ともに生きる。
 その約束を胸に、闘いを生き抜き、夫婦になった。
 闘いはつらく、長く感じたが、夫婦となってからは、これほど幸せでいいのかと思うくらい、平和で満ち足りた夢のような日々が続いている。
 そして、二人の幸せの記録に、またひとつ、新たな幸福が加わる。

花結び

 明け方から痛み始めた。
 隣に眠る弥勒を気にして、珊瑚は痛みをこらえていたが、初めてのお産、それも臨月を迎えている不安もあって、遠慮がちに夫の腕に手を掛けた。
「法師さま……」
「珊瑚、どうした?」
「痛むの……お腹……どうしよう、まだ明け方なのに」
 弥勒ははっとして夜具から身を起こした。
「時間など気にしている場合ですか」
 手早く緇衣と袈裟を身にまとい、身支度をした弥勒は、妻を安心させるように髪を撫で、やさしい声でささやいた。
「すぐに楓さまを呼んできます。もしかしたら、今日──
 今日、産まれるかもしれない。
 念願の、珊瑚との子が。

 程なくやってきた楓は、しばらく珊瑚の様子を診ていたが、これならまだ大丈夫と判断し、必要なものをこまごまと法師に指示すると、ひとまず帰っていった。
 楓の姿がなくなると、途端に不安を覚えたが、忙しい彼女を引き止めておくわけにもいくまい。
 朝餉は、珊瑚にも食べやすいよう、粥を作った。
 とぎれとぎれに痛みを訴える珊瑚を励ましながら、彼自身も簡単に朝餉をすませた。

 日が昇る頃には、珊瑚が産気づいたことを耳にした犬夜叉と七宝がやってきた。
「何しに来たんです。まだ赤子は産まれていませんよ」
「楓ばばあに頼まれたんだよ。おまえらについててやれってな」
 いざというときの、使い走りのためらしい。
 弥勒はとりあえず、珊瑚が横たわる寝間に犬夜叉と七宝をいざなった。
 二人に気づき、珊瑚は微かに微笑んだが、つらそうだ。
「法師さま……」
 頼りなげな声に、弥勒は彼女の傍らに膝をつき、妻の手を握った。
「なんです?」
「少し、痛みが強くなった気がする……」
 どんな妖怪を前にしても怯むことのない勝気な珊瑚の弱々しい姿に、七宝は、弥勒以上にどうしてよいか判らない様子で、おろおろしている。
 室内には、水を張った盥、たくさんの布や麻糸など、楓から指示された必要な品が用意されている。湯も、台所にたっぷり沸かしてある。
 珊瑚は陣痛のたびに弥勒の手を握りしめ、弥勒は絞った手拭いで彼女の汗を拭ってやりながら、不安そうに妻を見守るばかりだ。
 犬夜叉と七宝は、珊瑚の気を遣わせないよう、彼女の視界に入らない部屋の隅っこに座っている。
「楓さまはまだなのか。報告してからだいぶ経つというのに」
「病人の様子を見に行かねばならんと言っておったぞ。今日は珊瑚にかかりきりになるかもしれんから、先に見廻っておくんじゃと」
 楓を必要としている村人は多い。
 村の巫女を独占してはいけないと、それは解っているのだが、初めてのお産への不安と緊張は募るばかりだった。
「楓さまの姿がないと、やはり、どうにも落ち着かんな」
 焦る気持ちを抑えるために、弥勒は小さく深呼吸をした。
「では、おらが楓おばばに化けてやろうか?」
「気持ちは嬉しいが、中身が楓さまでないと意味がありません」
 珊瑚がくす、と口許を綻ばせたが、すぐにその微笑は苦痛にゆがめられた。弥勒が慌てて妻の手を握る。
「もうすぐ父親になるんだろ? 少しは落ち着け、弥勒」
 気が立つ弥勒をなだめようと、犬夜叉も口を開く。
「何かあったら、すぐにおれが楓ばばあを呼びに行くことになってる。だから、もっとどっしり構えてろ」
「何かあってからでは遅いんです!」
 思わず声を荒げ、弥勒ははっとして口をつぐんだ。
 珊瑚の前だ。彼女を不安にさせてはいけない。
──そろそろ、呼びに行ったほうがいいか?」
 犬夜叉は案じるように弥勒と珊瑚を窺って言ったが、
「まだいい。楓さまが見舞う病人は、一人じゃないんだ。法師さま、あたしは大丈夫だから」
 答えた珊瑚が、夫を安心させるように、彼の手を握った。
 弥勒は彼女の手を握り返し、
「どうしてこの村には産婆がいないんでしょう」
 と、新たな愚痴を吐く。
「楓ばばあがその役割をしてるからじゃねえか?」
「楓さまもお年ですし、もう次の産婆がいたっていいのではありませんか?」
「まあな」
「そうじゃのう」
 思わず、犬夜叉と七宝がそろって大きくうなずいたとき、
「うぉほん」
 不機嫌そうな咳払いが聞こえ、引き戸が開いた。
「誰が年だと?」
「楓さま!」
 珊瑚のほうへ意識が集中して、誰も楓が家の中に入ってきた気配に気づかなかったらしい。
 楓は珊瑚の傍らに膝をついた。
「どうだね、珊瑚」
「すみません、楓さま……まだ、大丈夫です。でも、痛みの間隔が狭くなって……」
 巫女は重々しくうなずいた。
「そろそろかな。おぬしらは居間で待っておれ。法師どの、湯は沸かしてあるな?」
「はい、台所に」
「盥がもうひとつあったら、それに湯を用意してくれ。桶でもいい。湯の熱さはこちらで加減する」
 てきぱきと動く楓をつかまえ、弥勒は珊瑚には聞こえないよう、声を落としてそっと訊いた。
「珊瑚は……珊瑚は大丈夫でしょうか」
「どういう意味だね、亭主どの?」
「産褥で、生命を落とすことだってありますよね」
 珊瑚や仲間たちの前では口にすることのできない恐怖。
 弥勒のやや蒼ざめた真剣な顔を見つめ、当の珊瑚より弥勒の不安のほうが大きいのかもしれないと、楓は少し微笑んだ。
「心配せずともよい。わしは村の子供たちを何人も取り上げてきているし、それに珊瑚は闘いの中を生き延びてきた強い娘ではないか。気をしっかり持ちなさい。大丈夫、きっと無事に産まれる」
「どうか……妻と子を、よろしくお願いします」
 楓の言葉にいくらか救われたように、弥勒は深く頭を下げた。

 何もできない男三人は寝間を追い出された。
 楓さえ来てくれれば、何もかも彼女が取り仕切ってくれるという安心感がある。
「琥珀は?」
 ふと、犬夜叉が訊いた。
「珊瑚が、知らせるのは産まれてからでいいと言うので」
「そうか」
 それからは会話が途絶え、三人はただひたすらに刻を待った。

 思いつめたような面持ちで微動だにしない弥勒と一緒に、犬夜叉と七宝も、じっと座っていた。
 七宝はときどき寝間のほうへ顔を向け、そわそわと耳をそばだてていた。
 障子越しにどんどん陽が動いていくのが判る。


 何か聞こえた。
 気のせいだろうか。
 犬夜叉の耳がぴくりと震え、次の刹那、不意に元気な赤子の声が家中に響き渡った。
「!」
 息を呑んだ弥勒が立ち上がる。
 次いで、犬夜叉と七宝も張りつめたように顔を見合わせ、立ち上がった。
 息をつめ、期待に胸を弾ませて、寝間の引き戸の前まで移動した三人は、入室を許可する楓の声をじっと待っていた。
 が、やがて、
「おい。産声が二重に聞こえねえか?」
 犬夜叉の言葉に、耳をすませ、確かにその通りなので、弥勒は唖然と眼を見張った。

「二人とも女の子だ。まだ、どちらに似ているともいえないが、かなりの器量よしだぞ」
 赤子は女の子だった。
 そして、双子だ。
 赤子に産湯を使わせる楓のそばで、弥勒は珊瑚の手を強く握った。
「法師さま……」
「ありがとう、珊瑚。こんなに可愛い子を二人も。よく頑張ったな」
 汗で額に貼りついた髪をかきあげてやり、弥勒は妻をねぎらった。
 ほっとしたように微笑し、ぐったりと珊瑚は眼を閉じかけたが、だが、夫や赤子の姿を見ていたくて、すぐに眼を開けた。
 弥勒は一人ずつ、楓に我が子を抱かせてもらった。
 気持ちが昂揚して、うまく思考がまとまらない。
 ただ、幸福感が込み上げた。
 犬夜叉は弥勒の背後から珍しそうに赤子を眺め、七宝は行儀よく法師の隣に座り、赤子を抱かせてもらえる順番を待っていた。


 皆が引き上げたあと、簡単に夕餉をすませてから、弥勒は手燭を持って、妻と子供たちの眠る寝間へと灯りを運んだ。
「子らの様子はどうだ?」
「よく眠ってる」
 燈台に火を移すと、室内がぼうっと仄明るくなった。
 弥勒は、夜具に横たわる珊瑚と、珊瑚の隣に眠る二人の我が子の小さな顔を見遣る。
 三代の呪いを乗り越えて生まれた子だ。
 父も、祖父も、呪いが解けたあとに生まれたこの子たちの存在を、どれほどに喜ぶことだろう。
 弥勒は赤子の枕元に座り、手にしていた二つの花を、ひとつずつ、子らの頭の横に置いた。
「何、それ? ──綺麗」
「おまえの元結いを二本借りましたよ」
 珊瑚の注意を引いたその花は、元結いを使った花結びだった。
 それぞれ、白い元結いと紅い元結いが、可憐な花の形に結ばれている。
「目印です。先に生まれたほうが白い花。あとから生まれたほうが紅い花」
 弥勒は娘たちの枕元の花結びを指差して言った。
「この子たちは、私たち二人の想いが実を結んで、咲かせた花だからな」
 弥勒らしい印の付け方だと珊瑚は微笑む。
 彼女は手を伸ばし、花結びをひとつ取って、感心したようにそれを眺めた。
「法師さま、器用だね。名前が決まるまで、白と紅って仮に呼ぶ?」
「猫の名前じゃないんですから」
 弥勒は苦笑した。
 名前の候補は山とあるのだが、まだこれと決めたものはなかった。おまけに、産まれたのは予想もしていなかった双子である。
「じゃあ、白い花と紅い花」
「呼びにくいので、早く名前を考えましょう」
 自分の分の夜具を延べてから、弥勒は珊瑚の傍らに座し、彼女の手を取って、再び赤子たちを眺め始めた。
 見飽きることがない。
「法師さま」
「うん?」
「子が産まれたら……泣くんじゃなかったの?」
 悪戯っぽい珊瑚の言葉に、不意を突かれたように、弥勒の返事がわずかに遅れた。
 珊瑚が仮眠をとっている間、赤子たちを見つめているうちに目頭が熱くなり、そっと涙を拭ったことは誰にも内緒だ。
「大の男がそう簡単に泣いたりしません」
「ふふ。法師さまの涙が見られるかと思ったのに、残念」
 くすりと笑う珊瑚は、今までになかった奥深い美しさを漂わせていて、弥勒の鼓動が一瞬跳ねた。
 母になったから?
 この娘はどこまで美しくなるのだろう。
 愛しさとありがとうの意を込めて、弥勒は妻に口づけた。

 生まれたばかりの娘たちは、花というよりまだ蕾だが、珊瑚のような美しい女性に成長することを想像して、弥勒の口許に微笑が揺れた。
 この子たちとは同じ血が流れている。
 天涯孤独だった己の血を分けた子。
 愛しくて、愛しくて──
 そんな気持ちがあふれそうで。
 何か言おうとして、胸がつまった。
「法師さま……?」
 珊瑚のやさしい声がする。
「すまん、ちょっと」
 再び目頭が熱くなった。
 弥勒は片方の手で珊瑚の手を握り、もう片方の手で口許を覆った。
「……法師さま、あたし、眠くなっちゃった。この子たちにいつ起こされるか判らないから、少し眠るね」
 今度は涙を隠し通せる自信がなかったが、弥勒の心情を察した珊瑚は、やさしく微笑み、眼を閉じた。
 繋いだ手を握り合う。

 長い一日だった。
 けれど、どれだけ夜が更けても、眠ってしまうのが惜しかった。
 愛しい人と、待望の我が子に囲まれて、これ以上の幸せはないと弥勒は思う。
 火影が揺れる。
 瞼が重くなってくる。
 次に眼が覚めるのは、たぶん、双子の赤子が乳を求めて泣き出したときだろう。

〔了〕

2012.6.20.

匿名さんから、「珊瑚の初めての出産のこと(弥勒の慌て方?や、逆に落ち着き方?など)」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。