花眠る里
 何日も花を咲かせたまま、萎れもしない。
       香りも失わない。
       その橘の花は、まるで花開いた直後の最も美しい瞬間のまま、時間が止まっているかのようだった。
      (人見蔭刀、といったか)
       珊瑚と二人、雲母に乗って上空を往く弥勒は、娘の肩越しに彼女が持つ白い橘の花を見遣り、心の中でつぶやいた。
       夢の世界から現世に戻って五日目。
       肉体をこの世に置き去りにしたまま、精神だけが不老不死を得るという果実を食し、幻夢の世界へ迷い込んだ珊瑚を、蔭刀という男の亡霊に奪われそうになった。
       己が珊瑚と出逢う前に、あの男と珊瑚はどのような出会い方をしたのか。
       あのように珊瑚に執着する想いを、死してのち、あの男はずっと抱いていたのだろうか。
       己の知らないところで。
      「着いたよ、法師さま」
       眼下に退治屋の里が見え、珊瑚の声が彼を現実に引き戻した。
       今は無人のその地に、ひらりと雲母は降り立った。
       里人たちの墓に手を合わせてから、弥勒と珊瑚はゆっくりと里の中を巡った。
       どこもかしこも森閑としている。
       蔭刀の形見の花は、墓とは別の場所に埋めたほうがいいだろう。
      「破壊された里なんて見たくないと思ったこともあったけど……でも、やっぱり懐かしい」
      「どんな姿になっても、おまえの故郷に変わりはないからですよ」
       法師の言葉に、珊瑚は恥じるように視線を落とした。
      「法師さまと出逢う前、里が滅ぼされたと聞いたときは、仇を討って、里と一緒にあたしも果てるつもりだった」
      「珊瑚!」
       弥勒はたしなめるように珊瑚を見つめた。
      「今はそんなこと考えてないよ。仲間がいるし、ともに生きると法師さまと約束したもの」
       何か言おうとした弥勒の言葉を拒むように、珊瑚は歩を進め、前方にそびえる木へ視線を向けた。
      「あ、あの木」
       彼女はその木の前で立ち止まる。
      「法師さま。あたしが子供の頃、よく登った木だよ」
      「おまえが?」
       弥勒も珊瑚の隣に並んでその木を見上げた。
       大樹ではないが、災禍を逃れ、雄々しく葉を茂らせている。
       この木の根元なら。
       弥勒が傍らの珊瑚を見遣ると、彼女は同意するようにうなずいた。
       空はどこまでも青く続いている。
       白い花は可憐な花びらが瑞々しく、埋めるには忍びないほどだ。
       土を掘るために用意してきた苦無で二人は土を掘り、その中に花を納めた。
       まだ、土はかけない。
       法師が抹香を蒔き、経をあげ、ねんごろに供養をした。
       そして、その場所に弥勒と珊瑚は腰を下ろし、数日前の出来事を振り返った。
      「おまえは、そもそも、夢に迷い込んだという自覚がないのだな」
       弥勒が隣に座る珊瑚へ瞳を向けると、彼女は申しわけなさそうに眉をひそめた。
      「ごめん。何も覚えていない」
      「人見蔭刀という名は?」
      「誰?」
       弥勒は土の穴に横たわる橘の花を見遣る。
      「あまりいい記憶ではないだろうが、覚えているでしょう。奈落の罠で、里の手練れたちが呼び寄せられた城の若殿を」
       途端に珊瑚の表情が険を帯び、彼女は眼を伏せて悔しげに言った。
      「あれは奈落だ。奈落が化けた姿だった」
      「その若殿とはどんなやり取りがあったんです?」
      「どうしてそんなことを訊くの?」
       珊瑚は困惑したように弥勒を見つめた。
      「それが、今回のことと何か関係があるの?」
       里が滅ぼされた日のことは、珊瑚にとって、最もつらい記憶だろう。
       だが、弥勒は生前の蔭刀と珊瑚の関係をどうしても知りたかった。
      「ここへ同行してもらう代わりに、おまえにこの数日間のことを話す約束でしたね」
       話題を変えて言葉を紡ぐと、珊瑚はやや頬を紅潮させて彼を見た。
      「珊瑚はどこまで覚えています?」
      「橘の花をもらったことで法師さまと喧嘩して、気まずいまま床に就いたところまで」
       弥勒はうなずいた。
      「そのまま、おまえは夢を介して別の世界へ──私は常世の国だと思うのですが、とにかく別の世界へ行ってしまったんです」
      「でも、眼が覚めたら、隣に法師さまが寝てて」
      「私が連れ戻しに行ったんですよ」
      「……」
       にっこり微笑む法師にどきりとして、珊瑚は頬を染めてうつむいた。
       眠り続けていた自分がどんなふうだったかは、かごめからも聞いた。でも、夢の中での出来事は法師しか知らないのだ。
      「で、この唇の傷ですが」
      「うん」
      「そのとき、おまえに噛みつかれました」
      「……は?」
       一瞬、その言葉が理解できないかのように、珊瑚は大きく眼を見張って法師を見つめた。
      「あたしがそんなことするはず……!」
      「いや、私が悪いんですけどね。無理やりでしたから」
       法師は自嘲するように、あるいはどこか他人事のように、大きくため息を洩らす。
      「やっとのことで見つけた珊瑚が私のことをきれいさっぱり忘れていて、もう頭に来てしまって」
      「あ、あたしは法師さまを忘れたりなんかしない」
      「それが忘れていたんです。というよりも、時間が私と出逢う前に遡り、おまえは私と出逢わない未来へと進んでいた感じでした」
      「法師さまと出逢わない未来……」
       弥勒はいきなり珊瑚の腕を掴んで引き寄せ、彼女の上体を身動きできないように自分の腕の中へと閉じ込めた。
      「なっ、何を……」
       そうして、動きを封じた彼女の唇にすれすれまで己の唇を近づける。
      「知らない男にこういうことをされたら、どうします?」
      「……暴れる。反撃する」
      「でしょう? 私は反撃されてしまったわけですよ」
       表面は穏やかだが、彼の瞳がいささか淋しげであることに気づき、珊瑚の胸がちくりと痛んだ。
      「ごめん……法師さま」
      「癒してくれるって約束でしょ?」
       ああ、そういうことかと珊瑚は思った。
       身体を動かすことはできないので、少しだけ顔の角度を上げ、瞳を閉じた。すぐに瞼の裏の影が揺れ、二人は触れるだけの淡い口づけを交わす。
       弥勒が彼女の身体を解放すると、珊瑚は恥ずかしそうに、並んで座る法師との距離を少しだけ詰めた。
      「以前、かごめちゃんに、口づけで目覚めた姫君の物語を聞いたことがある」
       うつむき加減に珊瑚が言うと、法師は微笑ましげに彼女を眺めた。
      「どんな物語ですか?」
      「毒を口にした姫も、百年も眠り続けていた姫も、夫となる人の口づけで目覚めるんだ」
      「なるほど。おなごはそういう話が好きですな」
       ときめきを覚え、珊瑚はそっと法師の肩に頭をもたせかけようとしたが、
      「でも、おまえは目覚めてくれなかったんですよ」
      「えっ?」
       ばつが悪そうに、彼を見た。
      「そ、そうなの?」
      「目覚めるどころか刃向かってきた。噛みつかれたと言ったでしょう? 化け山椒魚に操られたときといい、つくづくおまえは敵には廻したくないな」
      「……ごめんなさい」
       しゅんとなる彼女の肩を弥勒はさりげなく抱き寄せた。
      「謝らなくていい。おまえはおまえ自身で私の存在を思い出してくれたのだから。私が誰かまでは解らなかったが、大切な人だと認識してくれた。それで充分ですよ」
       言葉が途切れ、二人は静かに花を見つめた。
       抹香の匂いが仄かに漂う。
       法師の肩に頭を寄せる珊瑚の肩を、弥勒の腕が力強く抱いていた。
      「おまえからも聞かせてほしい。おまえの目に、人見蔭刀という人物はどう映ったのか」
      「どうしてそんなにこだわるの?」
      「人見どのにおまえを奪われそうになったんです。私には聞く権利があると思うが」
      「……」
       珊瑚は少し考えた。
      「手厚く傷の手当てをしてもらったり、親切にしてもらったけど、あれは奈落で、全て、あたしを騙すためにしたことだ」
      「犬夜叉と闘うために城を出るとき、彼はおまえに何か言ったか」
      「戻ってこいって」
       珊瑚の肩を抱く弥勒の手にぐっと力が込められた。彼の変化を感じ取り、彼女はわずかに眼を見張る。
      「それでおまえは?」
      「あたしが大怪我をしていたことは知っているだろう? 犬夜叉に勝てても相討ちだろうと思っていた。だから、城に戻るつもりなどなかった」
      「そうか」
       静かに珊瑚に向き直り、弥勒は彼女を正面から流れるように抱きしめた。
      「法師さま……」
      「では、夢の中で私が遭遇した出来事を、順を追って最初から話しましょう。おまえが目覚めなかった朝のことから」
       法衣に顔を埋めると、抹香の匂いがふわりと香った。
       最近、こんなふうに誰かに抱きしめられ、橘の香りに包まれたような気がするが、それがどういう状況下で起こったことなのか、珊瑚にはどうしても思い出せなかった。
      (でも、花橘の香りよりずっと)
       抹香の匂いのほうが慕わしいと、彼女は法師の肩に頬を押し当てた。
       弥勒から聞いた話は、現実に自分の身に起こったことだとは、すぐには信じられなかった。
       ただ、時じくの香の木の実の禁断の力を恐ろしいと思った。
       食した者の精神を永遠に生きながらえさせ、記憶までをも自由に操作してしまう。
       法師が追ってきてくれなかったら、自分は一生、彼のことすら思い出さずに、閉ざされた幻夢の世界に囚われ続けていたかもしれないと思うとぞっとした。
       珊瑚は、自分を抱きしめていてくれる弥勒の背に両手を廻した。
      「ありがとう、法師さま。あたしをこの世界に連れ戻してくれて」
      「退治屋の里が滅びない未来は、おまえの望む未来かもしれんが……」
      「ううん。それは現実じゃない。現実なら嬉しいけど、偽りの未来なんて」
       失われた里に対する思いが、彼女の中に強く残っていたのかもしれない。でも、そんな感情に負けてしまうのは嫌だ。
      (法師さまの、いない未来なんて──)
       珊瑚は弥勒の背に廻した両腕にきゅっと力を込めた。
      「あたしが出会った若殿は、途中までは奈落ではなく、当人だったのだろうか」
      「それは判りません。人見どの自身がおまえと出会ったのか、すでに死霊となり、人見どのに化けた奈落と話すおまえを見ていたのか。だが、珊瑚への気持ちだけは、きっと本物なのでしょう」
       人見蔭刀が生きていたら、珊瑚の後ろ盾となり得る可能性があった。
       里の仲間たちの仇を討つため、珊瑚が蔭刀の力を借りていたら──そうしたら、彼女はともに行動する蔭刀に想いを寄せただろうか。
      (そんな未来はおれが認めない)
       弥勒は無言で珊瑚の身体を固く抱いた。
       二人で花に土をかける。
       橘の花は、眼を開けたまま眠る麗人のように見えた。
       埋め終わり、立ち上がると、弥勒と珊瑚は再び手を合わせ、人見蔭刀の冥福を祈った。
       風が吹き抜け、香りが揺れる。
       むせ返る記憶に眩暈を覚えた。
      「雲母」
       木の上にいた雲母が軽やかに地に降りて、珊瑚の肩へと飛び乗った。
       風に煽られ、娘が片手で額髪を押さえる。
      「行きましょうか、珊瑚」
      「うん」
       法師と二人で踵を返す。
       過去の幻影に、珊瑚は静かに別れを告げた。
       この里には花が眠る。
       法師と娘、二人の記憶の中に刻まれて。
〔了〕
2012.9.6.
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。