精霊の舟
その山では山菜が山ほど採れるという。
種類も量も、通常の比ではないらしい。
「気分転換に足を延ばしてみますか」
「いいね」
噂を耳にした弥勒がその詳しい場所を聞き出してくると、珊瑚も興味を引かれた様子でうなずいた。
だが、一緒にいたかごめは首を横に振った。
「あたしたちは遠慮する。勉強もだいぶ遅れてるし。珊瑚ちゃん、弥勒さまと二人で行ってきて? お土産の山菜、期待してる」
楽しげに手をひらひらさせるかごめに、珊瑚は少し恥ずかしそうに横目で法師を見たが、弥勒はかごめに負けない笑顔でにっこりと応じた。
そんなわけで、弥勒と珊瑚は二人だけで山菜採りに行くことになった。
山に入るため、珊瑚は飛来骨を皆のところに残し、代わりに借りた背負籠を背負っている。
「えっと……みんなで行きたかったね」
歩きながら、取って付けたように言う珊瑚に、弥勒はくすくすと笑った。
「珊瑚は、私と二人より皆と一緒のほうがよかったですか?」
「そういう意味じゃ……」
かごめが自分たちを二人きりにしようと、何かにつけて気を遣ってくれていることは珊瑚も嬉しく思っている。ただ、あまり長時間、弥勒と二人きりでいると、意識しすぎて、どうしたらよいか判らなくなってしまうのだ。
照れて恥じらう珊瑚の様子を微笑ましげに眺め、弥勒は歩みとともに錫杖を鳴らした。
「まあ、今日はかごめさまの気持ちに甘えて、土産に山菜をたくさん摘んで帰りましょう」
「その山は遠いんだっけ?」
「ひと山越えます。でも、低い山ですから、日帰りで帰ってこられると思いますよ」
普段から健脚の二人のこと、苦もなくひとつ目の山を越え、峠にさしかかった。
すると、地元の者らしい一人の男が歩いてくるのに出くわした。狩猟の帰りか、弓矢を携えている。
弥勒と珊瑚は軽く会釈をした。
男はじろりと珊瑚が背負った背負籠へ視線を投げた。
「この先へ山菜採りに行きなさるのかね?」
「はい。山菜がことのほか豊富と聞きまして。この先の山ですね?」
男は陰気な眼差しで、大儀そうに首を振った。
「やめたほうがいい。確かに山菜は豊富だが、近頃、山菜を採りに山へ入ったまま、行方知れずになる者が多くてな」
それだけを言って無愛想に歩き出す男を見送り、弥勒と珊瑚は顔を見合わせた。
「どう思う? 法師さま」
「何とも言えませんな。情報量が少なすぎる」
なんとなく重苦しい空気の中、それでも、二人は山菜が採れるという山を目指して歩いた。
「危険な地形なのかもしれません。珊瑚、充分注意して、私から離れないように」
「うん」
このまま引き返すこともできたが、たくさんの山菜を持ち帰ったときの仲間たちの喜ぶ顔を想像すると、手ぶらで帰ることははばかられた。
道が登り坂になり、峠ではまばらだった木々の数も増えてきた頃、ぱらぱらとにわか雨が降り出した。
「珊瑚、こっちだ」
雨足はそう強くないが、雨具の用意はない。
二人は葉を茂らせた大樹の下を選んで移動し、少しずつ先へと進んだ。
「ひどい雨にならなければいいが」
樹の下を選んで歩いていても、どうしても雨を受ける。足許の草も濡れている。
四半刻もすると、二人の衣はすっかり雨を含んで濡れてしまった。
「山菜どころじゃないね」
「まいりましたな」
雨宿りできる洞穴でもないかとため息をついていると、笠をかぶった女が一人、草を踏み分けて向こうからやってくるのが見えた。
「あんたたち、どうしたんだい。道にでも迷ったのかい」
「いえ、雨で難儀しておりまして」
「そのままでは風邪をひくよ。よかったら、うちで雨宿りしてお行き」
弥勒と珊瑚はほっとしたようにため息をついた。
「この山に住んでおられるのですか」
山住みとは思えないくらい、妙に色の白い女だ。弥勒や珊瑚よりひと回りほど年嵩に見える。
「ああ。住みやすい山だよ。山菜は豊富だし、水も豊かだ。あんたらも山菜を採りに来たんだろう? さ、ついておいで」
顔を見合わせた弥勒と珊瑚は、女のあとについて山道を進んだ。
歩いているうちに雨はやんだ。
だが、大気はまだしっとりと湿っている。
女が住む小屋は草深い山の中にあり、山小屋の裏は小さな崖になっていた。
「すっかり濡れて、冷えただろう」
頭の笠を取った女は、背負籠を下ろす珊瑚とそれを手伝う弥勒を見て言った。
「裏の崖の下に温泉が湧いてるんだ。二人で温まってきたらどうだい?」
「ほう、温泉ですか」
「ふっ、二人で……!?」
珊瑚はさっと赫くなって斜めに顔を伏せた。
「あっ、あたしはいい。法師さま、一人で行ってきて」
「風邪をひきますよ。ここはお言葉に甘えましょう」
「法師さま、下心見え見え!」
楽しそうな弥勒を意識し、珊瑚は彼とは眼を合わせないまま、憎まれ口をたたいた。
女が薄く笑った。
「湯帷子があるよ。貸してあげよう。それならいいだろ、娘さん」
「えっ、あ……はい」
頬を染めたまま、珊瑚はどぎまぎと首肯した。
白い湯帷子に着替えた弥勒と珊瑚は、崖づたいに岩場の温泉まで下りてきた。
低い崖下のそこは幅の狭い小さな谷のようになっており、湯が湧き、大小の岩が二畳ほどの広さの岩風呂を形作っていた。
「……」
「……」
二人は互いに横目で探り合う。
黙っているのがきまり悪くて、珊瑚は彼が手に持っている錫杖を見て、なんとなく言った。
「錫杖、持ってきちゃったんだ。習慣?」
「そういう珊瑚は、ちょっと可愛く髪型を変えたりして。なんか期待してます?」
珊瑚は髪を高く結い上げ、それをさらに輪にしてまとめている。
「だって、髪おろしてたら濡れるから……!」
いつものようにからかわれただけなのだが、真っ赤になって釈明する珊瑚が愛らしく、弥勒は小さく微笑した。
湯帷子を着てはいても、珊瑚は法師と一緒に湯に入ることが恥ずかしくてたまらないようで、突っ立ったまま、自分の肘を抱きしめ、身を固くしている。
「大丈夫ですよ。おまえの裸はもう何度も見ていますから」
「っ!」
屹となる珊瑚を見て、弥勒は慌てて言葉を濁す。
「……いえ、いつも覗いているわけではありません」
風が出てきた。
雨上がりの風は涼しい。
二人は冷えた身体を温泉に浸すことにした。
弥勒は近くの岩の上に錫杖を置き、珊瑚は裾が割れないよう、膝を押さえて湯に入る。
湯はちょうどいい温度で、二人の間の緊張感をいくらかほぐしてくれた。
ただ、温泉はあまり広くはないので、何かの拍子に身体が触れる。珊瑚はうつむき、身を固くして、立てた両膝をかかえていた。
「心配しなくていい。こちらから触れたりしませんから」
「……」
薄い湯帷子一枚で、珊瑚の緊張が手に取るようだ。
「では、背中合わせに座りましょう。これなら、互いの姿は見えないし、会話もできる」
正直、弥勒も湯に濡れて布地が肌にはりつく珊瑚の湯帷子姿に惑わされてしまいそうだった。濡れたことによって、いくらか肌が透けていることは、珊瑚には知らせないほうがいいだろう。
背中くらいなら触れていても構わない。
「温まるな」
「うん。いい気持ち」
岩場なので、頭上に空が見渡せる。
すっかり雨の上がった蒼い空の下、二人は背中に互いの存在を感じながら、しばらくじっと湯に身を浸していた。
「──珊瑚」
珊瑚の後ろで、ふと、弥勒が声をひそめた。
「変だと思いませんか?」
「どうしたの?」
「湯の温度が……それに気温も、わずかだが下がってきている。霧も出てきた」
「そういえば」
全体的にひんやり湿った感じ。でも、雨のあとの雰囲気とも違う。いつの間にか、空は霞み、二人の周囲は薄い霧のようなものに包まれていた。
法師は背中越しに珊瑚へ顔を向け、低くささやく。
「この山で、行方知れずになった人たちがいるということでしたね」
「関係があるの? 妖気を感じる?」
「妖気というより、これは魑魅に近い」
次の刹那、こちらを向いた弥勒にぐいと身体を引き寄せられ、珊瑚は息を呑んだ。
「どうやら、魑魅の気の流れに捕まったようだ。身を守るものを渡したいが、今ここにある数珠は風穴を封じたこれひとつのみ。おまえは私から離れないように」
「わ、解った」
傍らの岩に手を伸ばして錫杖を掴んだ弥勒の背に、珊瑚は身を寄せた。
霧が濃さを増していく。
温泉の湯の温度はすでにそれと判るほど低くなり、この異変への対処は法師の指示に従うしかないと悟った珊瑚は、彼の背中に無造作に上半身を預けようとした。と、弥勒が身を強張らせる。
「……珊瑚、さらし巻いてないでしょう。思い切り当たってます」
「やっ!」
思わず身を引こうとした珊瑚だったが、魑魅の流れを気にして中途半端に肌が触れたままで、却ってそのやわらかさが生々しく弥勒の肌に伝わった。
「……珊瑚、下手に動くと余計意識してしまうので、いっそ、きつく抱きついていてください」
どうしていいか解らない珊瑚は、法師の背中に夢中で抱きついた。
霧が立ち込め、辺りは白く染まっていく。
集中するために湯の中で結跏趺坐を組んだ弥勒は、錫杖を立て、片手で印を結び、結界を張る体勢に入った。
「珊瑚、霧の中の“気”の流れが見えるか」
眼を凝らすと、仄白く染まった空間の中、ひときわ白い一筋の流れが宙を横切っているのが解る。
そこを、何百、何千の空舟のようなものが、ゆるゆると一定方向へ向かって進んでいる。あとからあとから流れていくそれは、珊瑚の頭上の空間に、小さな別世界のようにして浮かんでいた。
「川──それから舟のような……?」
「そうです。地形の関係で、この場所に魑魅の“気”が集まって流れているようだな」
「山や岩や樹木の気なら、害はないんじゃ……?」
「普通はそうですが、これだけ濃い流れに長く身を浸していると、生者は魂を抜かれてしまいます」
珊瑚は驚いて、不安げに弥勒の腕を掴んだ。
「ここにいると死ぬってこと?」
「そういうことです。霊力を持たぬ者にも見えるほど濃い精霊の気には、魂が馴染み、一緒に連れていかれてしまう」
「じゃあ、あの女の人は知ってて……」
「おそらく。行方知れずになった人たちの末路も、さっきの女が知っているでしょう」
弥勒は流れの方向を確認した。
魑魅の気は丑寅の方角から未申の方角に一定の渓流を作っている。
霊気を帯びた霧からは逃れられそうにないが、この流れをせき止めれば、魑魅の気に引きずられずにすむだろう。
「法師さま、あたしにできることはない?」
「珊瑚」
珊瑚は振り返った弥勒を気丈に見つめ返して言った。
「あたしには、かごめちゃんのような特別な力はないし、怨霊や精霊に対しては無力だけど。でも、何かできることがあれば、法師さまを手伝いたい」
弥勒は肩越しに微笑んだ。
「では、私にしっかり寄り添っていてください。おまえが私の力の根源だ」
その言葉に仄かに頬を染めた珊瑚は、彼の背に抱きつき、胴に腕を廻してぴったりと身を寄せた。
一見、細身に見える弥勒の、その逞しい体つきを腕の中に感じ、珊瑚は息がつまりそうになる。
法師のほうも、やわらかな肢体と豊かな胸のふくらみをじかに背中に感じて、柄にもなく鼓動が速くなるのを覚えた。
「鬼門を封じます」
煩悩を払うため、ことのほか厳然と宣言し、弥勒は念を集中させた。
気温や湯温の冷たさなど気にならなかった。
緊迫した雰囲気の中、近すぎる距離で互いを感じながら、魑魅の流れを止めることに全神経を集中させた。
どれほどの時間が経過しただろう。
浸かっている温泉の湯が少しずつ熱さを取り戻し、再び冷えていた肌を温め始めた。
精霊の舟が徐々に遠ざかっていくのを感じる。
だんだんと霧が晴れていき、すると、二人を取り巻く光景は、何事もなかったように、白い異世界から、もとの温泉が湧く谷あいの岩場へと戻った。
鬼門を封じ、この場に流れる山の精霊の気をせき止めることに成功したのだ。
「……法師さま」
「これで、しばらくは一時的にもつだろう」
ほっとしたように結跏趺坐を解き、珊瑚を振り返った弥勒は、あの女が崖を下りてくる姿を認めた。
「おまえたち……! おのれ、法師!」
珊瑚も背後を振り返る。
まさに鬼の形相で、女はこちらへ駆けてくるところであった。
「珊瑚、伏せろ!」
とっさに弥勒が錫杖を投じた。
次の瞬間、法力に貫かれ、女は断末魔の叫びを上げた。珊瑚が眼を大きく見張る。
「あれは屍食鬼──!」
絶命して地に伏した女は、肌は蒼白く、眼はつり上がり、額には角が生えていた。
魑魅の流れを利用して、誘い込んだ人間から魂を抜き取り、その屍を喰らっていたのだ。
「……法師さま、ありがとう」
ゆっくり立ち上がった二人は、どちらからともなく、ほっとしたように互いを見つめた。
「魑魅の気配には鳥肌が立ったよ。なんか、法師さまの法力、見直した」
ひどく真摯な彼女の様子に、弥勒はくすりと笑みを洩らした。
「私がいて助かったでしょう?」
「うん……」
本当は、いつも頼りになると思っている。でも、そんなことを言ったら調子に乗るから……と、珊瑚はただうなずくだけにとどめた。
「一緒に温泉に入って、正解だったでしょう?」
「な、なに。一緒に温泉に入ったこと、別に不満に思ってるわけじゃないよ」
思い出したように濡れた湯帷子の衿をかき合わせて、どぎまぎと珊瑚はうつむいた。
「ご褒美もらってもいいくらいだと思います」
「えっ?」
おもむろに両肩を掴まれ、弥勒と向き合う。
にわかに心臓がざわめき出す。
ときめく胸を抑え、珊瑚はじっと法師の視線を見返した。彼の人差し指が彼女の唇に触れ、彼の瞳が誘うように微笑んだ。
「……いいよ」
頬を染め、視線を逸らし、恥ずかしそうに眼を閉じる珊瑚だったが、その姿勢でしばらく待っても、一向に何も起こらないので、不審に思い、薄く眼を開けた。
弥勒はじっと正面から珊瑚を見つめたままだ。
「あの……どうしたの?」
「それではいつもと変わらないじゃないですか。おまえからってところに意味があるんですよ」
「!」
じーっと視線で催促する弥勒に、珊瑚は狼狽えたように瞼を伏せて、低い声で言った。
「じゃ、じゃあ、眼を閉じて。背、低くして」
珊瑚は遠慮がちに弥勒の肩に手をかけ、伸び上がるようにして法師の首を抱きしめた。
「……」
そ、と唇同士が触れ合った。
と思った瞬間、彼女は身を離した。
「ちょっ……珊瑚、まさか、これで終わりですか?」
「ちゃんとした。あたしから」
彼女の言い分に苦笑し、弥勒は後退さろうとする娘の肩に人差し指を滑らせた。
「いいんですか? それ以上私から離れると、随分と色っぽい眺めになるんですが」
はっとした珊瑚が恐る恐る自分の腕を見遣ると、湯帷子の下にうっすらと肌色が透けている。ということは、胸も。
「いやっ!」
思わずしがみついてきた珊瑚を弥勒はすかさず抱きすくめ、上を向かせて、鮮やかに唇を奪った。
吐息が洩れ、彼女が彼を軽く睨む。
「法師さまの意地悪」
「あ、人が来ましたよ」
「話そらさないで」
「本当です。山を見廻っていたあの男です」
弓矢を持った例の男が、山小屋のある場所から、倒れ伏した屍食鬼を見つけて崖づたいに下りてくるところだった。
透けた肌を見られてはと、珊瑚は慌てて湯に身を沈めた。
男は近くの村人だろう。行方不明者の探索をしていたのだと思われる。
「あの方が屍食鬼の屍の始末をしてくれるでしょう」
弥勒は自らも彼女の隣に腰を下ろし、湯に身を浸して、ささやいた。
「私たちはもう少し温まり直していきましょうか」
「っていうか、もう……」
──のぼせそうなんだけど。
珊瑚はくらりと眩暈を覚え、ふらついたところを法師の腕に抱きとめられた。
〔了〕
2012.5.31.
匿名さんから、「二人で温泉に入る話」
匿名さんから、「法師様と珊瑚ちゃんがお出かけしててそこで妖怪退治する」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。