プシュケの反乱

 視線が彼を追う。
 すぐ眼を逸らすように努力はしているけれど、それは自分自身を誤魔化して、気づかない振りをしていたいだけなのかもしれない。
 独り、宿の部屋で、珊瑚は縫い物の手をとめ、小さく、けれど深刻なため息を洩らした。
(昨日も、一緒に行くのを断られた)
 この町に着いたとき、自由時間は一人で過ごしたいからと言われた。
(今日だって、縫い物を断られた)
 自分の物を繕うついでに、法衣の綻びを繕おうかと申し出たが、自分でできるとあっさり辞退された。
(……あたし、鬱陶しいかな)
 いつの間にか、弥勒の行動に対し、いろいろと口出しをするようになった。
 気づけば彼を追いかけている。
 食事時だって、座る場所が決まっていないときは、かごめが犬夜叉の隣にいるからとか、七宝はかごめのそばを好むとか、そういうのを抜きにしても、珊瑚は無意識に法師のそばを選んでしまう。
(世話女房気取りとか思われていたらどうしよう)
 その考えにどきんとして、珊瑚は縫い物の手をとめた。
(あたし、法師さまのこと、特別に思ってる……?)
 しかし、弥勒のほうは彼女に対し、常に距離を置いているように感じられる。
(法師さまはあたしに構われることをよく思っていない。あたしだって、こんな物思いよりも、しなければならないことがある)
 鬱陶しい女だと思われて、空回りばかりして、これ以上、彼につきまとっていても、いいことなんかあるはずがない。
(いい加減、やめなければ。あたしと法師さまは仲間なんだ)
 こんな気持ちは断ち切るべきだ。
 そうすれば、このもやもやした物思いからも解放されるだろう。

 その日から、珊瑚はぱたりと弥勒に構うことをやめた。
 自由な時間はかごめとのおしゃべりを楽しみ、七宝の世話を焼き、妖怪についての意見を求めるときは、主に犬夜叉に話しかけた。
 法師と話すより、そのほうが気楽で、変な緊張を伴わなくてすむ。
 少し淋しくはあるが、わりと簡単に心の平穏を得られ、珊瑚はほっとした。
 どうせ、叶わない片想いだったのだ。

* * *

 幾日かが過ぎた。
 通りかかった村の農家に泊めてもらった翌朝、朝餉の席で、弥勒は珊瑚をじっと見ていた。
 もちろん、当人や仲間たちに悟られるほど露骨な視線ではない。
 ただ、最近の珊瑚の態度が、弥勒にはどうにも腑に落ちなかった。
(何というか、手ひどく振られたような気分なんだが……)
 振られる以前に、好きだと言われたこともない。
 本人は気づいているのかどうかも怪しい珊瑚の気持ちは知っているが、それを互いに確認したわけではないし、こちらの気持ちを表に出したこともない。
 なのに、どうして、勝手に打ちのめされたような気分になるのだろう。
(馬鹿馬鹿しい)
 麦飯を口に運びながら、弥勒は何食わぬ顔で、かごめと話す珊瑚の姿を見守った。
(かごめさまと仲がいいのは前からだが……最近、私より犬夜叉にばかり話しかける)
 七宝が、彼の漬物へ箸をのばした犬夜叉を怒っている。さらに七宝の箸がこちらへのばされる前にと、法師は自分の漬物を口に放り込んだ。
(まさか、犬夜叉に心を移す気では……)
 そんなことがあるわけないのに、妙に心の奥がざわついた。
 思わず横目で犬夜叉を睨んでしまい、耳をぴくりとさせた犬夜叉が、殺気を感じたように、訝しげに部屋の中を見廻した。
 法師は素知らぬ顔で味噌汁に口をつける。
 何故だか無性に腹が立つ。

 泊めてもらう条件として、一行は妖怪退治を引き受けていた。
「あたしが行くよ。聞いた話じゃ、全員で行くこともなさそうだし。かごめちゃん、勉強が遅れてるって言ってたろ? 残ってていいよ」
「珊瑚ちゃん、一人で大丈夫?」
「じゃあ、おれが──
 一緒に行ってもいいぜ、と犬夜叉が言いかけたとき、素早く法師が、勿体ぶった口調で彼の言葉をさえぎった。
「私が一緒に行きましょう。一人ではないほうがいい。何やら雲行きも怪しいですし」
 取って付けたように天候を理由に同行を申し出た弥勒を、一同は意外そうに見た。
「何か?」
「今回の妖怪は美女じゃねえぞ?」
「手強くもなさそうじゃ」
「解ってますよ」
「犬夜叉も七宝ちゃんも、何言ってるのよ。弥勒さまが一緒なら、安心だわ」
 かごめだけは、期待を込めて弥勒を見たが、当の珊瑚は比較的冷静に見え、何となく弥勒は面白くなかった。

 曇天の下、弥勒は退治屋の装束を身にまとった珊瑚と一緒に農家を出た。
 珊瑚の肩には雲母もいる。
「珍しいね、法師さま。雑魚妖怪相手だと、たいてい、あたしや犬夜叉に任せて遊びに行ってしまうくせに」
 珊瑚の口調も視線も、犬夜叉へ向けられるものと大差なく、二人きりになったときに何らかの変化を期待していたらしい自分に気づき、弥勒は情けなさそうにため息をついた。
(告白すらしていないのに、何故、まず振られる)
 そう問いつめたいが、問えるわけがない。
「私が人助けをするのが、そんなにおかしいですか?」
「だって、法師さまの人助けには、なーんか魂胆があることが多いから」
 軽い調子でしれっと言う珊瑚の様子が可愛すぎ、否、自然すぎて腹が立つ。
 久しぶりに二人きりで近い距離にいるのだから、ここはちょっと恥じらうとか、美女妖怪のときに焼きもちを妬いたことを思い出すとかして、頬を染めるべきではないのか。
 つい先日まで、欲しい反応を自在に引き出すことができたのに、これだから女というものは油断がならないと思った。
 とはいえ、色恋の手練手管に長けているとも思えない珊瑚が、微妙な駆け引きなどできるはずがない。
(すると、やはり心変わり……)
「……法師さま? なんか顔色が悪くない?」
 弥勒の気持ちがずーんと落ち込む。

 目的地は付近の山中を流れる川だ。
 そこに妖怪が棲みついたために、川の水が毒を含み、その川下の水を使っている麓の村人が困っているというのだ。死人が出るほどではないが、川の水が原因で体調を崩す者が続出している。
 村人たちは手を焼いていたが、妖怪そのものは、犬夜叉でも弥勒でも珊瑚でも、一人いれば充分の弱い小妖怪だった。
 川獺に似た妖怪は毒を持ち、凶暴だったが、こういう手合いは珊瑚のほうが適任なので、弥勒は雲母を肩に乗せて、珊瑚の妖怪退治をぼーっと見ていた。
(これは私の出番はないな)
 妖怪の巣は木立の中の浅瀬にあった。
 山の木々を傷つけぬよう、飛来骨を置いて、珊瑚は刀を抜いた。
 妖怪は素早い動きで襲いかかってきたが、刀を振るい、すぐに珊瑚は獣を仕留めた。ここに棲みついていたのは単体であったようだ。
 鮮やかに仕事を終え、彼女は刀を振って血のりを落とし、鞘に収めた。
 と、よどんでいた灰色の空から、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。
「降ってきたな」
 空を見上げ、弥勒がつぶやく。
「来る途中、炭焼き小屋がありました。そこで、少し雨宿りしていきましょう」
「いま行く」
 だが、飛来骨を持ち上げようと背を向けた彼女の結い上げた髪の先が、わずかに赤く染まっていることに彼は気づいた。
「珊瑚、返り血を浴びてますよ。髪に血がついています」
「えっ?」
 指摘され、髪に手をやり、珊瑚は困ったような表情をした。
「背中にも少し。拭ってあげますので、じっとして。今、手拭いを濡らしますから」
 近づいた法師が手をのばそうとすると、慌てたように彼女は身を引いた。
「あの、臭いが……」
「臭い?」
 珊瑚はつっけんどんに彼から眼を逸らした。
「ごめん、この妖怪の血は嫌な臭いが強いんだ」
「それで?」
「だから……その、法師さまに嫌な思いをさせる」
「構いませんよ。返り血がついたのは背後ですから、自分では拭えないでしょう」
「あの……」
 珊瑚は恥ずかしそうに、法師の視線を避けた。
「衣に臭いが染みつく前に、できるだけ早く洗いたいんだ」
 身だしなみに気を遣う様を、おなごらしい、と法師は心の中で微笑する。
「少し雨の様子を見て、それから村へ戻りましょう」
 だが、珊瑚は頑なに首を横に振った。
「法師さま、先に雨宿りしてて。あたし、この川で衣と髪を洗ってから行くから」
「ここで? 髪はともかく、衣って、まさか」
 眼を見張った法師をちらと見て、珊瑚はすぐにまた横を向いた。その頬が赫い。
「絶対見ないでよ」
 いつも自分に向けられていた初心な愛らしさが垣間見え、内心、弥勒は高揚したが、二人きりでその状況はまずくはないだろうか。
「珊瑚。少々臭いがついたとしても、説明すれば、誰も悪く思いませんよ」
「……」
「もしかして、犬夜叉がつらい臭いなんですか?」
 弥勒の眉がわずかに曇った。
「犬夜叉? そうじゃないけど……」
 血の臭いが装束に染みついてしまったら、簡単には取れない。
 そうなると、しばらくは、その臭いのついた装束を着続けなくてはならない。
 法師のそばで。
 つまるところ、それが嫌なのだ。
「解りました」
 ため息まじりに、弥勒は言う。
「私は雲母と先に雨宿りしていますから、雨がひどくならないうちに、珊瑚も早く来てください。来るときに通ったので、場所は判りますね」
 呆気なく踵を返し、弥勒はすたすたと歩いていく。
 彼はどこか不機嫌そうで、何となく気まずかったが、珊瑚は気を取り直して髪を解き、装束を解いて、妖怪の血に汚れた箇所を川の水で洗い始めた。

 霧雨が視界を覆っていた。
 雲母を連れて、粗末な炭焼き小屋で珊瑚を待っていた弥勒は、ぼんやりと雨を眺めて物思いにふけっていた。
 近くの茂みで何かの気配が動く。
 はっとして、すぐに小動物だと判ったが、珊瑚のことが気にかかった。
 山の中とはいえ、一人きりで無防備に装束を脱ぐなど、やはり危険だ。山越えの道からもそれほど外れてはおらず、旅人が雨を避けてこちらへ来たら、鉢合わせする可能性だって皆無ではない。
 錫杖を手に立ち上がった弥勒を雲母が見上げた。
「雲母、珊瑚を迎えに行きますよ」
 雨を縫って、もとの場所へ向かった弥勒は、霧雨の向こうに、脱ぎ捨てられた装束と、降りかかる雨を受けて念入りに髪を洗う娘の姿を見た。
 川は狭く浅く、身を浸す深さもないので、娘はこちらに背を向け、立ったまま、雨を受けて髪をすすいでいる。
 弥勒ははっとした。
 けぶる雨越しに見ているせいか、瑞々しい裸体は、まるで山の精霊のような、人ならぬ美をまとわせていた。
(たかが女の裸に、ここまで心乱されるとはな)
 完成された、成熟した美ではないが、内に輝きを秘めた、咲き初めの花のような初々しさだ。
 男を惑わせ、虜にし、それでいて無自覚。この娘の美しさは罪だと弥勒は思った。
 錫杖を置いて自らの袈裟を解き、弥勒はそれを持って、裸形の娘に歩み寄る。そして、髪を洗うのに余念がない彼女を後ろから抱き締めた。
 いきなり袈裟に包み込まれ、珊瑚は息を呑んだ。
「法師さま……!」
「もう充分です。これ以上は風邪をひきますよ」
 彼はそこらに散らばった、すでに洗い終わった彼女の装束を拾い集め、変化した雲母の背にまとめて乗せた。錫杖や飛来骨は、もう一度取りに来ればいい。
 袈裟で包んだ珊瑚自身は、自らの腕に横抱きに抱き上げた。
「あのっ、法師さま……」
「髪も衣も、元通り綺麗ですよ。行きましょう」
 そのまま珊瑚は、炭焼き小屋まで、弥勒に抱かれて運ばれた。雨は霧のようにさらさらと降っている。

 狭い小屋の中で法師と並んで座り、彼の袈裟にくるまった珊瑚は、その下が素肌であることが気になって、身を硬くする。
 臭いがつくことに抵抗があったのは、弥勒を意識してのことだ。
 やはり、恋心は捨てきれなかった。
「……待ってるって言ったくせに」
 一糸まとわぬ肌を見られたことを恥じらい、珊瑚は恨みがましくつぶやいた。
「法師さまは信用ならない。あたしとかごめちゃんの湯浴みをときどき覗いてることも、知ってるんだから」
「ああ、安心してください。珊瑚しか見ていませんから」
「どう安心しろっていうの!」
 声を荒げたが、弥勒の視線を受け、すぐにもじもじと恥ずかしそうに、彼女はうつむいた。
「珊瑚は……」
「なに?」
「最近、珊瑚は私を心配してくれんのだな」
「え?」
 ぽつりとこぼれた弥勒の言葉がよく呑み込めず、珊瑚は軽く眼を見張って法師を見た。
「心配? してるよ。仲間なんだし、当たり前だろう? それに、他のみんなだって心配してるじゃないか」
「いつか言ったでしょう? おまえに心配されるのが一番嬉しいと」
 ずるい、と珊瑚は思う。
 そんな言い方をされたら、いつまでも彼を諦めることなんてできやしない。
「この先ずっと、珊瑚が私を心配してくれないのなら、私はこのまま皆のもとへは戻らず、一人で旅をしようかとも考えていました」
「どうして──?」
 珊瑚は顔を強張らせ、弥勒を見た。
 少しは気づけ、と弥勒は念じる。相手が犬夜叉でなくとも、他の男へ想いを向ける珊瑚をそばで見ることになるのはつらいのだ。
「変だよ、法師さま。もしかして、風穴が痛むの? なら、なおさらみんなと一緒のほうがいい。一人になったら、また奈落に狙われる」
「一緒にいたら、珊瑚は以前のように、私を心配してくれますか?」
「それは……」
 珊瑚は言いよどんだ。
「法師さま、そういうの、嫌いだろ?」
「何故?」
「あたしにとやかく言われるの、鬱陶しいと思ってない?」
「えっ?」
 弥勒はやや面食らったように珊瑚を見返す。
「自由時間のときとか、法師さまの身の回りのこととか、あたしがうるさくするから」
「ああ、──なるほど」
 ようやく、弥勒は合点がいった。
 一方通行の不毛な恋を持て余し、均衡を保つため、彼女は自らの恋心を切り捨てようとしたのだと。
 ほっとして、同時に呆れて苦笑がこぼれた。
「そういうことでしたら、珊瑚。性急に答えを出そうとしないでくれませんか」
「答え?」
 まずい言い方をしたかもしれない。
「つまり」
 と、弥勒は言い直した。
「私は見かけほど器用ではない」
 互いの恋慕を匂わせないように、弥勒は慎重に言葉を選んだ。
「私は今まで一人でいることが多かった。ですから、他者と近しい関係を築くことに慣れていないんです。珊瑚はそのままでいい。鬱陶しいなどとは思っていませんよ」
「本当?」
 まだ答えを出したくなかった。
 右手に呪いがある限り、どんなに愛しくても、未来を約束することはできない。だから、仲間であり続けるため、常に一定の距離を保とうとしている。
 珊瑚が彼に近づけば、彼は珊瑚との距離を意図的に取る。
 風穴の運命に愛しい娘を巻き込むわけにはいかない。
 だが、珊瑚には諦めることを許さなかったこの恋を、彼自身、簡単に諦めたくはなかった。奈落を倒す。それまでは仲間だ。
 雨が上がるのを待ちながら、ふと、弥勒は、袈裟にくるまって隣に座る珊瑚を見遣る。
「珊瑚はその格好では戻れませんな」
 刹那、珊瑚は冷えた頬を桜色に染めた。
「……法師さまに襲われたって言う」
「ちょっ……! 本気にされたらどうするんですか。雨が上がったら、私が雲母に乗って小袖を取ってきますから、かごめさまにちゃんと事情を話してください」
「冗談だよ。一緒に戻っても、どこか物陰に降りれば気づかれない。かごめちゃんにはちゃんと説明するから」
 小さく淡く微笑んでみせた珊瑚が愛らしく、思わず見惚れ、今すぐ陥落させられそうになった。
「あまり無邪気すぎるのも罪深い」
「え?」
「いえ、何でもありません」
 次に彼女の心が反乱を起こしたとき、正直、それを鎮められるかどうか自信はない。
 しかし、己の気持ちを打ち明けるには、もう少し時間が必要だった。
 雲の向こうに陽が射してきた。
 視線を感じて振り向くと、彼を盗み見していたらしい珊瑚が慌てて眼を逸らし、うつむいた。
 思わず、彼女の背後へ法師の手がのびかけたが、今日はやめておこうと、彼はそっとその手を引いた。
 愛くるしい声で雲母が鳴いた。
 雨がやんだと告げたのだ。

〔了〕

2013.10.2.

myuさんから、「『珊瑚ちゃんが弥勒様を振る』みたいな展開。告白前、不毛な片思いに終止符を打つみたいな感じ・慌てふためく法師さま」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。