無言の結晶
最近、人里近くに出没するようになったという妖怪の噂を聞いた。
奈落の手掛かりに繋がるかもしれないと、その村を訪れた犬夜叉たちの一行は、村人に話を聞き、妖怪退治を引き受ける代わりに宿を提供してもらうことになった。
村で一番大きな屋敷で、あてがわれた部屋へ弥勒が戻ると、縁側で参考書を開いていたかごめが顔を上げた。
かごめの傍らでは、七宝がうたた寝をしている。
「遅いじゃない、弥勒さま。また、女の子口説いてたの?」
「泊めていただくだけでなく、今日の夕餉と明日の朝餉を付けていただけるよう、交渉してたんですよ」
かごめは呆れたようにため息をついた。
「ずいぶん長い交渉ね。相手はお屋敷の娘さんでしょ?」
「よくお解りで」
飄々と答える弥勒は、静かな室内を見廻した。かごめと七宝以外に人影はない。
「犬夜叉と珊瑚ちゃんなら、待ちくたびれて先に行っちゃったわよ」
「はあ。かごめさまは私を待っててくださったんですか?」
「あたしと七宝ちゃんはお留守番組。七宝ちゃんが疲れて寝ちゃったから」
妖怪が出没するという場所は、だいたいのところは聞いている。
村の近くまで現れ、人間を襲うこともあるという鳥の妖怪は、すぐ後ろの山の、切り立った崖の辺りに棲んでいるらしい。
だいぶ前に犬夜叉と珊瑚が山へ向かったのなら、もう、自分は行く必要がないのではないかと弥勒は思ったが、かごめが見逃してくれそうにないので、とにかく二人を追うことにした。
法師はのんびりと山を登る。
錫杖を鳴らして進むうち、ふと、弥勒は、犬夜叉たちと行動をともにするようになって、どれくらいが経つのだろうと考えた。
もう、ずっと長く一緒にいるような気がする。
仲間というものも悪くないと思い始め、その後、退治屋の娘の珊瑚も加わって、今では弥勒は彼らとの距離感を居心地よく思っていた。
ただ、最近、珊瑚が己に恋心を抱いていることに気づき、それだけが重たく心に引っかかる。
色恋でしがらみを作るのは厄介だ。
呪いを穿たれた身では、普通の恋愛など望めない。
旅先で恋の戯れを楽しむのは好きだったが、それはあくまでも刹那的な享楽と割り切り、どんな娘とも、深みにはまる前に別れた。
誰かを愛することも、誰かに愛されることも、互いにつらいだけだ。
山道を登っていくと、下りてくる犬夜叉に出くわした。一人だ。
「おや、犬夜叉」
「遅えぞ、弥勒。妖怪はもう退治したぜ」
「どんな妖怪でした?」
「でけえ猛禽の類いだ。数はいたが、おれと珊瑚で全て片付けた。奈落とは関係なさそうだ」
犬夜叉が得意げに、鉄砕牙の柄に手をかけて言った。しかし、退治屋の娘の姿が見当たらない。
「珊瑚は?」
犬夜叉は来たほうを顎で示す。
「まだ上だ。しばらく一人になりたいんだとよ」
雲母と崖の上に残ったという。
「そうですか。あまり遅くなってもなんですし、ここまで来たのですから、ちょっと珊瑚の様子を見てきます」
「ああ、解った」
本当は彼女と二人きりになるのは気詰まりだが、何となく放っておけないのも事実だった。
美しい顔に、いつも憂いを宿している娘。
激しいまっすぐな気性を持ち、まっすぐな想いをひたむきに彼に向けてくる。
その想いを受け止めてやれないなら、彼女の前から姿を消すべきだろうか。しかし、それができない。
同じ仇敵を持つ身だ。
仲間の中で、一番苛酷な精神状態にある彼女には、誰かの手助けが必要だった。
力になってやりたいと、心から思う。
仲間という立場で支えてやりたい。
だからこそ、彼女の想いに応えることも、はっきりと拒絶することもできずにいる。
珊瑚の気持ちには気づかない振りをして、さりげなく距離を置くしかない。
視界が開けた。
切り立った谷を見下ろす場所に、小さな猫又と並んで座る、黒い装束姿の娘の後ろ姿が見えた。
弥勒は彼女の名を呼ぼうと口を開ける。
と、そのとき、生臭い風が吹き渡り、複数の大きな羽ばたきの音が降ってきた。
前方の空が翳るのを見て、弥勒は唖然と息を呑む。
谷の向こう側とこちら側との空間に、突如、巨大な猛禽が現れた。広げた翼は優に大人二人分くらいの大きさがある。三羽いる。
「全て片付けたと、犬夜叉は言っていたではないか」
塒から離れていたのか、犬夜叉と珊瑚の攻撃をまぬがれたのであろう猛禽たちは、そこにいる珊瑚に襲いかかろうとした。
素早く立ち上がり、飛来骨を持ち上げる珊瑚。
だが、それよりも早く、弥勒は怪鳥たちに向かって風穴を構えていた。
「風穴!」
渦巻く風と法師の声に驚いた珊瑚が振り返り、何か叫んだが、もう遅い。
開いた風穴で鳥たちを捕捉した弥勒は、次々とその巨体を右手に呑み込んでいった。
三羽全てを吸い、すぐに数珠で風穴を封じたが、一緒に吸引された珊瑚が勢い余って彼の正面に飛び込んできた。
「……っ!」
とっさに弥勒は珊瑚を抱きとめ、二人は折り重なって地面に倒れる。
飛来骨が音を立てて落ち、うまく風の軌道から逃れた雲母が、変化した姿で軽やかに地に降り立った。
「いたた……」
仰向けに倒れた弥勒の上に伸しかかった体勢で珊瑚が怒鳴る。
「法師さま! 何やってるんだ」
「え……ですから、妖怪退治」
「あたしがいたの、見えなかった? 一緒に吸われるところだったじゃないか」
「……すみません」
冷静に考えれば、珊瑚の力で簡単に倒せる相手だと判断できたはず。
でも、放っておけず、思わず身体が動いてしまった。
弥勒は大きくため息をつく。
(愛しい娘に風穴を向けるなど。本当に、何をやってるんだろうな)
空へ視線を投げ、ほっと息を洩らした弥勒だが、いきなり自分の思考に気づいて、愕然となった。
(愛しい? ──って、え?)
一気に時間が凝固したような感覚だった。
「珊瑚。今、私は何と言った?」
「何も言ってないよ。っていうか、手をどけて」
言われて気づくと、仰向けに倒れた弥勒は、抱きとめた珊瑚の背をまだ左手で抱えたままだ。
「……」
彼はその手を彼女の腰へと滑らせ、さらにその下をおもむろに撫でた。
「法師さま!」
無理やり法師の手を引き剥がした珊瑚が、身を起こし、彼の頬を思い切り打つ。
* * *
「遅いじゃないか、法師さま。妖怪の生き残りがいたから、結果的にはよかったのかもしれないけど」
「反省してます」
打たれた頬をさすりさすり、弥勒は神妙に言う。
「珊瑚は一人になりたかったと聞きましたが。邪魔をしましたか?」
珊瑚は眉を曇らせ、わずかに眼を伏せた。
「構わないよ。でも、法師さまは、一人になるより二人がいいんだよね、きっと」
「……そうですな、確かに」
彼の返答を聞き、拗ねたように珊瑚は視線を斜め下に落とす。
「妖怪退治に遅れたの、屋敷の娘を口説いてたからなんだろ?」
「え?」
一瞬、弥勒は珊瑚がどうして屋敷の娘のことを持ち出したのか解らなかったが、すぐに、一人でいるより女と二人でいることが好きなんだろうと、そう指摘されたのだと気がついた。
(つまり、屋敷の娘に妬いていたわけか)
この状況で一人より二人と言われたのだから、当然、自分と珊瑚のことを指すと思ったのだが。
「妖怪にまだ仲間がいたら、犬夜叉が斬った血の臭いを嗅ぎつけてやってくるかもしれません。少し、様子を見てから戻りましょう」
「ああ」
二人は谷のほうを向いて、草の上に、少し距離を置いて並んで座った。
変化を解いた雲母は、珊瑚のそばに寝そべった。
言うべき言葉もなく、二人は無言で眼下の谷を見つめていた。
今日の自分はどうかしている、と弥勒は思う。
珊瑚が己に想いを寄せていると知ってから、こんなふうに二人きりになることを、できるだけ避けてきたのに。
(呪いさえなければ)
そう考え、違和感を覚えた。
呪いがなければ、どうしていたというのだろう。
(風穴がなければ、当たり前の生を生きることができる)
当たり前の恋も。
弥勒はちらと傍らの娘を見遣る。
風穴の呪いを、己の定めとして受け入れたつもりでいた。けれど今、呪いのために死にたくないと、ふと思った自分がいる。
「珊瑚」
低い声で彼女の名を呼んだ。
「なに?」
「死ぬのが嫌だと、怖いと思ったことがありますか?」
「誰だってそうじゃない?」
意外に落ち着いた珊瑚の声を聞いて、弥勒は顔を上げ、彼女を見つめた。
「あの子は……琥珀はこわいと言って、泣いていた」
思わず、彼女の細い肩を抱き寄せたくなる。だが、それはできない。弥勒はぐっとこらえた。
「すみません。つらいことを思い出させてしまったな」
「いいよ、別に」
「私が死を怖いと言ったら、どう思います?」
「え?」
珊瑚は怪訝な顔をする。
「法師なのに悟り切れていない、情けないと思いますか?」
「そういうことを悟れるのは、もっと徳の高い、えらい坊様とかだろう? 俗世にまみれた法師さまが死が怖くても、そんなの当たり前じゃないか。情けなくはないさ」
弥勒は無性に生への執着を感じた。
幼くして父親をあんな無惨な形で喪い、何度も絶望しかけた。法師としての修業を積むようになっても、本当は御仏など存在しないのではと思ったことも一度や二度ではない。
それでも、己の運命を受け入れたはずだ。
なのに、何故、今さら生きたいと願うのだろう。
(珊瑚……この娘を、もしかしたら、私はすでに)
ともに闘うことのできる娘。
いつの間にか、珊瑚の存在が、彼の中の何かを変えた。
本気で誰かを好きになることを、避けてきたのに。
弥勒は、視線を遠くへ、遠くへと投げた。
穏やかな青空と、谷と、岩肌が見える。
飄然と生きてきたはずが、心の深層を探ってみれば、発することなく埋もれていた無言の想いが、すでに無数に積み重なっていることに気づく。
それら全てが、愛しいなどという言葉では追いつかないくらい、一人の娘への切ない恋慕の情を形作っている。
自覚した今この瞬間の時間すら、結晶と化して、深く深淵に沈んでいくようだ。
「珊瑚」
低いささやきに、空を眺めていた珊瑚は、ふと彼を振り返った。
「一緒に本懐を遂げよう」
奈落を倒す旅に、新たな目的ができた。
闘いの先に待つものが何であれ、最後までこの娘のそばにいて、支えてやりたい。
「何があっても、ともに闘おう」
「うん」
うなずく娘の顔を見て、これ以上、この娘を好きになるまいと弥勒は誓った。
仲間として珊瑚を守る。
持て余していた彼女への想いは、風穴が消えるまで封印する。
万が一、それまでに珊瑚が別の男を好きになったなら、それはそれで構わない。
弥勒は立ち上がった。
「静かですな。もう、新手が来ることもないでしょう。そろそろ戻りましょうか」
「そうだね」
法師が手を差し出したのを見て、珊瑚は驚いたような顔をしたが、桃の花びらのように美しく頬を染め、彼の手を取って立ち上がった。
奈落を倒し、生き残る。
単純で困難なそれを成し遂げて、はじめて彼は、珊瑚の想いに応えることを己に許せるだろうと思った。
この娘の手を握るのは、風穴のない手でなければならない。
〔了〕
2013.11.12.
空さんから、「弥勒が珊瑚への想いを初めて自覚するお話」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。