飛泉の陰で

 井戸の向こうから数日ぶりに戻ってきたかごめは、いつもより大きな荷物を持ち──実際に持っていたのは犬夜叉だが──ご機嫌だった。
「そりゃあね。やっと、試験が終わったんだもの」
 出迎えた弥勒と珊瑚、そして七宝に、かごめは満面の笑みを浮かべて言った。
「ほう。手応えありですか」
「……弥勒さま、それを訊く?」
 かごめはほっとため息をつく。
「でも、いいの。今のあたしの全力を出しつくしたんだし」
「悔いは残りませんか?」
「えっ? そりゃ、結果がさんざんだったら、悔いは残るけど」
 しきりとかごめをからかう弥勒を見て、珊瑚が二人の間に割って入った。
「それにしても、かごめちゃん、なに持ってきたの?」
「ちょっとみんなで気分転換したくて。犬夜叉、いいでしょ? 一日くらいなら」
「気分転換って、何する気だ?」
 面倒そうに犬夜叉が答える。
「この前、通った滝を覚えてる? あそこで一日遊びたいのよ」
「滝?」
 どこだっけ、と怪訝な表情を浮かべる犬夜叉に、弥勒が、ああ、とうなずいた。
「何日か前に素通りした場所ですな。覚えてませんか、犬夜叉。綺麗な場所だとかごめさまが喜んでいたあそこです。裏見の滝ですよ」
「ああ、恨みの滝か。でも、そんなところに長居したら、怨霊が出るんじゃねえか?」
 あまりよく覚えていないらしい。
「……裏見の滝です。裏からも見られる滝という意味です」
 かごめは苦笑いしたが、一日の休暇には応じてもらえそうだ。

 かごめが気に入ったその滝は、彼女が試験のために現代へ帰る数日前に通った山の中にあった。
 犬夜叉たちは再びそこを訪れ、真夏の一日を涼しげな水辺で過ごすことにした。
 男性陣を外に待たせて、かごめと珊瑚は着替えるために滝のそばの洞穴に入った。
 かごめが持参した荷物の中に、珊瑚の分の水着もある。
 髪を高く結い上げ、鮮やかな色のビキニを身につけた珊瑚は、気まずそうにかごめを顧みた。
「この上には何を着ればいいの?」
「それで全部よ」
 珊瑚は驚く。
 まるで裸同然ではないか。
 珊瑚の水着は、鮮やかな瑠璃色のホルターネックのビキニだった。胸元にはスカーフのような形をした小さなリボンがあしらわれている。
「かごめちゃんのほうが布が多い……」
 恨めしげな珊瑚の視線にかごめは苦笑した。
「珊瑚ちゃんなら、スタイルいいし、それくらい着こなせると思ったのよ。サイズもぴったりでしょ? 珊瑚ちゃんが寝ている間に退治屋の服を測らせてもらったんだ」
「いつの間に……」
 悪びれないかごめの無邪気さに、珊瑚も毒気を抜かれてしまう。
 一方のかごめの水着はタンキニで、淡い水色に白の細いボーダー柄だ。
「一応、パレオも持ってきたけど、最近の弥勒さま、真面目に頑張ってるし、ちょっと弥勒さまの目を楽しませてあげようかなと」
「あげなくていい!」
 真っ赤になりながら珊瑚は拒絶するが、かごめの基準では身支度は終わったので、彼女は珊瑚の手を取って、洞穴から外に出ようとした。
「かっ、かかかかかごめちゃん!」
 珊瑚の基準ではありえないくらい肌を露出した格好で、かごめに手をひっぱられながら、彼女は転げ出るように洞穴の外へ出た。
「……っ!」
 洞穴を出たところで珊瑚は立ちすくむ。
 待っていた男性陣が一斉に珊瑚を見た。
「きゃあっ!」
 慌てて両手で己の胸を抱きしめ、珊瑚は後ろを向いたが、法師に背後を見せるのは却って危険と気づき、そろそろと身体の向きを前へ戻した。
 水着姿はばっちり見られてしまった。
 大胆すぎる衣裳にさすがに弥勒も驚いて、絶句している。
 彼の頬が赫く見えるのは、まぶしい陽射しのせいだろうか。
「おい、珊瑚。そんな格好してると、かごめみてえに妖怪と間違われるぞ」
 法師の隣で犬夜叉がぞんざいに言ったものの、明らかに照れが含まれたその口調に、弥勒は犬夜叉の首を両手で押さえ込み、回れ右をさせた。
「かごめさま、おすわりおすわりおすわり!」
「え……? お、おすわり」
 つられて口走ってしまった言霊に、犬夜叉は地に沈む。
「何すんだよ!」
 けれど、犬夜叉が顔を上げるとすんなりとした足が目の前にあり、それはいつものミニスカートと違って付け根まで露出していた。
「ごめんね。でも、犬夜叉がデリカシーのないこと言うからいけないのよ」
 くすくす笑いながら手を差し伸べてくれたかごめもまた、珊瑚ほどでないにしろ肌を出していて、犬夜叉は赤くなった顔をふいと背けて立ち上がった。
「おらはかごめも珊瑚も、その格好、可愛いと思うぞ」
「みう」
「ありがと、七宝ちゃん。雲母」
 嬉しそうに七宝と雲母に笑顔を向け、かごめは弥勒に近寄って、折り畳んだ紙を渡した。
「はい、弥勒さま。弥勒さまの着替えは洞穴の向かって左側に置いてるわ。着方はここに書いておいたから」
 法師が相手ではさすがに珊瑚みたいに隣について教えるわけにはいかない。
「え、私? 犬夜叉でなく?」
「犬夜叉はたぶん、火鼠の衣を脱ぎたがらないだろうから」
 もちろん、それも本音だが、実をいうとお小遣いが足りなかった。
 けれど、暑そうな法衣をまとう弥勒には、珊瑚と一緒に水着を用意してあげたかったのだ。
「珊瑚ちゃん、あたしたち、あっちの広いところで先に遊んでるから。珊瑚ちゃんは水着に慣れたら、あとから弥勒さまとゆっくり来て?」
「う、うん」
 まだ恥ずかしそうな珊瑚は、眼を伏せてうなずく。
 そうして、洞穴の前で珊瑚が一人で弥勒の着替えを待っていると、やがて、オリーブグリーンのサーフパンツに着替えた弥勒がゆったりと出てきた。
「なんとも開放的な姿ですな」
 手にした錫杖と右手の手甲と数珠が弥勒の名残ともいえようが、がらりと印象の変わった法師を見て、珊瑚は頬を赤らめる。
「これが一緒に置いてありました。珊瑚に渡すようにと。腰に巻けばいいそうですよ」
 弥勒から手渡された布を珊瑚は両手で広げた。
「あ、これが“ぱれお”なんだ」
 白を基調に線画で幾重にもリーフが描かれたパレオを、珊瑚は急いで腰に巻いた。
「かごめさまの国では、みな、このような格好をしているのですか?」
「普段はこんなじゃないよ。水浴びをするときだけ、こういう水着を着るんだって」
 腰から下をパレオで覆うと、少しは恥ずかしさが和らいだが、それでも弥勒の視線が気になって仕方ない。自然と顔がうつむいてしまう。
「行きましょうか」
「……」
「みなのところに行くのが恥ずかしいなら、少しこの辺りにいましょうか」
「……」
「嫌ですか? 私と二人だけで」
 弥勒が手を差し出すと、珊瑚は躊躇いがちにその手を取った。
 二人は滝のほうへ歩き出す。

 広々とした滝は二段になっている。
 ひとつ目も二つ目もかなりの幅があり、ひとつ目が、八尺ほどの高さから落ちてくる裏見の滝。そこから水は大きく平らな岩盤の上を流れ、五尺ほどの高さの二つ目の滝を形作っている。
 かごめたち三人と雲母は、その二つ目の滝の下の広い川で遊んでいるはずだ。
 錫杖を岸に置き、弥勒は珊瑚の手を取って、ひとつ目の滝の裏側に入った。
 ひんやりと涼しい。
 水の紗の向こうから洩れる光が揺らめいている。
 足許の岩はところどころ美しい苔に覆われ、浅瀬ながら水に足を浸すこともできた。
 弥勒は、傍らの珊瑚をちらりと見た。
 もう、腕で胸を隠してはいないが、緊張で固くなっていることは明らかで、あまり彼と目を合わせようとしない。
 弥勒は視線を彼女の横顔からさらに下へと移動させた。
 すらりとした肢体が、裸に近い格好で、瑞々しくすぐそばにある。
 頬が熱くなるのを感じ、あまり意識しないように、弥勒は視線を滝の水へと戻した。
「水着というのは、水浴びをするときの衣だと言っていたな」
「……うん」
「では、滝を眺めているだけではつまりません」
 弥勒は珊瑚の腕を掴んでぐいと引き、一緒に水の中へ入った。
「ほ、法師さま……!」
 最初は戸惑うような表情を見せた珊瑚だったが、弥勒がふざけて手で受けた滝の水を弾くように珊瑚へと浴びせかけると、彼女も負けずに滝の水を法師にかけ返した。
 滝の裏側の閉ざされた空間で、二人だけの時間が流れる。
 無心にじゃれあい、水と戯れながら、子供のように追いかけっこを続けた。
──珊瑚!」
 不意にバランスを崩し、よろけた珊瑚の腕を弥勒が掴み、彼女の身体を支えた。
 肌が触れ、珊瑚が小さく息を呑む。
 中途半端なその姿勢のまま、しばらく動くこともできず、二人は息をひそめて見つめ合った。
「……」
 静寂に滝の音だけが響く。
 言葉などなくていい。
 じっと見つめてくる弥勒の熱を帯びた視線だけで充分だった。
 珊瑚の身体を引き寄せて、彼は彼女を正面から抱きすくめた。
 法師の肌をじかに感じた珊瑚は反射的に身を強張らせたが、覚悟を決めたように、ぎゅっと眼をつぶって彼の腕に身を委ねた。
 珊瑚の水着の結び目に触れた法師がそっとささやく。
「刺激的だな。これを解けば……」
「馬鹿。スケベなこと、考えないで」
「何もしませんよ。その代わり、私を見てください」
 恐る恐る顔をあげた珊瑚に、弥勒はゆっくりと顔を寄せた。
 珊瑚も眼を閉じる。
 唇が触れ、珊瑚の両手が躊躇いがちに弥勒の背中をそろそろと這った。それに応えるように、弥勒は珊瑚をさらに強く抱きしめる。
 滝の音が涼しげに響く。
 向こうで犬夜叉たちが水遊びをしている声が、やけに遠くに聞こえていた。
 弥勒と珊瑚は、静かに唇を触れ合わせたまま、じっと抱き合っていた。
 暑い大気と水の鼓動のはざまで、ひとつに融け合ってしまいそうだ。
「弥勒さまー! 珊瑚ちゃーん!」
 不意にかごめの声で名を呼ばれ、二人は思わず身を離して内と外を隔てている一面の水の壁を見つめた。
「そろそろこっちへ来られるー?」
「今行きます、かごめさま!」
 かごめの気配が向こうへ遠ざかり、ほっとすると同時に、珊瑚は当惑したような表情になった。
「どうしよう、法師さま。見られちゃったかな」
「大丈夫。かごめさまの声からすると、向こうからは滝の奥に人影は見えても、何をしているかまでは判らなかったらしい」
 弥勒の言葉に、珊瑚は少し安心したようにうなずいた。
 滝の外に出て、低い岩場伝いにもう一段滝を下りると、こちらも水遊びに興じていたらしい、犬夜叉や七宝、雲母がいた。
 犬夜叉と七宝は上半身の衣を脱ぎ、袴だけの姿になっている。
「こっちよー」
 楽しそうにかごめが運んできたのは大きな丸い緑色の果実だ。
「かごめさま、何ですか、それは」
「西瓜よ。うちのじいちゃんからの差し入れ。川で冷やしてたの。みんなで西瓜割りしましょうよ」
「棒ってのはこんなんでいいか?」
 西瓜を割るために調達してきたらしい棒をかかげ、犬夜叉が確認する。
「うん。いいんじゃない」
「おら、こんな遊び初めてじゃ。どうやるんじゃ?」
「それはね」
 かごめは大きな手拭いで七宝に目隠しをすると、棒を持たせ、その場でくるくると小さな彼の身体を廻した。
「かっ、かごめ! そんなことをすると、眼がまわってしまう!」
「……十回。はい、いいわよ、七宝ちゃん。みんなで西瓜のある場所を教えるから、その場所にある西瓜を叩いてね」
 すでに仔狐の身体はふらふらしている。
 方向感覚が判らなくて、「右」だの「左」だの聞こえてくる複数の声の通りに動いていたが、声の指示は必ずしも統一されてはいない。
「そこだ、振り下ろせ!」
「たあっ!」
 犬夜叉の声に従って棒を振り下ろすと、見事に地面を叩いてしまった。
「……あれ?」
 手拭いを外してみると、西瓜はずいぶん離れたところにある。
「犬夜叉! でたらめを教えたな!」
「信じたおまえが馬鹿なんだよ」
「このおー!」
 楽しそうに笑うかごめたち三人を尻目に、七宝は外した手拭いを犬夜叉に押しつけた。
「なら、犬夜叉がやってみい! 結構難しい遊びなんじゃ」
「おう、おれなら楽勝だぜ」
 きゅっと手拭いを結んで視界を覆った犬夜叉は、七宝から棒を受け取った。
 かごめに十回回転させられ、棒を構えた。
 七宝の目配せで、かごめたちはばらばらの方向を指示しようと犬夜叉が動くのを待つ。
 しかし、ふっと不敵な笑みを浮かべた犬夜叉は、すたすたと西瓜の前まで歩いていき、棒を軽く振り下ろしただけで見事に果実を割ってしまった。
「ほう」
「すごいじゃないか、犬夜叉」
「あーっ!」
 驚きの声や感嘆の声、落胆の声が一斉に上がり、犬夜叉は得意げに手拭いを外す。
「どうでい」
「犬夜叉! 何かずるをしたな。目隠しをずらしておったな」
「匂いで判るに決まってんだろ」
 悔しそうな七宝に対し、勝ち誇ったような犬夜叉だったが、かごめの表情を見て引きつった。
「何で割っちゃうの、馬鹿っ! あたしもやりたかったのに。弥勒さまや珊瑚ちゃんにもやらせてあげたかったのにっ」
「ま、まあ、かごめさま。やり方は解ったので、また別の機会に違うものを西瓜に見立ててやりましょう」
 弥勒や珊瑚、七宝までもがかごめをなだめ、割れた西瓜をみんなで食べる作業に移る。
 人数分に西瓜の切り身を分け、思い思いに川に足を浸して味わうことにした。
 弥勒がふと見遣ると、いささかばつが悪そうな様子の犬夜叉だったが、かごめと並んで川岸に腰を下ろし、美味そうに西瓜を食べている。
 一緒にいる小さな仔狐も楽しそうだ。
 珊瑚は、かごめたちから少し離れた場所で、同じように足を川に浸して座っていた。
 弥勒が自分の分の果実と錫杖を持ってそちらへ向かおうとすると、彼の気配に気づいた珊瑚がこちらを見てふわりと笑った。
 きらきらときらめく川面を背景に見慣れない異国の衣を着て微笑む彼女はとても美しい。
 結い上げた髪の先が風になびく。
 じっと見つめていると、ふと珊瑚は恥ずかしそうに顔をうつむかせ、頬を染めた。
 微笑して、弥勒は珊瑚の隣に腰を下ろした。
「なんか緊張する。……あたしも法師さまも、こんな恰好してるから」
「それはお互い様ですよ」
 雲母はすでに西瓜を食べ始めていたが、珊瑚は食べずに弥勒を待っていたようだ。
 いただきます、と二人で言って、赤い果実に齧りついた。
「あ、すごく甘い」
「ああ、美味いな」
「でも、口の周りが思いきり濡れちゃうね」
「大丈夫、ここは川ですから」
 足を浸している川の水を片手にすくい、弥勒はふざけて珊瑚の口許にかけた。
「ちょっ、やめてよ。……あ、法師さま、見て」
 珊瑚の視線をたどると、二人のすぐ後ろで西瓜を食べていた雲母の口吻が赤く染まり、べとべとになっている。
「洗ってやらなきゃ」
 くすくすと笑い出した二人は、満ち足りた気分で顔を見合わせた。
 これを食べたらもう一度川に入ろう。
 水着というものには驚かされたが、もう二人とも肌の露出にも慣れたようで、これも普段とは違う楽しさのひとつのように感じられた。
 明日からはまたもとの生活に戻るけれど、とびきりの一日をかごめにもらった。
 並んでゆっくり西瓜を味わう二人は、闘いが終わったら、またみなで今日みたいな一日を過ごしたいと、そんなことを考えていた。

〔了〕

2012.7.23.

tawaraさんから、「水着姿の珊瑚と弥勒さま。水着珊瑚を眺めながら頬染めてる弥勒様・照れてる珊瑚」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。