草の屋にて
 雲母が苦しそうだ。
       ぐったりと丸くなっている猫又の身体をそっと撫で、珊瑚は不安そうに眉をひそめた。
      「雲母……苦しいの?」
       あたしのせいだ、と彼女は思った。
       奈落に噛みつき、じかに吸った毒が身体から抜けていないのだ。
       自らも大怪我を負った珊瑚は、動くこともできず、だから、犬夜叉とかごめが毒消しの薬草を分けてもらいに行ったと聞いて、ほっとした。
       そして、彼女の護衛のために残ったという法師をじーっと見つめた。
      「……なにか?」
      「なんか……かえって危ないような気がする」
       そんなことを言ったのは、半分以上が照れ隠しのためだった。
       奈落の罠にはまり、重傷を負った珊瑚は、再び迎え入れてくれた仲間たちの手厚い看護を受け、道端のあばら屋に軒を借りて身を横たえている。
       でも、自分は守ってもらうに値するだろうか。
       その思いが珊瑚の心に重く沈んでいた。
       犬夜叉の大切な鉄砕牙を奪い、仲間たちの生命までもを危険にさらした。
       どうして彼女がこんなことをしたのか、言いわけなど必要としないほどに仲間たちは解ってくれたが、裏切りは裏切りだ。
       その事実は消せない。
       ふと見遣ると、弥勒の見張りを仰せつかった七宝が、瞼の重さと一生懸命戦っていた。
       妖怪といってもまだ子供だ。奈落との闘いでかなり疲れているはずだ。
      「七宝」
       珊瑚は仔狐にささやいた。
      「な、なんじゃ、珊瑚。弥勒が悪さをしたか?」
      「横になってていいよ。法師さまが何かしたら、すぐおまえを起こすから」
      「えっ……で、でも、おらは珊瑚を守らねば……」
       責任を放棄するわけにはいかず、七宝はちらと弥勒を見た。
      「七宝。珊瑚の言う通り、少し寝なさい。心配するようなことは起こらないと誓いますが、もし私が何かしたら、珊瑚は大声で叫べばいいだけです」
      「そ、そうじゃな。そうしたら、おらがすぐ起きて、弥勒を懲らしめてやれる」
       法師の言葉に納得した七宝は、傍らに置かれていた飛来骨を枕代わりにし、身を横たえた。すぐに、軽い寝息が聞こえてくる。
      「やはり、七宝も相当疲れていたようですな」
      「法師さまも仮眠とっていいよ。雲母の様子はあたしが見てるし、あたしはこうして横たわっているだけだから」
       弥勒はやわらかに微笑した。
      「では、七宝が起きたら、交替して休ませてもらいましょう」
       そう言いつつ、休むつもりなどなさそうだ。
      「珊瑚こそ、眠くなったら寝ていいんですよ。今は身体を休めることが必要なのですから」
      「うん……」
       珊瑚は再び、弥勒の顔を盗み見るようにして見つめた。
       七宝が眠ってしまうと、先ほどよりさらに、弥勒の存在が意識の中に強く入り込んできた。
       珊瑚は衾代わりの小袖を首まで引き上げる。
       その下は、さらしや包帯を巻いただけの姿で、湯巻以外、肌小袖も身につけていない。
      「ちゃんと睡眠をとるのも、長生きをするコツですよ、珊瑚」
       一向に眼を閉じる気配のない珊瑚を見て、法師は悪戯っぽく、諭すように言った。
      「一人で抱え込まず、珊瑚はもう少し私たちを頼ることを覚えなくてはな。まあ、私も犬夜叉たちに出会うまで、何事も一人で解決しようとしてきた口ですが」
       弥勒は熟睡中の仔狐へと視線を向けた。
      「七宝も、こうしておまえを守ろうとしているんです」
      「……」
       どうして、誰もあたしを恨まないのだろう。
       どうして、法師さまはそんなふうに笑っていられるのだろう。
       自分も強くなりたいと珊瑚は思った。
       じっと弥勒を見つめる珊瑚の、そんな視線を彼はにっこり受けとめた。
      「喉が渇きませんか? 水は?」
       ときどき、弥勒ははっとするほどやさしい表情をする。
       珊瑚の胸がどきりと音を立てた。
       弥勒が倒れた際にかごめと二人で看病したときは、別に何とも思わなかったのに、こうして無防備な姿で横たわっている自分を見下ろす形で看病されるのは、どうにも落ち着かない。
       ただの女好きだと解っているのに、おかしな方向へ勘違いしてしまいそうになる。
      「いい。……ありがと」
       首まですっぽりと身体を覆っている小袖をまくって法師に身体を起こしてもらうのは、彼女には恥ずかしくてたまらなかった。
       夕刻、眼を覚ました七宝と三人で、携帯食やかごめの忍者食などで簡単に食事をとった。
       犬夜叉とかごめは辺りが暗くなってもまだ戻ってこない。
      「遅いのう」
       幼い七宝はそわそわと心配げだった。
      「犬夜叉が一緒ですから心配はいりません。今日中に戻れると決まっていたわけでもありませんし」
      「犬夜叉が原因で揉めておるのではないか?」
      「そこはかごめさまがうまく話をつけてくださるでしょう」
       法師と七宝のやり取りを聞いていた珊瑚は、彼らの間に確たる絆のようなものを感じた。
      「二人を信頼してるんだね、法師さま」
      「おまえだって、信頼しているから、雲母の生命を預けているのでしょう?」
       あたたかい。
       この人たちのもとに戻ってくることができて本当によかったと、珊瑚は沁み入るように感じた。
       夕餉のあとは、雲母の様子を気遣いながら、七宝の亡き父親との思い出話などを聞いて過ごした。
       この時刻になってもなお犬夜叉とかごめは戻りそうにないので、今日はもう休もうということになり、七宝は昼間のように飛来骨に身を持たせかけ、弥勒は座ったまま、眼を閉じた。
       珊瑚は雲母の容態が気になってしばらく眠れずにいたが、珊瑚の様子に気づいた弥勒が、そっと彼女に声をかけた。
      「珊瑚、雲母のことは私も気をつけています。少し眠りなさい」
      「法師さま……」
      「仲間でしょう? 次に私が怪我をしたら、そのときはおまえに看病してもらいますから、今は何も気にせず、怪我を治すことを考えなさい」
       彼女は小さくうなずいた。
       ──法師さま、やさしい。
       今日だけは、そのやさしさに甘えていようと思った。
       深夜、ふと、うたた寝から醒めた弥勒は、穴のあいた屋根からこぼれ落ちてくる月の光を見上げた。
       苦しげな、かすれたうめき声が聞こえ、はっとした。
       彼を起こしたのはこの声だ。
      「珊瑚」
       額に触れてみる。──熱がある。
       鎖鎌で斬られた傷口が炎症を起こしているのだろうか。
       弥勒は彼女の枕元の盥を引き寄せると、手拭いを水に浸し、固く絞って彼女の額の汗を拭った。
      「珊瑚、大丈夫ですか?」
      「ごめん……法師さま」
      「何を謝る。こういうときは大人しく看病されるものですよ」
       冷たい手拭いで珊瑚の顔を拭うと、弥勒はそれを再び水に浸して絞り、珊瑚の額にのせた。
      「法師さま……」
      「ここにいますよ」
       力なく珊瑚はうなずく。
       そして、眼を閉じた。
       うつらうつらと夢に揺蕩う珊瑚は、ときどき、思い出したように弟の名を呼んだ。
      (悪夢を見ているのだろうか……)
       熱の様子を見ながら、額にのせた手拭いを水に浸して絞り直す弥勒は、痛ましげに珊瑚を見つめた。
       このような年若い娘までが、奈落のために苦しまなければならないなんて間違っている。
      (弟を取り戻すために、力になってやりたい)
       せめて、不安でたまらないだろう娘の心に寄り添ってやることができたら。
       そんなふうに、弥勒は熱に耐える珊瑚に朝まで付き添っていた。
       辺りが仄白く染まり始めた頃、ぼんやりと珊瑚は眼を覚ました。
       まだ全身がけだるいが、少し、そのだるさが和らいだような気がする。
       視線を横へ向けると、傍らに座る弥勒が彼女を見つめていた。
       一晩中、付きっきりで看病してくれたのだ。
      「熱は下がったようだな」
       珊瑚の額に掌を当て、手拭いを水に浸し、絞ってから、弥勒はそれで彼女の汗ばんだ顔や首を拭った。
      「もう大丈夫でしょう。身体を起こせますか? 少し水を飲んだほうがいい」
       法師に起こしてもらうのは、やはりまだ恥ずかしかったが、喉が渇いていたので、珊瑚は弥勒の手を借りて、ゆるゆると身を起こした。
       弥勒は上体を起こした珊瑚の身体をしっかりと支え、水の入った竹筒の飲み口を彼女の口にあてがった。
       こく、と水を飲むと、だいぶ身体が楽になった。
       竹筒を唇から放すと、微かな安堵の吐息がこぼれた。
       もうひと口飲ませてから、弥勒は竹筒を枕元に置く。
      「珊瑚。……あの、これは下心があって言うのではありませんが」
       彼らしくもない歯切れの悪い物言いに、珊瑚は怪訝そうな表情を浮かべた。
      「炎症を抑える薬草を取りかえたほうがいいのではありませんか。熱は治まったので、もう大丈夫だとは思いますが、念のため」
      「……」
       それはつまり、身体中に巻かれたさらしやら包帯やらを解き、新たな薬草をあてがってもらって、再び法師に包帯を巻き直してもらうという──
      「だ、駄目」
       珊瑚はうつむき、頬に熱を感じてぶっきら棒に言った。
      「いえ、決してよからぬことを考えているのではなく」
      「……いい。法師さまのおかげで随分楽になったし。薬草を換えるのはかごめちゃんに頼む」
       そう言って、彼女は身体を支えてくれている法師をちらりと見た。刹那、艶な眼差しに弥勒の鼓動が大きく跳ねた。
       ときどき、珊瑚ははっとするほど“女”の表情をする。
       普段は年よりも少女じみて見えるのに。
      「解りました。それはかごめさまに任せましょう」
       そろそろと横になろうとする珊瑚の動きを手伝って、弥勒は、彼女の身体に衾代わりの小袖を掛けた。
      「七宝が起きたら朝餉にしましょう。それまで、少し眠りなさい」
       横たわった珊瑚が、じっと弥勒を見上げる。
      「法師さま」
      「なんです?」
      「……ありがとう」
       弥勒は微笑した。
       一瞬、その笑顔に見惚れてしまい、珊瑚は慌てて雲母のほうへ顔を向けて眼を閉じた。
       なんだろう。
       心が凪いでいくのが解る。
      (法師さまがやさしいから? 父上みたいに……? ううん、父上とは全然違う)
       でも、ひどく居心地がいい。
       あたたかなものに抱かれて、珊瑚は少しだけ眠ることにした。
       犬夜叉とかごめが薬草を持って帰ってきたら、雲母の容態もすぐによくなるだろう。
       彼女自身も早く回復しなければならなかった。
       前へ進むために。
       そして、琥珀を取り戻すために。
〔了〕
2012.8.6.
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。