陽だまりと三角

 村が見えてきた。
 楓という老巫女が束ねる、姉の住む村だ。
 雲母に乗って上空を飛行してきた琥珀は、眼下に広がる村の景色が近づくにつれ、微笑みを深くした。
 姉の珊瑚が法師と祝言をあげて、琥珀が二人のもとを離れてから、それほど日が経っているわけではない。けれど、姉に会うのはやはり懐かしいし、嬉しかった。
 姉夫婦は村の外れに住んでいる。
 その家が見えてきた。
 義兄への土産の酒も用意したし、突然の訪問を、二人はきっと喜んでくれるだろう。
 だが、琥珀は不意に、上空から緩やかに下降し始めた猫又を制した。
「雲母、止まれ!」
 琥珀が怪訝に思ったものを、雲母も目に留めた。
「あれ、姉上と法師さまだよね……?」
 空中に浮遊したまま、琥珀と雲母が見つめる先には、新居の裏庭で向かい合って立ちつくす弥勒と珊瑚の姿があった。
 退治屋の装束に身を包んだ珊瑚は刀を、法師は錫杖を構え、険しい表情で睨み合っている。
(なんで? って、もしかして、夫婦喧嘩?)
 驚いて琥珀は眼を見張る。
 この二人が本気の戦闘力で夫婦喧嘩などしようものなら、止められるのは犬夜叉ぐらいではないだろうか。
 と、次の瞬間、対峙していた弥勒と珊瑚が同時に地を蹴り、激しく打ち合い始めた。
「姉上!」
 そのあまりの気迫に慌てた琥珀は、急ぎ、雲母に命じる。
「雲母、突っ込め! 二人を止めるんだ」
 刹那、何かが手の中から滑り落ちたが、そんなことに構ってはいられなかった。空中からまっすぐに、雲母は打ち合う二人を目掛けて飛び込んでいった。
 それに気づいた弥勒と珊瑚が、はっとして、左右に飛び退る。
 雲母は二人の間を突っ切り、再び上空へと翔け上がった。
「琥珀……!」
 弟の姿を認めた珊瑚が大きく眼を見開いた。
 空中を旋回して、琥珀を乗せた雲母は、法師夫妻の家の裏庭にふわりと降り立つ。雲母の背から飛び降りた琥珀が、驚く弥勒と珊瑚に駆け寄った。
「何してるんですか! 姉上も、義兄上も!」
「な、何って……」
「そんなことをしてると、今に大怪我しますよ!」
 必死に二人をいさめる少年を見て、呆気にとられたように、弥勒と珊瑚は顔を見合わせた。
「琥珀、何か勘違いをしているのではありませんか?」
「よく見て。これは木太刀だよ」
 珊瑚が手にした刀を差し出してみせたが、琥珀は厳しい表情を崩さなかった。
「木太刀でも、大怪我をすることだってあります」
 法師が、ふと微笑む。
「もしかして、琥珀には、私たちが本気で闘っているように見えたんですか?」
「えっ?」
「撃剣の稽古をしていたんだよ」
 姉の言葉に眼をまるくして、琥珀は口をつぐんだ。

 姉夫婦の家の居間へ通され、琥珀は、顔を赤らめ、小さくなって座った。
 小袖に着替えた珊瑚が三人分の茶を淹れた。
「じゃあ、琥珀は夫婦喧嘩だと思ったんだ。でも、あたしたちは、まだ、夫婦喧嘩なんかしたことないよ」
「ときどき、珊瑚に怒られることはありますけどね」
「あたしが、いつ?」
「私が他のおなごと話しているだけで、すぐに睨むではありませんか」
 囲炉裏を囲んで座り、相変わらず仲睦まじい姉夫婦を見て、この二人が本気でいさかうはずがないではないかと、琥珀は自分の早とちりにため息をついた。
「ごめんなさい、土産の酒を駄目にしてしまいました」
 雲母と上空から突っ込んだ際に、酒壺は落として割れてしまった。
「土産なんて、気にしないで。気持ちだけで嬉しいよ」
「でも、義兄上に頼まれたものだから」
 珊瑚は「えっ」と夫を振り向く。
「法師さま、琥珀に土産なんて頼んでいたの?」
 いささか胡乱な視線を受けて、弥勒は照れくさそうに苦笑した。
「いえ、頼むというか。帰ってくるときは地酒の差し入れなどあれば嬉しいなあ、とか言ったことが……」
「呆れた」
「義兄上、次は割らずに持ってきますから」
「楽しみにしていますよ。ところで、ずいぶん急な来訪ですな。いつでも大歓迎ですが、何かありましたか?」
「ああ、これを」
 琥珀は取り出した小さな巾着を、囲炉裏越しに向かいに座る弥勒に手渡した。
「妖怪退治で怨霊の類に遭遇して、義兄上にもらった数珠の力に助けられたんですけど、そのとき、糸が切れてばらばらに飛び散ってしまって」
 受け取った巾着を開け、弥勒は中の数珠玉をいくつか掌に取り出して、その状態を確かめた。
「これはもう駄目ですな。新しいものを渡しましょう。役に立ったのならよかった」
「琥珀。おまえ、そんなに危険な仕事をしているの?」
「以前ほど危険なわけじゃないよ。心配しないで。でも、二人で撃剣の稽古をしているのなら、おれも義兄上に稽古をつけてほしいな」
「あたしじゃなくて、法師さま?」
「義兄上って、相当の腕なんでしょう? 姉上と互角かそれ以上だって聞いた」
 珊瑚はやや複雑そうだったが、弥勒は笑って気軽に承知した。
「いいですよ。おまえがここに滞在する間。なんなら、今からでも構いません」

 珊瑚が夕餉の支度をする間、琥珀は弥勒に剣の相手になってもらうことにした。
 弥勒と珊瑚が祝言をあげてから、ふた月経つか経たないかという頃だったが、琥珀は弥勒に全幅の信頼を寄せている。
 二人の祝言前、琥珀がこの村に身を寄せていた短い間、法師とも寝食をともにし、いろいろと話もした。
 彼については耳を疑うような逸話を姉や犬夜叉たちから聞かされていたが、一対一で話す弥勒は、法師らしく、琥珀がこれから生きていくため、罪に向き合うための助言を親身になって与えてくれた。
 それでずいぶん救われた気がする。
 姉が選んだ人に間違いはなかったのだと、琥珀は思った。

 久しぶりに三人と一匹で囲む夕餉は新鮮だった。
 大根の葉の菜飯に焼き魚、味噌汁、野菜の煮物、山菜の和え物など、質素だが心のこもった料理が並ぶ。
 いただきます、と三人で手を合わせたあと、弥勒が小さく欠伸を洩らすのを見て、琥珀は少し申しわけなさそうに義兄を見た。
「もしかして、無理におれにつき合わせてしまいましたか?」
 箸を取った弥勒は、魅惑的に笑む。
「いえ。ちょっと寝不足なだけです。夕べ、珊瑚と深夜まで頑張ってしまいましたから」
「……はあ」
 琥珀は頬を赤らめ、言葉につまって、下を向いて飯を口に運んだ。
「あ、違いますよ。二人で夜なべをしていたんです」
「夜なべ?」
「赤子の着物を縫ってたんだ。で、どっちが上手いか競争になって、つい、夢中になっちゃって」
 琥珀は驚いて姉を見つめた。
「姉上、子供できたの?」
「やだ、まだだよ。でも、いずれ必要になるものだから、今から縫い始めても早すぎることはないって、法師さまが」
 焼き魚にかぶりつく雲母に視線を落とし、珊瑚は恥ずかしそうに答える。
「義兄上は、着物を縫えるんですか?」
 味噌汁に口をつけていた弥勒は、鷹揚に微笑んでみせた。
「私は幼い頃、寺に預けられましたから。修行と称して、家事と名のつくこともひと通りはやらされました。夢心さまはあの通りでしょう? ほとんど私一人で寺を切り盛りしていましたから、大抵のことはできますよ」
「でも、寺にずっといたわけじゃないんでしょう?」
「ええ。その後何年かは一人で旅をしましたが、自分のことは自分でやっていましたし、それだけ長く女手のない生活を送っていれば、縫い物もできて当然ですよ」
「……女手はなくても、女っ気は絶えなかったんだよね」
 拗ねたような口調で珊瑚がぽつりとつぶやいたが、弥勒はそれには答えず、義弟を見て苦笑した。珊瑚は、焼き魚を食べ終えた雲母の皿に自分の煮物を分けてやり、すぐに機嫌を直して、弟を見た。
「でもね。法師さまはそんなだから、うちの家事もよく手伝ってくれる」
「へえ」
「たくさん子供が欲しいと言ったのは私ですからな。珊瑚一人に負担はかけられません。幸い、ある程度の時間の自由が利く仕事ですし、家事もできることはやります」
 弥勒は妻に視線を向けて微笑み、その微笑みを受けて、珊瑚も花のような笑みを浮かべた。
 二人の間の空気がやさしく、色めいていて、思わず琥珀の鼓動が跳ねてしまう。
「ねえ、なんか、姉上と義兄上の距離が近くなったね」
「え?」
 二人はきょとんと琥珀を見た。
「何て言うか、祝言をあげる前は、三人でいても、姉上は義兄上よりおれのほうに近い位置にいた気がしたけど、今は完全におれより義兄上の近くにいる」
 珊瑚は仄かに頬を染め、弥勒は嬉しそうに妻を見遣った。
「今の姉上は、おれの姉上っていうより、もう完全に法師さまの妻という位置にいるんだね」
「珊瑚との距離感が変わって、寂しいですか?」
「少し」
「それも、あと二、三年もすれば気にもならなくなると思いますよ。琥珀にも大切なおなごができれば」
 義兄の言葉に、琥珀ははにかんだように眼を伏せた。姉とよく似た仕草に弥勒の笑みが深くなる。
「その頃の珊瑚と私には、きっと、子供が一人か二人いるのでしょうな」
「そうだね」
 幸せそうに珊瑚が微笑む。
 三人と一匹で囲む夕餉の膳は、琥珀には、平和な里にいた頃の懐かしい姉の味だった。
「ねえ。今夜はあたし、小さい頃みたいに琥珀と寝たいな」
「えっ?」
 突然、そんなことを言い出した姉に戸惑った琥珀が弥勒を見遣ると、唖然となった法師は即座に反対した。
「駄目です」
「いいじゃないか。久しぶりなんだし」
「珊瑚にとっては、いつまでも弟でも、琥珀はもう独り立ちした大人ですよ」
「一緒に寝るなんて、きっとこれで最後だよ」
「では、もし、私に琥珀くらいの妹がいたとして、一緒に寝たいと言ったら、おまえは許しますか?」
 珊瑚は途端に眉を険しくした。
「絶対許さない」
「ほら、ごらんなさい」
 法師は食べ終えた飯茶碗を置いて、優雅に茶をすする。
 当の琥珀そっちのけで焼きもちを妬き合い、睦言のような調子で言い合う二人に琥珀は苦笑した。雲母と顔を見合わせ、肩をすくめる。
「けれど、琥珀。しばらく滞在してくれると嬉しいですよ。珊瑚も喜ぶでしょう」
「ありがとうございます。……じゃあ、義兄上の言葉に甘えようかな」
「嬉しい。明日の夕餉は、おまえの好物をたくさん作るよ」
 そんなふうに、三人の夜は更けていった。

* * *

 翌朝、琥珀が眼を覚ますと、すでに台所で動く人の気配があった。
 そっと寝床から起き上がり、板戸を開けて台所を覗いてみると、弥勒と珊瑚が仲よく二人で朝餉の支度をしている。
 本当に二人一緒に家事をしているんだ、と、琥珀はちょっと感動した。
(敵わないよな、義兄上には)
 弟の視線に気づいた二人が振り返った。
「おはよう、琥珀」
「おはよう。よく眠れましたか?」
「……おはようございます」
 寝乱れた髪を手で直しながら、恥ずかしそうに琥珀は答える。
「今日は、法師さまと薬草摘みに出かける予定なんだけど、琥珀も行かない?」
「薬草摘みといっても、握り飯を持って、半分野遊びのようなものですよ」
「……お邪魔じゃなければ」
 一応、遠慮してみせると、弥勒は悪戯っぽく微笑んだ。
「珊瑚はおまえと私で両手に花としたいんですよ」
「法師さまったら」
「まあ、それは冗談ですが、ここにいる間は、姉上のそばにいてあげてください」
「はい」
 琥珀は板戸を占め、夜具を片付けると、顔を洗いに井戸へ向かった。
 ここに滞在している間、法師と姉には当てられっ放しになるのだろうなと思う。それでも、姉夫婦の家は陽だまりのように居心地がよかった。
 この家は理想であり、目標だ。
 二、三日滞在させてもらって、英気を養おうと、井戸端で顔を洗った琥珀は大きく伸びをした。
 今日もよい天気になりそうだ。

〔了〕

2013.4.6.

匿名さんから、「琥珀くんと二人の絡み(結婚後)」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。