君の息吹
その村に弥勒と珊瑚が到着したのは、正午を少し過ぎた頃だった。
目的は妖怪退治だったが、これは、路銀を管理する弥勒が請け負ったもので、当初、彼は自分一人で行くつもりでいた。
だが、珊瑚もついてきた。
妖怪が出没するという場所が一行の旅のルートからやや外れた位置にあるため、犬夜叉たちは奈落や四魂のかけらの手掛かりを追い、弥勒と珊瑚と雲母が、すでに受け取った礼金分の働きをするために、今回は別行動となる。
二人に妖怪退治を依頼し、ここまで案内してきた男が、村長の家の前に二人を待たせ、取り次ぐために中へ入った。
二人きりになってから、傍らの珊瑚を見て、弥勒は人好きのする笑顔で微笑んだ。
「おまえまで来ることはなかったのに。そんなに私が心配ですか?」
「一人じゃ危ないだろうって言われたじゃないか。それに、法師さま一人で行動させると、ろくなことがないからね」
弥勒は小さく微笑した。
彼女は気づいているだろうか。
法師についていくと珊瑚が言ったとき、かごめが意味ありげに珊瑚を見たことを。
それに最近の珊瑚は、弥勒が単独行動をする際に、何かと理由をつけてついてくることが多い。
弥勒は娘をからかうようにつぶやきを洩らした。
「最近の私たちは、二人でひと組のようですな」
「そ、そんなことはない! 妖怪退治はあたしの本業だし、法師さま一人だと危なっかしいから」
向きになるところがまた可愛い。
弥勒は可笑しそうに何か言おうとしたが、そのとき、家の中から出てきた男の声が、二人の会話を中断させた。
「法師さま、退治屋さん。お待たせしました。どうぞお入りください」
先に弥勒と交渉し、話をつけた男は、村長の家の下男だという。
妖怪の被害に悩まされていた村のため、妖怪退治を引き受けてくれる者を町まで探しに来ていたのだ。そこで法師に出会い、相談を持ち掛けた。
「話はこの者からもお聞きでしょうが」
弥勒と珊瑚の前に座った村長が、疲れたように言った。
「もう何人も犠牲者が出ております。裏山への登り口付近で襲われ、生命を落とした者や行方知れずの者も大勢……」
「そこを通った者たちが、次々と妖怪に襲われているのですな」
「はい。しばらく村人の山への立ち入りを禁止しましたが、ずっとこのままというわけにもいかず……」
「山への立ち入りを永久に禁じたところで、人間の味を覚えた妖怪が、村へ降りてくるという危険性もありますな」
静かだが重々しい法師の言葉に、村長やその場にいた人々は震えあがった。
「解りました、お引き受けします。私とこの娘にお任せください」
「どうかよろしくお願いします」
村長と家の者たちは深々と頭を下げた。
すると、外から、明るい声が聞こえてきた。
「表の大きなくの字型の道具は何?」
若い娘のようだ。
複数いる。
「村の娘たちです。物見高い娘ばかりで……」
村長は困ったような顔をしたが、弥勒は楽しそうに笑顔で応じた。
「構いませんよ。慣れておりますから」
愛想のいい弥勒を、隣に座る珊瑚が横目でちらりと睨む。
妖怪退治屋を雇うという話はすでにあったのだろう。
町へ使いに出されていた男が戻ったことを聞きつけ、娘たちは退治屋を見にやってきたようだ。
「お邪魔します、村長さま」
屈強な大男を想像していたのだろう、中にいたのがやさしげな姿の青年と可憐な娘であるのを見て、娘たちはみな、意外そうな顔をした。
「あの……この方たちが妖怪退治屋さんですか?」
「法師の弥勒と申します。この娘は妖怪退治屋の珊瑚。これからすぐ、私たち二人で妖怪を退治しに行きますが、妖怪について、何か知っていることがあれば、どんな小さなことでも教えてください」
端整な容貌の青年法師ににっこりと微笑みかけられ、娘たちは一様に胸をときめかせたようだ。
どうしてここで胡散臭いと思う者が一人もいないのだろうと、珊瑚は疎ましげに眉をひそめた。
「あたしは着替えてくる。村長さま、納屋を貸していただけますか」
「納屋は家の右側にあります」
「ありがとう」
外へ出ようとする珊瑚を法師の声が追いかけた。
「珊瑚、着替えが終わったら声をかけてください。くれぐれも、一人で片付けようなどとは思わぬように」
「解ってる」
そっけない返事を返し、雲母を肩にのせた珊瑚は身を翻した。
肩越しにちらと法師を振り返ったが、ちょうど、五人の娘たちが法師の近くに寄ろうとしているところで、目に映る光景にふと胸がつまるような感覚を覚えた。
娘たちに囲まれる法師を見るのがつらい。
弥勒は、娘たちから妖怪についての話を聞き終えたあとも、珊瑚を待ちながら、彼女らと他愛ない言葉を交わしていた。
「どうして法師さまなのに殺生を?」
一人の娘が尋ねた。
「これも人助けですよ。害のない妖怪は殺しません」
「でも、どうして男の人ではなく、女の子と組んでいるんですか? 普通、妖怪退治屋と聞けば、男の人だと思うけど」
「あの娘が好きなんですよ」
こだわりのない弥勒の言葉に、娘たちは「きゃー!」と黄色い声を上げた。
「恋仲なんですか?」
「いえ、そういう関係ではなく、人として。とても魅力のある娘でね。退治屋としても腕は確かですよ」
「恋でなくとも、法師さまはあの人が好きで、一緒に仕事をしてるんでしょう? ちょっと妬けるかも」
「あんたが妬いてどうすんのよ」
「法師さまに一目惚れでもしたの?」
再び「きゃー!」と黄色い声が上がった。
娘たちと一緒に、弥勒も楽しげに声を立てて笑った。
だが、そのとき、すぐ外に着替えを終えた珊瑚がいた。
ひときわ華やかな娘たちの声を聞いて、いたたまれない思いに足がすくむ。
どうにも耐えられなくなる。
玄関先に立てかけておいた飛来骨を手に取って、珊瑚は足早にそこから離れた。
妖怪の出る場所は解っている。
大丈夫、一人でも退治できる。
「遅いな、珊瑚」
珊瑚を待つのに痺れを切らした弥勒が外へ出てみると、納屋は無人だった。
隅にたたまれた彼女の小袖が置かれている。
「みぃ」
ふと足許を見遣ると、申しわけなさそうにこちらを見上げる雲母がいた。
「雲母、珊瑚は」
少し進んで振り返る雲母の様子を見るまでもなく、珊瑚が先に行ってしまったことは明らかだ。
一人では危険だろうと言われていたのに……
「全く、おまえのほうがよほど危うい」
弥勒はもどかしげにため息をついた。
* * *
弥勒よりひと足先に問題の山の登り口に辿り着いた珊瑚は、すぐに辺りの異変に気がついた。
広範囲に渡り、草木が不自然に踏み荒らされ、枯れている。
太いものに踏みつけられた跡。
はっとした。
(うわばみ……? この跡からすると、かなりの大きさだ)
被害に遭ったのは村人だけにとどまらず、近辺から山菜などを採りに訪れた者たちからも死傷者が出ているということだ。
妖怪が珊瑚の予想通りの大きさなら、何故、逃げ帰った者たちに目撃されなかったのだろう。
突然、草をかき分ける音が地響きのようにうなった。
「っ!」
珊瑚はひらりと身をかわし、身構えた。
地を這うこの気配はうわばみだ。
かなり大きい。
が、光が反射するのか、よく見えない。
またしても、ざざざっと草の揺れる音が響き、珊瑚は勘だけを頼りに、大きな生き物が移動する質量から逃れた。
(鱗だ。鱗が鏡のように、周囲の景色を映しているんだ)
そのため、妖怪本体が周りの景色に擬態しているように見える。
「雲母、雲母!」
猫又に乗り、ひとまず空中で態勢を立て直そうと思った珊瑚だが、肝心の雲母の姿がなかった。
珊瑚ははっとなった。
「雲母、きっと法師さまと一緒なんだ」
法師のことを思うと、つい先程の、彼と村の娘たちの楽しげな様子が思い出されて苦しくなった。
「あんな──でれでれした法師さまに頼らなくたって、あたし一人でうわばみの一匹や二匹……!」
草の音と空気の動きで、それが移動する気配を把握することができる。
しかし、弥勒のことを考えるあまり、己が冷静でいられなくなったことに、珊瑚は気づいていなかった。
わずかな隙を突かれ、足をすくわれる。
「しまった……!」
妖怪の体当たりを受け、空中に投げ出された珊瑚は、それでも鋭く飛来骨を投げて反撃を試みたが、呆気なくかわされてしまった。
時折、陽光を受けて光る鱗が大気のうねりとなって、大うわばみが珊瑚に襲いかかる。
見えづらい姿の中にあって、獲物を丸呑みにしようと大きく開かれた口中だけがはっきりと視覚に捉えることができ、不気味だった。
落下する身体をどうすることもできず、珊瑚は思わず眼をつぶった。
「──珊瑚!」
聞き慣れた声に鋭く名を呼ばれ、珊瑚ははっとした。
刹那、ふわりと身体が浮き、雲母に助けられたのだと知る。
「雲母……法師さま!」
大うわばみがその姿を現した。
法師が投じた破魔札を受けて、周囲と擬態していた鱗が可視となったのだ。
土色の鱗に覆われた、二抱えもある巨大な蛇。
無機質な眼が絡みつくように法師を見据えていた。
珊瑚を受け止めた雲母が素早く移動し、珊瑚は雲母の上から投げ出された飛来骨を拾い上げた。
うわばみの標的が弥勒に変わった。
弥勒は新たな破魔札を持ち、錫杖を構えるが、その巨体に似合わず、うわばみは俊敏だった。
再び破魔札が投げられ、うわばみは法力にからめとられはしたが、それと同時に、鋭い牙が弥勒の足を貫いていた。
「くっ……!」
弥勒の顔が苦痛にゆがむ。
「法師さまっ!」
「落ちつけ、珊瑚」
のたうつうわばみは、法師をひと呑みにしようと口を開ける。が、その口の中に弥勒は両手で錫杖を突き立てた。
苦しみ、もがくうわばみの上顎が大木の幹に縫い止められた。
「珊瑚、早くとどめを!」
はっと我に返った珊瑚は、飛来骨を投じた。
一瞬でうわばみの頭と胴体が両断される。
力を失い、うわばみの頭と一緒に落ちてきた弥勒の身体を雲母が受け止めた。
「法師さま……! 法師さま!」
眼を閉じた弥勒を地面に横たえ、血に濡れた法衣をまくって患部を確かめると、ふくらはぎに大きな傷があった。
珊瑚は血を自分の口に含み、すぐに吐き出した。
毒の有無を確認したのである。幸い、うわばみは毒を持ってはいないようだ。
「う……」
「法師さま、しっかりして。すぐ手当てする」
彼は意識こそ失ってはいなかったが、その表情から、相当の痛みがあることが窺えた。実際、傷もひどい。
(あたしのせいだ)
こぼれそうになる涙をこらえながら、止血だけして、珊瑚は弥勒の身体を雲母の背に、首筋に掴まらせるようにして乗せた。
そして、自身も飛来骨と錫杖を持って雲母にまたがり、法師を支える。
「雲母、ゆっくり飛んで」
できるだけ揺れないように、雲母は二人を村まで運んだ。
大怪我をした法師を連れて戻ってきた珊瑚を見て、村長の家の者たちは驚いた。
「それほど、手強い妖怪なのですか」
「安心してください。妖怪は退治しました。大うわばみです。まだ屍はそのままにしてありますが」
珊瑚は妖怪を無事に退治した旨を伝え、屍の葬り方を教えた。
村長はとりあえずほっとした様子で、珊瑚に丁寧に礼を述べた。
「ですが、村に薬師はおりません。法師さまの怪我は……」
「薬草は持っているので、手当てはあたしがします。湯を、沸かしてもらえますか」
「は、はい」
村長は下男に命じて寝床を用意させようとしたが、弥勒が苦しげにそれを制した。
「納屋をお借りできますか。ご迷惑はおかけしません」
母屋にいれば村の娘たちも次々と見舞いに訪れるだろう。
何が珊瑚の心を乱したのか充分すぎるほど理解している弥勒は、少しでも、彼女の重荷を取りのぞいてやりたかった。
それに、二人きりのほうが、彼自身も村人たちへ気を遣わずにすむ。
村長の家の納屋を借り、積まれた藁の上に弥勒を寝かせた。
珊瑚は手持ちの薬草で止血と化膿止めをして、さらに痛み止めの煎じ薬を作って彼に飲ませた。
「ごめんなさい、法師さま。あたしが、法師さまを無視して勝手なことをしたから……なのに、あたしは無傷で、法師さまがこんな怪我をするなんて……」
今にも泣き出しそうな彼女だが、気丈に涙をこらえている。
「大丈夫、すぐ治りますよ。どちらにしても、傷を負ったのがおまえでなくてよかった。私が一緒にいて、おなごに怪我をさせるわけにはいきません」
「どうせ、あたしは傷だらけだもん」
「だからこそです。これ以上、傷を増やす必要はない」
その声音に何か感じ、ふと珊瑚は弥勒を見た。
「今宵はここで休ませてもらいましょう。おまえも少し休みなさい」
「あたしはいい」
安静にしていなくてはならない弥勒から、珊瑚は一時も目を離したくはなかった。
翌日、弥勒は熱を出し、その翌日も、翌々日も、起き上がることができなかった。
珊瑚はつきっきりで看病している。
二人と雲母の食事は、村の娘たちが交替で世話をしてくれた。
「珊瑚」
苦しげな呼吸の下から法師がささやいた。
「犬夜叉たちが心配しているだろう。文を届けたい」
怪我をして三日が経つけれど、まだ雲母に乗って移動することすら叶わず、珊瑚は不安を隠せない。
弥勒は彼女を安心させるように小さく微笑した。
「心配はいりません。かごめさまに薬を頼みたいだけです。かごめさまの薬はよく効く。ですから、必要なものを書いた文を、雲母に届けてもらいたいんです」
硬かった珊瑚の表情が少し和らいだようだ。
「わ、解った。あたし、今すぐ雲母に乗って、必要なものを取りに行ってくる」
だが、性急に立ち上がりかけた珊瑚の腕を素早く弥勒が掴んだ。
「──おまえはここにいてくれ」
その瞬間に垣間見えた、法師らしからぬ心細げな瞳の色に、珊瑚は思わず眼を見張る。
弥勒はすぐに手を放し、珊瑚から眼を逸らして低い声で言った。
「いえ──必要な薬は文に書いて、雲母に届けてもらえばいい。だが、私は看病してもらうなら、知らない娘よりおまえのほうがいい」
珊瑚は弥勒をじっと見つめた。
「……うん。あたしが責任持って看病する」
必要な薬を文に書き、珊瑚はそれを退治屋の装束の帯を使って、雲母の首にしっかりとくくりつけた。
これが犬夜叉たちのもとへ届けられたら、すぐに仲間たちは雲母に乗って、薬を持って駆けつけてくれるだろう。
不安ばかりが大きい珊瑚は、仲間たちの存在が、何より心強かった。
(法師さま、早くよくなって……)
手拭いを水でしぼって弥勒の額にのせながら、珊瑚は眼を閉じた彼の顔を切なげに見つめた。
雲母を送り出したあと、連日、徹夜で弥勒の看病をしていた珊瑚は、法師のすぐそばの藁に身をもたせかけて、浅い眠りに漂っていた。
張りつめていた気が少し緩んだのだろう。
夕刻、納屋まで夕餉を運んできた村の娘が眠る珊瑚に気づき、起こそうとしたが、それを弥勒がとめた。
「妖怪退治の日から寝ていないんです。もう少し、寝かせてやってください」
珊瑚を見つめる弥勒のやさしい眼差しに、村の娘は見惚れた。
「本当に恋ではないんですか?」
つい、尋ねてしまう。
法師は淡く微笑した。
「どうだろう。私がそう思いこみたいだけなのかもしれんな」
「夕餉、冷めないうちにどうぞ」
「ありがとうございます」
二人分の夕餉の盆をそこに置き、娘は静かに納屋を出た。
珊瑚の微かな寝息だけが聞こえる。
しんとした空間で、弥勒は珊瑚をじっと見つめた。
(魅力的な娘だ)
だからこそ、それ以上の想いを抱いてはいけないと思っている。
「珊瑚」
弥勒はやさしく声をかけた。
「夕餉です。冷めないうちに」
珊瑚ははっと眼を覚まし、飛び起きた。
「ごめん、眠っていた。法師さま、気分はどう? まだひどく痛む?」
「だいぶいい。少し熱も下がったようです。体力をつけなくてはなりませんから、夕餉をいただきましょう」
不安げに、だが珊瑚は黙ってうなずいた。
実際は夢心や楓など、心得のある者に処置してもらわねばならないほどの重傷だったが、今それを珊瑚に言う必要はないと弥勒は思った。
おそらくは珊瑚も理解している。
粥を食べるために上体を起こしてくれた珊瑚をそっと窺い、不意に胸の奥に痛みを覚えて、弥勒は眼を伏せた。
この想いは、いずれもっと特別なものに変わるかもしれない。
(だが、今はただ)
この娘の息吹が感じられる距離で生きていたい。
それだけが、彼の願いだった。
〔了〕
2012.11.20.
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。