果てなきものに漂う
深夜であった。
犬夜叉たちの一行は、その日、道端の古い御堂を宿代わりにしていた。
かごめは七宝と、珊瑚は雲母と寄り添って横になり、男性陣は座ったまま壁に背を預けて、それぞれが眠りに就いている。
しんとした闇の中、眠りの浅い弥勒は、ふと小さな声で眼を覚ました。
「……行くな」
珊瑚の声だ。
彼女は眠っている。
つぶやくような寝言だったが、次第に苦しげな呼吸が重なり、弥勒は薄く眼を開けて、彼女の様子を見守った。
「……行かないで……」
うなされているようだ。
起こしたほうがいいだろうか。
壁にもたれて座る姿勢は崩さず、弥勒が逡巡していると、
「──犬夜叉!」
低く鋭く、珊瑚が叫ぶようにささやいた。
「おい」
いつの間にか身を起こしていた犬夜叉が、珊瑚を揺り起こすのが見えた。弥勒はそっと眼を閉じる。
「あ……」
目覚めた珊瑚の混乱したような声が聞こえる。
「大丈夫か? つらい夢でも見てたんだろ」
「あ、大丈夫。起こしてごめん」
密やかな犬夜叉と珊瑚のやり取りに、何故か、弥勒は声をかけることができなかった。
小さく言葉を交わす二人の気配を鋭く意識しながら、彼は眠ったふりをした。
翌朝、珊瑚はいつもと変わらない様子だったが、あまり顔色がよくなかった。
一行は簡単な朝餉をとり、すぐに出発する。
荷を持ち、歩き出そうとする珊瑚に、犬夜叉がさりげなく近寄り、
「無理すんな」
と小声で言った。
「平気。ありがとう」
珊瑚も短く答える。
それだけのことだったが、弥勒は思わず二人から眼を逸らしていた。
見たくないものを見てしまったように、わずかな動揺を覚えた。そんな自分自身に違和感を覚える。
(嫉妬? まさか、私が犬夜叉に?)
法師の視線が、一行の先頭を歩き出す犬夜叉に向けられた。
(馬鹿な。犬夜叉には、かごめさまも桔梗さまもいるではないか)
しかし、だからといって、珊瑚が犬夜叉に惹かれないという保証はない。
何よりも、珊瑚が寝言で呼んだのが犬夜叉の名前であったということが、法師の心に深くよどんだ。
前を行く犬夜叉、かごめ、七宝の後ろを、雲母を肩にのせた珊瑚と並んで歩く弥勒は、ちらと彼女を見た。
気丈な娘だ。
先日、彼女は弟の琥珀を己の手に掛けようとし、自らも死を選ぼうとしたばかりだ。
琥珀に人の心が残っていることを知り、弟を殺すことは思いとどまったが、彼が奈落の手中にあることは変わらず、彼女の心にわだかまる不安は今も大きいままだろう。
弥勒はそんな珊瑚のことが気にかかっていた。
出会ったときから、彼女はずっと崖の淵に立たされ、常に極限での闘いを強いられている。
同様に苛酷な境遇にある彼自身や犬夜叉と違うのは、身に降りかかった残酷な現実を、それが否定であれ肯定であれ、受けとめ、己を納得させるだけの時間が彼女にはなかったことだ。
かごめは身ひとつでここへ来ているため、身辺にも後方にも憂いがない。
七宝は父親の仇をすでに討ち、妖怪の子ゆえの気丈夫さもあるだろう、犬夜叉やかごめ、仲間という精神的に寄りかかれる対象がある。
だが、珊瑚は悩みを一人で抱え、自分自身を追いつめてしまいやすい。
(せめて、私が珊瑚を支えてやりたいと思うのは思い上がりだろうか)
けれど、近づきすぎるのもよくないと彼は感じていた。
あまり近づきすぎては、彼女への気持ちが暴走しそうだ。
「村に着いたわ」
かごめの声で、弥勒は我に返った。
いつの間にか陽も天頂を過ぎ、一行は、大きな村落に辿り着いた。
名主の家で休ませてもらうことになり、それぞれが思い思いに休息をとることにした。
あてがわれた部屋で飛来骨を下ろした珊瑚に、弥勒が声をかけた。
「珊瑚、一緒に散歩でもしませんか?」
「え? いいけど……」
法師に誘われ、珊瑚は驚いたような顔をしたが、それでも少し嬉しそうに、恥ずかしげに、黙って彼についてきた。
二人は広々とした田を囲む用水路に沿って歩き、村外れの大きな木の下に足をとめた。
やわらかな草の上に弥勒が腰を下ろすと、珊瑚も彼の隣に座る。
弥勒は珊瑚の顔を柔和に見つめた。
「珊瑚は、近頃、ちゃんと眠れていますか?」
「えっ?」
「睡眠不足は身体によくありませんよ」
珊瑚は困ったように眼を伏せたが、弥勒の気遣いは嬉しかったらしく、ほんのりと頬を染めた。
「……うん。ありがと。夢見はよくないんだけどね。眠れてはいる」
低い声で答える娘の横顔を、弥勒は探るような瞳で見つめた。
「夢見が悪いんですか?」
「うん。よく、同じ夢を見る」
犬夜叉の夢だろうか、と、弥勒はわずかに眉をひそめる。
「珊瑚、夢占をしてあげましょうか」
「夢占? 法師さま、そんなこともできるの?」
「まあ、それなりに」
有り体にいえば、珊瑚の夢を聞き出すための口実だが、弥勒はにっこりと微笑んだ。
「やってみましょう。夢の内容を話してくれませんか?」
「でも、占ってもらうほどの内容はないんだ。同じ夢をくり返し見るだけ。その意味は自分でもよく解っている」
弥勒は何気ないふうに、視線を空へ投げた。
「人の意識は果てしのないものです。そこに捕らわれ、出口を見失うと身動きが取れなくなる。同じ夢ばかり見るのは疲れるでしょう? 気分転換に話してください」
珊瑚はじっと弥勒を見つめた。彼もまた長い間、悪夢に苦しめられてきたのだろうと、そう感じた。
「以前ほどひどい夢じゃないんだ。ただ、置いていかれるのがつらくて──」
「犬夜叉に?」
彼女は驚いて法師を見遣る。
「なんで? 琥珀があたしを置いていく夢だよ」
「でも、珊瑚は犬夜叉の名を……」
それを聞き、珊瑚は慌てたように、熱さを覚えた頬を両手で覆った。
「やだ、もしかして、寝言、言ってた?」
「犬夜叉って言ってましたよ。あと、行かないで、って。とても切なげに」
真面目くさって言う弥勒を、珊瑚は赫い顔でちらと睨む。
「法師さまのスケベ。人の寝言なんか、聞かないでよ」
「だって、しょうがないでしょう。皆、同じ場所で寝ているんですから」
どうして犬夜叉なのだろう。それを知りたい。
仲間内で、彼女は犬夜叉を一番信頼しているのだろうか。
(私よりも……?)
「法師さま、あたしのこと、心配してくれたんだね」
うつむく珊瑚は嬉しげに、頬を仄かに紅潮させている。
「でも、行かないでって言ったのなら、琥珀にだよ。どんな夢か、だいたい想像がつくだろう?」
「どうして犬夜叉を呼んだんです?」
辛抱強く法師は問う。
「夢の中に犬夜叉もいるんだ。あたしは走り去る琥珀を引き止めたくて、でも、身体が動かない。それで、犬夜叉が動けないあたしの代わりに琥珀を追おうとするんだ」
「かごめさまや七宝は?」
「あたしに見えているのは琥珀と犬夜叉だけ。でも、そこにみんないると思う。かごめちゃんと七宝は、たぶん、あたしより後ろにいる。前へ出て、怪我をしてほしくないって思うから。雲母はきっと、あたしの肩か、足許にいる」
「私は?」
珊瑚は少し考えるような表情をした。
「あたしが勝手に思ってるだけだけど……法師さまは、あたしの真後ろにいる。あたしが早まって飛び出さないよう、あたしの腕を押さえてくれてるんじゃないかって気がする」
眼を見張った弥勒が彼女の瞳を覗き込むようにすると、珊瑚は恥ずかしそうに下を向いた。
「だから、あたしは動けないんだ」
「では、犬夜叉の名を呼ぶあれはなんですか?」
「ここだけの話にしてよ?」
村外れに二人きり、他に人影もないのだが、声をひそめる娘に合わせ、弥勒はうなずき、内緒話をするように、二人は顔を寄せ合った。
「琥珀を追おうとしている犬夜叉が、何ていうか、ちょっと勢いが乱暴でさ。琥珀を殴り倒しかねないほどだったから、心配で、つい……」
「えっ? ではつまり、犬夜叉を制止しただけ……ですか?」
「そう」
珊瑚はうなずく。
ほっとしたような、気の抜けたような──解ってみると、何でもないことなのだ。
「珊瑚には、琥珀の件で、犬夜叉のことが強く印象に残っているのだな」
「うん。犬夜叉の言葉と、それに、みんなの気持ちも嬉しかった。でも、法師さま。みんなに余計な心配をかけたくないから、こんなこと、誰にも言わないでね」
弥勒はすかさず珊瑚の手を両手でぎゅっと握りしめた。
「私になら、構いませんよ。人の悩みを聞くのも法師の務め。それが美しいおなごなら、なおさらです」
珊瑚は胡乱な眼差しになって、おもむろに法師の手をつねる。
「法師さまの魂胆は、始めからそんなもんだよね。で、夢占はどうなったの?」
「そうですな」
“夢に罪人の走る所を見れば今迄の困難なりし事件はすべて解決なさん”
琥珀を罪人とするのは心苦しいが、そう捉えれば、これは吉夢だ。
(いや、待て。犬に吠えかかられ、驚かされると凶という判断もあったな)
犬夜叉を犬と見做しては、それこそ気分を害され、吠えかかられそうな気もするが。
弥勒は小さく苦笑した。
「凶夢とは言い切れませんが、一応、悪い夢を吉夢に転ずる夢違えをしましょうか」
「夢違え?」
座ったまま、弥勒は珊瑚に身を寄せると、正面から彼女の肩に手をかけ、彼女の耳元に唇を寄せ、ささやいた。
「──“夢はみづ 難波の事もいはでよし ちがひやり戸のうちに寝たれば”」
あまりに近い距離で、ほとんど抱き寄せるといっていいくらいに身を寄せた法師にささやかれ、珊瑚は硬直してしまった。
「あの、法師さま……」
「悪夢を払う夢違えの歌です。陰陽の法ですが」
「効くの?」
「さあ、私の専門ではないので。ですが、今夜、いい夢が見られたら、このまじないが効いたということですよ」
身体を離した弥勒のほうを、珊瑚はそっと窺った。
「……法師さまは、いつも、こんなふうに女を口説くんだ?」
「あ、口説かれたかったんですか? じゃあ、今から──」
「口説かんでいいっ」
照れくささを誤魔化すように、珊瑚は勢いよく立ち上がった。
そのまま踵を返してしまう。
「あっ、珊瑚、待ちなさい」
さっさと行く彼女のあとを、慌てて立ち上がり、弥勒も追った。陰鬱だった気分は、嘘のように晴れていた。
名主の家に泊めてもらった一行は、翌朝、村を出発した。
昨日のように犬夜叉とかごめ、そして七宝が歩く後ろを、弥勒と珊瑚が歩いていく。
少し歩調が遅い珊瑚に合わせ、法師も歩調を落とすと、雲母を肩にのせた珊瑚は、前を行く犬夜叉たちに聞こえないよう、用心しながら、小声で弥勒に話しかけた。
「法師さま。夢違えの効果、あったみたい。夕べはいい夢を見たよ」
「それはよかった。どんな夢でした?」
刹那、娘の頬がほんのりと染まり、彼女は彼から眼を逸らした。
「それは教えない」
「琥珀がいましたか?」
「琥珀はいなかったけど、でも、法師さまが……」
うっかりと応じてしまい、はっとした珊瑚は、真っ赤になって口をつぐんだ。
「私が? 犬夜叉ではなく?」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
足を速める娘を、法師は楽しげに追いかけた。
「寝言で私の名前を呼んだりしてもらえると、嬉しいんですが」
「そんなの知らん!」
すがすがしい空の下、二人は仲間たちと旅を続ける。
人の意識は果てなきものだと思う。
夢は、その深淵の表層を覗く水鏡のようなものかもしれない。
(では、人を想う心もきっと……)
弥勒は、並んで歩く娘をそっと見つめた。
この娘と同じ想いに漂いたいと、そう願う自分がいる。
「珊瑚。悪い夢を見たときは私が払います。一人で悩まず、つらいことは打ち明けてください」
「……ありがとう」
はにかむように、淡く微笑み、珊瑚は嬉しそうに弥勒を見て、うつむいた。
芯の強い、気丈な娘。
(そして、美しい)
果てなきものに捕らわれていたのは、実は己ではないかと弥勒は思った。
〔了〕
2014.2.14.
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。
夢占いは安倍晴明の『神霊感応・夢判断秘蔵書』を参照しています。