奈落を倒し、弥勒と珊瑚が夫婦になるのに何の障害もなくなった。
 破壊された村の復旧に合わせ、弥勒は、自分たちの家もこの村に建ててもらえるようにと手配した。
 現在は楓のところに皆で居候している状態なので、二人きりのひと時を持つために、夕餉のあとには一緒に散歩に出ることが日課になっている。
 今宵も、弥勒と珊瑚は二人で寄り添い、月を見ていた。
 月を見上げ、月齢を数え、弥勒は傍らの珊瑚にそっとささやく。
「次の三日月の頃までには祝言をあげられそうだな」
 弥勒の言葉に、胸がいっぱいになって、珊瑚は花が綻ぶように微笑んだ。
三日月の頃に
「あの、法師さま」
       一緒に月を見上げていた珊瑚の呼びかけに、ふと弥勒は彼女を顧みた。
      「祝言の前に、報告というか挨拶というか、けじめとして、会いに行かなければならない人がいるの」
      「誰です。珊瑚が世話になった方なら私も──」
      「世話になったというか……法師さまも知っている人。武田蔵乃介さま」
      「……え゛」
       反射的に法師は身構えた。
       珊瑚を一途に想い続けていた若い殿様。
       過ぎたことだが、恋敵ということもあって、苦手意識は否めない。
      「事情は知ってるでしょ? だから一応、法師さまとのこと、報告しておかなくてはと思うんだ」
      「私とのことは、薄々察しているんじゃありませんか? それに、すでに奥方がいらっしゃるかもしれません」
      「それはそれ。あのとき、いろいろと心配してもらったしね」
       生真面目な珊瑚は、祝言の前にきちんと挨拶すべきと思い込んでいるらしいが、どう転んでも弥勒は嫌な予感しかしない。
       結局、弥勒が折れ、あのとき通った道を二人で歩いて、蔵乃介の城へ向かうことになった。
      「重要な目的がない旅って、新鮮でいいね」
       法師と並んで歩く珊瑚は、手甲に脚絆、飛来骨を担ぎ、皆と旅をしていた頃と同じ格好だったが、弥勒と二人で出掛けることが嬉しいらしく、少し浮き浮きした様子で言った。
      「ある意味重要でしょう? 正直、私はいささか気が重い」
      「だったら、近くで宿を借りて待っている? あたし一人で行ってもいいよ」
      「別に構いませんよ。ただ、あの御仁、どうも苦手でしてね」
       報告して珊瑚の気がすむなら、さっさと報告してとっとと帰りたい。
       城の庭の橋の上で、手を取り合っていた珊瑚と蔵乃介の姿が脳裏をよぎる。今なら解る。あのとき感じた胸のわだかまりは嫉妬なのだ。
       弥勒は隣を歩く珊瑚を見た。
       視線を感じた珊瑚は彼を見上げ、嬉しそうに微笑んだ。
       あのときはまだ、互いに、互いへの想いを持て余していた。しかし、今の珊瑚ははっきりと自分と相思相愛の間柄であり、遠からず夫婦になる。
       何も心配することはない。
* * *
 武田家の城へ到着すると、熊妖怪によって破壊された跡もすっかり直され、城の侍たちは珊瑚のことをよく覚えていた。
       熊の怨霊退治のことは今も語り草になっているらしい。
       二人はさっそく広間へ通され、蔵乃介への謁見を許されることとなった。
      「珊瑚!」
       程なく現れた蔵乃介は相変わらず颯爽とした好青年ぶりで、一段上がった上座へ腰を下ろす前に、直接、珊瑚の前へ膝をついた。
      「息災であったか。よく、会いに来てくれた」
      「ご無沙汰しております」
       と、珊瑚は丁寧に述べて両手をついた。
      「本日は、無事、本懐を遂げたことを蔵乃介さまに報告するために参りました」
      「うむ」
       蔵乃介は満足げにうなずいた。
      「よくぞ無事で、戻ってまいった。わしも嬉しい。では、やっと祝言をあげられるのだな、珊瑚」
      「はい」
       頬を染め、珊瑚は伏せた眼差しでそっと微笑む。
      「わしも諦めず待っていた甲斐があった。珊瑚がわしの気持ちに応えてくれて、これほど嬉しいことはない」
       珊瑚の返事がひと呼吸遅れた。
      「……はっ? いっ、いえ」
      「お待ちを、武田どの」
       慌てて法師が助け舟を出そうとしたが、蔵乃介は弥勒を認めてにっこりと笑んだ。
      「あの折、珊瑚を助けてくれた法師どのだな。こたびも珊瑚の道中の護衛、御苦労であった」
      「ご、護衛……?」
       思い込みが激しいというか、どこまでもマイペースな蔵乃介にさすがの弥勒も唖然となる。
      「その後の話をゆっくりと聞きたいが、生憎、今日はしなければならぬことがたくさんあってな。だが、輿入れの支度を急がせれば、おそらく、三日月の頃には祝言をあげられるだろう」
       その言葉に、弥勒と珊瑚の顔が同時にぴきっと引きつった。
       おそるおそる弥勒が傍らの珊瑚を見遣ると、強張った顔を、じっとうつむかせている。
      「お待ちください。そうではなく、珊瑚は……」
      「客人を──いや、我が花嫁を部屋に案内せよ!」
      「はっ!」
       命じられた家臣が深く頭を垂れた。
      「法師さまの馬鹿ーっ!」
       蔵乃介の前から下がり、用意された部屋に二人きりになってから、珊瑚は、許婚であることを告げなかった弥勒に怒りをぶつけた。
       法師はといえば、こちらもあまり機嫌がよくない。
      「なんでもうすぐ祝言をあげるってはっきり言ってくれなかったの。法師さまはそのために来たんでしょ?」
      「言ったでしょう、あの御仁は苦手だって」
       弥勒は額を押さえてため息をつく。
      「そういう珊瑚だって、私は“法師さま”、向こうは“蔵乃介さま”。一体どちらが許婚か判りません」
       思いきり拗ねた口調で彼が言うと、珊瑚は戸惑ったように眉をひそめた。
      「そんなこと、今は関係ないじゃないか」
       そして不安そうに、言いわけをするように小さな声で付け加える。
      「どう呼ぼうと法師さまは法師さまだし、あたしの気持ちは……法師さまだって、よく……」
      「ええ、よく解っていますよ。私が悪かった」
       それ以上珊瑚を責めるのは酷な気がして、膝の上で握りしめられた彼女の手の上に己の手を重ね、弥勒はやさしくぽんぽんと叩いてから、握りしめた。
       夕餉の時刻に二人のもとに運ばれてきた膳は、はなはだ豪華なものだった。
       今回は法師の分も珊瑚と同等の内容で、酒まで添えてある。城主の祝言の前祝いといったところか。
       ──城主の祝言。
       また、弥勒の胸のもやもやが蒸し返される。
      「あの、すみませんが」
      「何でしょうか?」
       むしゃくしゃして、膳を整えていた侍女に声をかけてしまったのは、もう条件反射なのだろう。
      「酌をしていただけますか。美しい方の手で注がれる酒は格別です」
      「まあ、法師さまったら」
      「法師さまっ……!」
       珊瑚は柳眉を逆立てる。
       さすがに珊瑚との祝言を控えている今は、相手の肩を抱いたり手を握ったりということはなかったが、まるで当てつけるように振る舞う法師に珊瑚も苛立ちを隠せない。
      「あたしも!」
       法師と侍女を引き離すため、声を上げる。
      「あたしにも酌をしてください」
       侍女にとっては、遠からず主君の奥方になる女性、にっこりと愛想よく珊瑚の席まで移動しようとしたが、それを弥勒がとめた。
      「珊瑚は駄目ですよ。加減を知らないのに、明日、二日酔いで動けなくなったらどうするんです」
       珊瑚はむっとしたが、それはその通りで、明日こそはこの誤解をどうしても解かなくてはならない。
       侍女を下がらせ、妙にぴりぴりとした雰囲気の中、二人は黙々と豪華な膳に向かうのだった。
       寝床は別々の部屋に用意された。
       当然といえば当然なのだが、法師は何となく釈然とせず、この日何度目かの重いため息をついた。
       城主の花嫁候補が他の男と同じ部屋で床に就くのはまずいだろうが、珊瑚とは、婚約前から同じ部屋に寝起きするのが当たり前の仲だ。
       それが何故、今さら引き裂かれなければならないのかと思うと苛々する。
       夜具の上に寝転ぶと、不安げな珊瑚の顔が浮かんでくる。
       今にも泣きそうに強張った顔。
       はっとして、弥勒は身を起こした。
       あんな顔をさせておくのは夫になる者として失格だ。
       どんなときでも守ってやりたいと、そう思い続けてきたのではなかったか。
       弥勒は立ち上がった。
       とりあえず、今日の態度を謝りたくて、珊瑚の部屋の前までやってきて、襖越しに声をかける。
      「珊瑚……私です、ちょっといいですか……?」
       だが、そこに珊瑚はいなかった。
       部屋へ入ると、延べられた夜具に横たわった形跡はなく、彼女の荷と、飛来骨だけが部屋の隅に置かれていた。
       珊瑚はというと、その頃、蔵乃介の寝所にいた。
       夜伽に呼ばれたとか、そういうことではなく、珊瑚のほうから出向いたのである。
       政務で身体が空かない蔵乃介に今日のうちに話を聞いてもらいたくて、宿直の侍に無理を言ってこっそり寝所へ入れてもらった。
       小姓がいるだろうから、間違いは起こらないと踏んでのことだ。それより、珊瑚は弥勒に嫌な思いをさせていると、そればかりが気になって仕方がなかった。
       床に就いたばかりの蔵乃介は、珊瑚が来たと告げられ、驚いて起き上がった。
       が、寝所の次の間にいた彼女は、寝衣ではなく、小袖をきちんと身に付けていたので、家臣の誰かが気をまわしたのでないことはすぐに解った。
       明るく灯をともし、小姓を下がらせてから、蔵乃介はやさしい眼差しで珊瑚を見た。
      「どうした、珊瑚。急ぎの用件か? 時間なら、この先いくらでもあるぞ」
      「すみません。無礼は承知の上です。でも、話はすぐすみますから」
       珊瑚は畳に両手をついて、蔵乃介に頭を下げた。
      「ごめんなさい! あたし、蔵乃介さまとは一緒になれません。法師さまと……弥勒法師さまと夫婦になる約束をしているんです」
      「珊瑚」
      「そのことを報告しなければと──蔵乃介さまは、あたしに親切にしてくださったから……けじめの挨拶だけはしておきたくて」
       蔵乃介は珊瑚のそばに膝を進め、彼女の肩に手を置いて、顔を上げさせた。
      「そうか。もういい、珊瑚。よく解った」
       緊張に強張った珊瑚の顔を、蔵乃介は愛しそうに眺め遣る。
      「熊の怨霊退治のとき、わしも法師どのの存在が気になってはいたが。だが、おまえが本懐を遂げたと報告に来てくれたことが嬉しくて、つい、自分の都合がよいほうに話を捻じ曲げてしまったのだな」
      「本当にごめんなさい」
      「いや。おまえが幸せであれば、わしはそれを喜ばしいと思う。ただ、おまえの伴侶がわしではないのが残念だがな」
       蔵乃介は両手で珊瑚の手を取り、握りしめた。
      「わしからも、おめでとうと言わせてくれ」
      「蔵乃介さま……」
       そのとき、襖の向こうで大きな物音がした。
      「困ります、法師どの! そちらは殿のご寝所ですぞ!」
       がたん! と、襖が乱暴に開かれた。
       宿直の侍の制止を振り切って現れた弥勒が見たものは、寝所で手を取り合っている珊瑚と蔵乃介の姿。おまけに蔵乃介は白い寝衣姿だ。
       何かがぶちっと音を立てた。
      「武田どの、あなたという方は……!」
       相手が同等の身分なら、胸倉を掴むほどの勢いだ。
      「いくら妻にと望んでいる娘でも、まだ祝言もあげぬうちから寝所に引き入れるおつもりか!」
      「法師さま!」
       自分から押しかけた手前、珊瑚は赫くなって弥勒を押しとどめようと立ち上がった。
      「やめて、法師さま」
      「見損ないました。それから、今、珊瑚の立場をはっきりさせておきます。珊瑚は近いうちに……」
      「おぬしの妻になるのだそうだな」
      「そう、ですから……って、えっ?」
       弥勒は呆気にとられて蔵乃介と珊瑚を見比べた。
      「今、あたしから説明していたの」
      「え……でも、私に相談もなく、なんでこんな時間に。どれだけ心配したと思っているんです」
      「だって、法師さま、怒ってたし」
      「怒ってませんよ」
       そんな二人のやり取りを見て、蔵乃介は思わず笑い出した。
      「ははは、おまえたちは似た者だな。悔しいが、似合いだ」
       そこでようやく我に返って、弥勒は、珊瑚とともに蔵乃介の前に座し、無礼を詫びた。
      「本当はわしの手で幸せにしてやりたかったのだが……法師どの、珊瑚をよろしく頼むぞ」
      「はい。生涯、珊瑚の幸せを守ると約束します」
       弥勒と珊瑚はちらと眼を見交わし、少し照れたような表情を見せた。
       翌日、蔵乃介直々の見送りを受け、弥勒と珊瑚は城をあとにした。
       並んで歩き、来るときよりずっとくつろいだ表情で、微笑みを交わした。
      「珊瑚。少し、回り道をしてもいいですか? 町に用事がありまして」
      「いいけど、何の用?」
       弥勒は思わせぶりに微笑んだ。
      「祝言のためのおまえの衣裳を頼んであるんです。そろそろ縫い上がる頃ですよ」
       珊瑚は驚いて足をとめ、法師を見つめた。
      「そんな、あたし……!」
      「おまえを飾りたいというのは私のわがままです。黙って受けてください」
      「法師さま……」
       立ちつくす珊瑚に近寄った弥勒の指がそっと彼女の頬に触れた。
       見つめ合い、引き寄せられるように、妻となる娘の額に唇を寄せる。
       珊瑚は頬を染め、そっと弥勒に身を寄せた。
       あとは固めの盃を交わすだけ。
       それで、本当の夫婦になれる。
       約束の三日月の日は、二日後に迫っている。
〔了〕
2012.5.17.
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。