片羽の恋
山の木々の葉が色濃く、瑞々しく冴えわたる季節。
開け放した部屋を通る風が心地好い寺の一室で、夢心は、穏やかな微睡みに身を委ねていた。
「夢心さまー! 夢心さま、どこです。弥勒でございます」
どこからか己の名を連呼する声が聞こえる。
「ん……おお、弥勒か」
けだるげに起き上がってふらりと廊下を覗いてみると、長い廊下をこちらへ向かってやってくる愛弟子とその新妻の姿があった。
「ここじゃ、弥勒。よう来たな」
ふと目が合い、会釈する珊瑚に、夢心も笑顔で微笑ましげにうなずいてみせた。
「そろそろ来る頃だとは思っておったのだが、困ったな。何も用意しておらん。弥勒、おまえ、ひとっ走り村まで下りて布施をもらってこい」
弥勒は呆れた表情になる。
「いきなりそれですか? それに、夢心さま。日頃から住職らしいことをしていないと、お布施というものはいただけないんですよ」
「しておるわい。おまえが知らんだけじゃろうが」
「仕方ありませんな。珊瑚、行きましょうか」
踵を返しかけると、夢心は珊瑚を呼びとめた。
「ああ、珊瑚はよい。少々用があるのでな」
「掃除でもさせる気ですか? 全く、今日は我々は客なのに……」
ぶつぶつ文句を言いながら寺を出る弥勒を見送り、それから、珊瑚が夢心和尚を振り返った。
夢心とはすでに幾度か顔を合わせているが、弥勒の妻となって初めての挨拶に訪れた今日は、少しばかり緊張を覚えているようだ。
「掃除でも洗濯でも、何でもしますよ。遠慮なくおっしゃってください」
「では、とりあえず庫裏へ来てくれんか」
庫裏の片付けをするのかと思いきや、夢心は、そこにあった徳利を、二本、三本と珊瑚に渡した。無論、中身はたっぷり入っている。
「夢心さま。こんなに運んで、これ全部、呑むんですか?」
思わず「和尚様」ではなく名で呼んでしまい、珊瑚は慌てた。
「あ、すみません、馴れ馴れしく。法師さまがいつもそう呼んでいるので、つい」
「構わんよ」
夢心はやさしく微笑んだ。
「わしも珊瑚と呼んでいるが、構わんかね?」
「もちろんです」
和尚について、珊瑚は庫裏から部屋へ酒を運んだ。
彼女は数本の徳利をかかえ、夢心は自分用のいつもの大徳利と、それから盃を二つ持っている。
この日、弥勒と珊瑚は寺に泊まる予定だった。
弟子夫婦を泊めるその部屋に、夢心は珊瑚を案内した。
殺風景な部屋の中には甘い香りが漂っている。
それに気づいた珊瑚が室内を見廻すと、文机の上に大きめの盃が置かれ、そこに一輪の梔子が飾られていた。
「これ……夢心さまが?」
「見ての通り、むさくるしい寺なのでな」
徳利を下ろしながら、夢心はのんびりと言った。
「若い娘さんを迎えるのに、花のひとつくらいあったほうがよかろうと。ちと、弥勒を真似てみた」
祝言をあげて、新生活が始まったら、少し落ち着いた頃に挨拶に来ると弥勒から伝えられていたし、夢心もそれなりに花嫁を歓迎しようとあれこれ考えていたが、寺をきれいにするのもご馳走を作るのも、結局はなんだか面倒だ。
それで、手っ取り早く境内の隅で芳香を放っていた梔子の花を飾ることにした。
そんな事情は言わぬが花だが、珊瑚のために花を活けたと知れば、弥勒は目を剥くだろう。そちらの反応が楽しみだ。
嬉しそうに微笑を浮かべて白い花を見つめている珊瑚に、夢心は声をかけた。
「弥勒とは呑むんじゃろう?」
珊瑚は振り向き、微笑んだ。
「はい。晩酌にはよく付き合います」
「いける口かね?」
にっこりと盃を勧められ、珊瑚は急いで両手を振って断った。
「いえ、あたしはいつも法師さまに酔い潰されてしまって……」
そんなことまで口走ってしまい、はっと赤面する。
法師と珊瑚の仲睦まじげな日常が窺われ、可憐な娘の様子に夢心は顔を綻ばせた。
「何か肴を……」
恥ずかしげに、場を取り繕うように立ち上がりかけた珊瑚を夢心は鷹揚に制した。
「よいよい。そのうち、弥勒が調達してくるじゃろう。まあ、美人がいればそれでよい」
珊瑚は思わず苦笑する。
(なんか法師さまそっくり……)
変なところで、この人が弥勒の育ての親なのだと感心した。
夫のいないところで昼間から酒を口にするのは躊躇われるらしく、珊瑚は夢心和尚の酌に徹した。
今日ばかりは和尚も大徳利にじかに口をつけるのではなく、珊瑚からの酌を受け、ゆっくりと酒を楽しんでいる。
「法師さまが帰ってきたら、あたし、叱られてしまいますね」
「うん?」
「夫婦になった挨拶に来たのに、挨拶そっちのけでくつろいじゃって」
「なに、気にせんでいい。祝言の前に弟さんもつれて、そろって挨拶に来てくれたじゃろう。あのとき、すでにおまえさんを弥勒の嫁として迎えておるよ」
珊瑚は微かに頬を染め、控えめに、嬉しそうな表情を浮かべた。
そんな珊瑚を見て、ふと思い出したように、和尚は言う。
「珊瑚は、比翼の鳥を知っているかね」
「はい、おおよその意味は」
夢心はくいと盃を干した。
「一対の目と翼を雌雄二羽で共有している鳥じゃな。仲睦まじい夫婦にも例えられるが、おまえたちが祝言の報告に来てくれたとき、なんとなく、この言葉を思い出しての」
誰に言うつもりもなかったことだが、言葉は勝手にこぼれ出た。
親代わりとなって育ててきた弥勒が呪いに打ち勝ち、最愛の伴侶を得たことが嬉しくてならない。
そして、この娘なら、己の心情を理解してくれるだろうと思った。
「弥勒のこれまでは知っておるじゃろう?」
「はい」
「あれの父親は自らの死期を悟り、たった一人残される幼い息子をこの寺に託した」
差し出した盃につがれた酒を、夢心はゆっくりと飲み干した。
「父親の死を目の当たりにした弥勒は、ひどく怯えきってしまってな。泣きもせず笑いもせず、全てが凍りついたようじゃった」
自らも父を目の前で殺され、また、奈落によって見せられた弥勒の父の最期の光景が胸に焼き付いている珊瑚は、彼の気持ちを朧げながら想像することができた。
「……あたしも見ました。奈落との最後の闘いのとき、幻を見せられて。法師さまの父上が風に呑まれる姿を」
夢心は静かにうなずいた。
珊瑚のこれまでのことも、だいたいのところは聞いている。
「弥勒はあれで、素直で真面目な子供だったんじゃよ。本当に純粋で、故に、受けた衝撃が大きすぎて、感情の行き場を失った。まるで片羽をもがれた鳥のようにな」
盃を手に、淡々と夢心は言葉を紡ぐ。
珊瑚は幼き日の弥勒を想った。
初めて出逢った頃の、あの飄々とした弥勒になるまで、どれほどの葛藤があったのだろう、と。
「そのうち、ひたすら修行に励むようになったが、どうにも痛々しくての。幾ばくかでも気が紛れるかと、いろんなことを教えた」
夢心はひとつずつ指を折って数えた。
「酒じゃろ。博打じゃろ。女じゃろ」
「──は?」
珊瑚の表情がいささか険呑になり、夢心はおもむろに咳払いをする。
「悪いことを教えてしまったら、どういうわけか、これがことのほか、覚えがよかった」
「……」
盃が空になった夢心は珊瑚が酒をついでくれるのを待っていたが、いつまで待っても彼女が手を動かしてくれないので、仕方なく、近くの徳利を取って手酌で呑んだ。
「じゃが、そういうものにも溺れ切れんというかな」
夢心は遠くを見るように吐息をついた。
「弥勒は物覚えがよく、何事も人並み以上にこなしてしまう。だが、あれは求道一筋の道は向いておらん。誰か、支えてくれるおなごが必要じゃ」
「夢心さま」
「それも、あれだけ遊び歩いたのに、心に適ったのはおまえさんが初めてと見た」
「……」
娘は眼を見張り、ほんのり頬を染めた。
弥勒にとってこれほどまでに理想的な娘を、よくも見つけることができたものだと夢心は思った。
こんなふうに外見は清楚でたおやかだが、己の運命に真正面から立ち向かおうとするひたむきさに弥勒は惹かれたのだろう。
「さっきも言ったように、わしには弥勒が片羽をもがれた鳥のように見えた。ひとつしかない羽で、必死に飛ぼうともがいている鳥だとな。失った羽を恋うて、求めて、ずっと彷徨い続けておった」
徳利を持つ珊瑚の手は完全に止まっていたが、夢心は気にせず、一人で酒を味わった。
「珊瑚、おまえもまた、片羽をもがれた鳥じゃろ?」
「あ……」
「失くした羽に恋い焦がれていた二羽の鳥が、出逢い、そうして、新たな無二の羽を見つけたとしたら?」
不意に珊瑚の瞼の奥が熱くなった。
部屋の端の梔子の花びらが、白い羽のようにも見える。
「片羽では飛ぶことはできんが、互いの羽があれば飛べる。それは失った羽以上に素晴らしい羽だと、互いに気づいた。二羽の鳥はもうひとつの羽を得て、比翼の鳥となる」
「夢心さま──」
珊瑚は徳利を床に置き、顔をうつむかせて口許を押さえた。
「めでたしめでたしじゃな。しかし、言うまでもないことじゃが、うまく飛べるかどうかは、今後のおまえたち次第じゃよ」
「はい……ありがとうございます。夢心さまの気持ちが嬉しい」
満足そうに夢心はうなずく。
羽を求める片羽の鳥が、失くした羽に恋をした。
出逢い、惹かれた二羽の鳥は、かけがえのない伴侶を得た。
「比翼の鳥のように、おまえたちが支え合って生きてくれることがわしの望みじゃ。弥勒の傷を癒せるのは、たぶん、珊瑚だけじゃろう。弥勒をよろしく頼む」
「はい、夢心さま。法師さまとはずっと一緒に旅をしてきました。いい部分も悪い部分も、ひと通り知っているつもりです」
目許を拭い、呼吸を落ち着かせてから、彼女は夢心に向かって両手をついた。
「夢心さま。やはり、お流れをいただきます」
「そうか。それは嬉しい」
わきに置いていた盃を手に取り、夢心はそれを珊瑚に渡した。
「改めて、あたしを法師さまの嫁として、認めてくださいますか」
夢心は楽しそうに徳利を持って、珊瑚が両手で持つ盃になみなみと注いだ。
「よいおなごが来てくれたと思うておるよ。弥勒の人を見る目は確かじゃ。その弥勒が選んだおなごなら、おまえさんは弥勒に相応しい嫁のはずじゃ」
「ありがとうございます、夢心さま」
夢心が注いだ酒を、珊瑚は少しずつ口に含んでいった。
「むしろ、おまえさんなら、あと三十年若かったら、わしが嫁にもらいたいくらいじゃな」
「本当ですか?」
「弥勒には内緒じゃよ」
余計なことまで言ってしまったが、高らかに笑うと、つられて珊瑚も満面の笑みを浮かべた。
* * *
「夢心さまー、いただいてきましたよ。米に麦、あと野菜と魚を少々……って、何やってるんですか!」
寺に戻ってきた弥勒は、そこらに置かれたいくつもの徳利と盃、楽しそうに夢心に酌をする珊瑚と酒を受ける夢心の姿を見て、唖然とした。
「また、昼間っから飲んだくれて。っていうか、珊瑚は何しに残ったんです」
夢心はご機嫌な様子で盃をかかげる。
「酒宴じゃ。何ぞ肴になるものはないか?」
「ありませんよ! 夢心さまが大酒呑むのは勝手ですが、珊瑚まで巻き込まないでください」
「大丈夫だよ、法師さま。まだそんなに呑んでない」
だが、弥勒が心配そうに珊瑚の傍らに膝をついて彼女の顔を覗き込むと、瞳が潤んでいた。
「もう、ほろ酔いじゃないですか。目許が赫いですよ」
「あっ、これは……」
慌てて手の甲で目許を拭おうとすると、弥勒が彼女の腕を取って半ば強引に立たせた。
「夢心さま、次からは私のいないところで珊瑚と酒を呑むことは禁止です。いいですね」
「なんじゃ、やきもちか」
「違います!」
図星だったらしく、弥勒は不機嫌そうに珊瑚を促して、部屋を出た。
「珊瑚と夕餉の支度に取りかかりますので、待っててください。お望みなら酒の肴も見繕ってきますよ」
「頼んだぞ。珊瑚、あとは夕餉のときにな」
「はい」
「だから、珊瑚を引き込まないでください!」
弥勒はぴしゃりと戸を閉め、長い寺の廊下を珊瑚とともに庫裏へ向かった。
「大丈夫ですか? 夢心さまは笊ですから、つきあうと明日は確実に二日酔いですよ」
「うん。本当に、そんなに呑んでないんだ」
「それならいいのですが」
ゆったりと歩を進める法師の少し後ろを歩きながら、彼の背中を見つめていた珊瑚は、ふと弥勒を呼びとめた。
「法師さま」
呼びかけとともに袖を引かれ、弥勒は立ち止まった。
「どうしました、珊瑚?」
「ちょっとそのまま」
振り返るより早く、後ろから抱きつかれた。
弥勒は驚いて眼を見張る。
「珊……」
「前を向いてて」
法師の背中に身を寄せた珊瑚が、彼の身体に廻した腕に力を込めたので、弥勒の心臓がどきりと音を立てた。
「法師さまのこれからは、あたしが守るから」
「え?」
弥勒は、困ったように瞳を瞬かせた。
「そこは男の私がおまえを守らないと、格好がつかないでしょう」
「いいの。格好悪くても、あたしが守る」
弥勒の苦笑が微笑に変わった。
「いいですよ。頼りにしましょう。で、いつまでこうしている気ですか?」
「もう少しだけ」
背中に抱きつく妻の言葉に、弥勒は愛しそうに破顔した。
〔了〕
2012.7.8.
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。