい」
「でも、母上は嬉しそうなんだよねー」
弥弥と珠珠はくすくすと無邪気に笑った。
「珠珠は犬ヒトスジだよ?」
「嘘つけ。ついこの間、父上が一番好きとか言ってたくせに」
「やっぱり好きって意味なんだー」
「あ、おい」
父譲りの機転を利かせ、双子は目的の言葉の意味を知る。
犬夜叉は大きくため息をついて、わしわしと髪を掻いた。
「もう二人で帰れるだろ? 早く帰って、弥勒を安心させてやれ」
「犬も行こ?」
「おれはいい。巻き込まれるのはごめんだ」
「じゃあ、珠珠もここにいる」
「弥弥も。もっかい、おんぶして?」
「駄目だ。おまえらおんぶして突っ立ってる姿ってのは間抜け過ぎるだろーが。もういいから帰れ」
「いやー!」
弥弥と珠珠は声をそろえて叫び、左右から犬夜叉の足にしがみついた。
動きを封じられ、犬夜叉は慌てたように弥勒のいる家のほうへ顔を向けた。
「……」
案の定、双子の声でこちらに気づいた弥勒が、驚いたように犬夜叉を見ていた。
「弥弥、珠珠、帰ってたんですか? 犬夜叉、そんなところで何して……」
「父上ー!」
双子の弥弥と珠珠はいちいち二人一緒に大きな声を出す。
嬉しそうに縁先へ駆けてくる双子を認め、行商人が唖然と法師を見遣った。
「……お、お子様ですか? お二人も?」
「はい。見ての通り、双子です。私の娘たちですよ」
行商人は呆れたように眼を見張り、法師と愛らしい二人の女の子とを穴のあくほど見比べた。
「まさか、お坊様が」
「坊主ではなく、法師です。ですから、妻を娶っても何ら問題はありません」
「はあ」
よく解らない法師の言い分に、行商人は小首を傾げ、声をひそめた。
「御子たちの母御は、公ではない、その……」
「言っておきますが、隠し妻ではありません。歴とした妻です」
「妻です。よろしく」
傍らで小間物類を見ていた珊瑚が言葉を挟み、にっこりと会釈したので、行商人は愕然となった。
「えっ!」
つまり、亭主の目の前でその妻を口説こうとしていたことになる。
「てっきりご兄妹かと」
「何故そうなるんですか。どこも似ていないでしょう」
二人の男のやり取りを、珊瑚はくすくす笑いながら聞き流し、小さな娘たちに声をかけた。
「弥弥、珠珠、それから犬夜叉も。台所へ廻って足を洗って。そのままじゃ家の中が泥だらけになるよ」
「はあい」
弥弥と珠珠は犬夜叉とともに、台所のほうへと向かった。
「でも、本当にお綺麗で……」
行商人はなおも未練そうに珊瑚へ視線を向けるが、
「どんなにお綺麗でも人の妻です」
と、弥勒はにべもない。
そのとき、奥の間から赤子の泣き声が聞こえてきた。
「あ、あれは……」
「私の息子です」
まだ驚きから覚めやらぬ行商人が何か言うより早く、台所へ向かおうとしていた珊瑚が身を翻し、足早に奥へと向かった。
行商人は、呆然とそちらを見つめている。
「さて。今宵は拙宅にお泊まりになりますか?」
ようやく余裕を取り戻した弥勒が様子を窺うように問いかけると、はっとした行商人は、束の間の懸想の相手が人妻である上に三人の子持ちと知り、夢から醒めたように立ち上がった。
「いえ、もう雨もやみましたし、私はこれで。雨宿りさせていただいて、本当に助かりました」
荷をまとめ、丁寧に頭を下げて、彼は法師の家をあとにした。
赤子の翡翠を寝かしつけた珊瑚が居間へ戻ってくると、手足をきれいに洗い清めた双子と犬夜叉も室内にいた。
犬夜叉とは妖怪退治の仕事の話もあるようだ。
弥勒もただ黙って客人を監視していたわけではない。旅商人から聞く周囲の村々についての情報が、妖怪退治の役に立つこともあるのだ。
「それにしても、弥弥も珠珠も、帰ったら、まずただいまくらい言いなさい。心配するでしょう? あんなところで何をしていたんですか」
双子は悪戯を思いついたように、にこっと顔を見合わせると、犬夜叉の両側ににじり寄り、左右から彼の腕に抱きついた。
「弥弥、犬ヒトスジなの」
「珠珠も。犬やちゃん……じゃなかった。犬ヒトスジ」
「お、おい、こらっ!」
固まる弥勒。
珊瑚は思わず噴き出した。
「振られちゃったね、法師さま」
「……犬夜叉。あとでちょっと話があります」
「おれのせいじゃねえぞ?」
珊瑚には、弥弥と珠珠が法師の科白を真似たのだとすぐに解った。
だから、くすくす笑いながら夫の耳にささやいた。
「法師さま、あたしは法師さま一筋だからね」
軽く眼を見張った弥勒が妻を顧みる。
が、ふと別の方向からも視線を感じ、珊瑚は、この距離では確実に犬夜叉に聞かれたであろうことに気がついて、たちまち頬を染め上げた。
「珊瑚──」
「あっ、あたし! ちょっと翡翠の様子を見てくる」
あたふたと立ち上がり、逃げるようにして部屋を出ていく彼女を愛しげに見送り、弥勒は微笑した。
雨は完全に上がり、少し空が明るくなった。
〔了〕
2012.11.1.
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。