刹那の悪戯

 四角い箱の中には小さな袋が六つ入っていた。
 かごめはそのひとつ取り出し、袋を開ける。
 七宝はセーラー服姿の少女の手許を興味津々で覗き込み、少女の向かいに座る犬夜叉も、無関心を装いながら、その品が気になる様子だ。
 旅の途中、三人は大きく葉を茂らせる木の下に腰を下ろし、ひと休みしているところだった。
 七宝は鼻をひくひくさせた。
「新製品よ。七宝ちゃん、食べてみて?」
 差し出されたクッキーは、昨日、現代から戻ったかごめが仲間たちに持ってきた土産である。
「おお。この匂いは初めてじゃ」
 ほんのりと甘い香りがした。
 齧ってみると、さくさくとして美味しい。
「はい、犬夜叉も。甘すぎないし、食べやすいと思うんだけど」
「おう。……まあまあだな」
 小袋ごとクッキーを受け取った犬夜叉は、気のない返事をよこすわりには、テンポよく平たい菓子を口へ運んでいた。
 犬夜叉の好みに合わせたつもりだったので、かごめはにっこりと笑み、そして辺りを見廻した。
「弥勒さまと珊瑚ちゃんは?」
「散歩してくると言っておったぞ。おらが呼んできてやろうか」
「うん。お願い」
 もうひとつクッキーを手に取って、それを齧りながら、七宝は立ち上がった。

 弥勒と珊瑚は、雲母も一緒に、それほど離れてはいない茂みの陰にいた。
 そこにしゃがみ込む珊瑚が見つめる先を、娘の背後にいる法師も腰をかがめて一緒に覗き込んでいる。
「弥勒ー、珊瑚ー! かごめが“新製品”を食べんかと……」
「ああ、ありがとう、七宝。いま行きますよ」
 仔狐の声を聞いて顔を上げた弥勒と珊瑚のもとまで駆け寄ると、七宝は不思議そうに首を傾けた。
「……何を見ておるんじゃ?」
 珊瑚が、茂みの陰に隠れるようにしてひっそりと在る、釣鐘型の閉じた花を指差した。
 一本の茎に数個の花がつき、蛍袋によく似ているけれど、色は淡い黄土色だ。
「これなんだけどね。いくつかの特徴があって、これは妖の花だって解るんだ。でも、ほら、花びらが固く閉じたままで、開いている花がひとつもないだろう? あたしも知らない花だから、それで、法師さまとこの花を調べていたんだ」
 示された花を一瞥した七宝は、大きく眼を見開いた。
「この花なら、おらは知っておるぞ? 人間の間で何と呼ばれているのかは知らんが、“狐の尻尾”という花じゃ」
 得意げに説明する仔狐を前に、弥勒と珊瑚は瞳を瞬かせた。
「狐の……」
「しっぽう……?」
 ちらと目配せし合い、二人はくすくす笑い出す。
「掛詞ではない! おらたち狐妖怪の間の通り名じゃ!」
 幼い妖狐から仄かに甘い香りがする。
 その微香に誘われて、狐の尻尾が揺れたようだ。
「確かに、閉じた花の形が、狐の尻尾によく似ていますな」
「あ、法師さま。見て」
 クッキーの甘い匂いに誘われて、少しずつ、狐の尻尾が花開いていく。
 開き始めた花に顔を寄せる弥勒と珊瑚をよそに、雲母は仄甘い匂いを漂わせる七宝にじゃれついた。
 その匂いが気に入ったらしい。
 逃げる七宝を追いかけて、雲母は仔狐の手や口許に残る匂いをくんくんと嗅いでいた。
「よしよし、雲母。かごめのところへ行けば、雲母の分も“新製品”はちゃんとあるぞ」
 じゃれつく猫又を撫でてやり、七宝は弥勒と珊瑚へ言葉を投げた。
「正しくは刹那草という。狐妖怪が妖術に使う花じゃ」
 珊瑚が小さくくしゃみをした。
「大丈夫?」
 と心配げに弥勒が問う。
 刹那、ぎょっとした弥勒と珊瑚は穴のあくほど相手を見つめ、強張った表情で固まった。そして、慌てて、それぞれが自分の手や髪や着ているものを確かめる。
「七宝。その“狐の尻尾”は、どのような妖力を持つ植物なのですか?」
 恐る恐るといったていで、艶のある珊瑚の声が、嫌に丁寧な口調で七宝に問いかけた。
「一刹那のうちに人を化かすと聞いておる。だから刹那草というんじゃ」
「具体的には?」
「それはおらも知らん。おとうに使い方を教わっておらんのじゃ」
「では、解き方も?」
「術の掛け方を教わっておらんのに、解き方を知っているはずがなかろうが。それに狐の尻尾は滅多に開かぬ花で……」
 雲母と向き合っていた七宝は、くるりと振り向き、弥勒と珊瑚の足許の狐の尻尾に目をやった。そして、
「あーっ!」
 と叫んだ。
「花が開いておるではないか。どうやったんじゃ!」
 狐の尻尾──刹那草が、一輪だけ、花びらを綻ばせている。
 駆け寄ってきた七宝に、法師がため息まじりにつぶやいた。
「……つまり、別の香りで刺激を与えてやれば開花するってことなんだよ」
 らしからぬ彼の口調に、七宝はふと顔を上げて法師を見遣った。
「どうしたんじゃ、弥勒? 今日は不良か?」
「あの……私が弥勒なんですが」
 法師の隣に立つ珊瑚が、困ったような微笑を浮かべ、遠慮がちに片手をあげた。
「え?」
 当の弥勒は眉をひそめたまま、浮かない顔でぽつりと洩らす。
「あたしは珊瑚だよ」
「……え」
 微笑しているほうが弥勒で、浮かない顔のほうが珊瑚?
 でも、微笑しているのは珊瑚の顔で、浮かない顔をしているのは弥勒の顔で、声も姿もそのままで。でも、話す言葉が──
「えええっ?」
 七宝はぴきっと固まってしまった。

* * *

 緑の葉をそよがせる木の下。
 犬夜叉とかごめの訝しげな視線の先に、戻ってきた弥勒と珊瑚がいた。
 法師の錫杖は珊瑚が持っている。
 慌てふためく七宝が、支離滅裂な説明を終えると、かごめは視線を弥勒と珊瑚から引き離し、ぎこちない笑顔を仔狐に向けた。
「七宝ちゃん。落ち着いて、もう一回言ってくれる?」
「だから、こっちが弥勒でこっちが珊瑚じゃ! 弥勒が珊瑚で珊瑚が弥勒で、わけが解らん!」
「わけ解んねえのはこっちだ。弥勒と珊瑚の中身が入れ替わったってことだよな? でも、何でそんなことになってるんだよ」
「っていうか、あんまり解りたくないかな……」
 きりりとした弥勒と、ふんわりと微笑を浮かべる珊瑚の取り合わせは、二人の性格をよく知る者にとっては違和感この上ない。
 黙って立っているだけなのに、珊瑚の物腰がやわらかで、弥勒のたたずまいがひどく凛々しい。
「……あたし、この弥勒さまのほうが好みかも」
「おい、かごめ」
 かごめのつぶやきに頭痛を覚え、犬夜叉が額を押さえる。
「そうですか?」
 と、珊瑚の姿をした弥勒はにこにこと嬉しそうだが、
「褒められたのはあたしだよ」
 弥勒の姿の珊瑚は面白くもなさそうにため息をついた。
「それはもはや弥勒ではないな」
 七宝の冷静な分析には雲母が「みゃう」と同意した。
 何か言うたびに、珊瑚の口調は丁寧かつ軽妙に、弥勒の話し方はぞんざいながらもどこか可愛らしくなる。言いたくはないが、ある意味不気味だ。
「困ったわねー」
「だから、困っているんです」
 かごめは弥勒と珊瑚を交互に指差して言った。
「こういうときは、もう一度、出会いがしらに二人でぶつかるとか、一緒に階段から落ちてみるとか」
 珊瑚がはああっとため息をつく。
「……かごめさま、何ですか、それは。別にぶつかったり落ちたりして、こうなったわけではありません」
「だから、たとえばの話よ」
 照れ臭そうに誤魔化すかごめの足許にいる七宝へ、弥勒が物思わしげな視線を向けた。
「この状態を解くカギは、やっぱり狐の尻尾にあると思うんだ。でも、七宝は……」
「お、おらは本当に解き方を知らん」
 七宝はかごめの足の後ろに隠れてしまった。
 四人はそろってため息をつく。
「で、かごめちゃん。今日これからのことなんだけど」
 言ったのは珊瑚だが、声と姿は弥勒だ。
 犬夜叉が不機嫌に口をはさんだ。
「かごめちゃんとか言うな。弥勒の格好で言われると、なんかムカつく」
「珊瑚が悪いわけではありませんよ。では、私がかごめちゃんと呼べばいいんですか?」
 すかさず珊瑚が、弥勒と犬夜叉の間に割って入った。
 珊瑚の姿(をした弥勒)が珊瑚を大真面目にかばっている。
 犬夜叉とかごめは噴き出した。
「とにかく、原因はあの花なんだ」
 と弥勒(の姿の珊瑚)は憮然となる。
「あたしは法師さまともう少し狐の尻尾を調べたいんだけど、いいかな」
 珊瑚は法師の姿で日常生活を送ることへの不安を訴える。それは尤もなことだった。
「それに、いざというとき、この姿で闘えるかどうか……正直、あまり自信はない」
「私もです。法力が使えないかもしれません。珊瑚の姿では、おなごを口説くことだってできませんし」
「法師さまっ!」
 と叫ぶ姿が弥勒なので、悪いと思いながらも、かごめと七宝の肩が震えている。
「男を口説けばいいんじゃねえ?」
 つい口が滑った犬夜叉は、弥勒と珊瑚に思いきり睨まれた。
 結局、二人の入れ替わりが解決しないことには一行は動きが取れない。
 弥勒と珊瑚が刹那草を調べる間、犬夜叉とかごめは近くで野宿できそうな場所を探し、七宝と雲母が木の下で荷物の番をすることになった。

 弥勒と珊瑚は、再び刹那草が生えていた場所へと戻る。
 道すがら、錫杖を持つ珊瑚(の姿の弥勒)が弥勒(の姿の珊瑚)を呼びとめた。
「珊瑚。珊瑚、ちょっと」
「どうしたの、法師さま」
 と、法師の姿の珊瑚は自分の姿に向かって問う。
「いざというときのため、退治屋の装束の着方を教えてほしいのですが」
「は?」
 怪訝な顔の弥勒が身体ごと珊瑚を振り向いた。
「いえ、着替えてみたいだけです。でも、勝手に着替えるのも悪いかと思いまして」
「なに考えてるのさ! いざということにならないためにも、早く狐の尻尾の術を解こうとしているんだろう?」
「温泉にでも入ってひと息入れたら、いい案が浮かぶかもしれません」
「着替えるのも湯浴みも水浴びも絶対に駄目!」
 それでも珊瑚(の姿の弥勒)は諦めきれないようで、難しげな表情で、小袖をまとった自らの身体を見下ろした。
「触るくらいなら構いませんか? 今は私の身体だし、珊瑚に実害は」
「ある! 駄目に決まってるだろ!」
 真っ赤になった弥勒(だけど中身は珊瑚)が珊瑚の頬をひっぱたこうとすると、珊瑚は軽々とかわした。
「避けるな!」
 屹となって弥勒は叫んだが、珊瑚は涼しい顔で法師を見据えた。
「だって、珊瑚の顔ですよ。男の力で、おまえの勢いでひっぱたいたら、痕がつくと困ります」
 珊瑚は(弥勒の顔で)どきっとなる。
 どんな姿でも、彼は自分のことを思いやってくれているのだと。
「ですが、真面目な話」
 錫杖を手にした珊瑚が法師に近づき、身長差を測るように法師を見上げて爪先立った。
「背伸びしてまで、自分の顔に口づけるというのも、気がそがれますな。やはり、早く元に戻りましょう」
 自分の顔が微笑むのを見て、珊瑚(だけど顔は弥勒)はどぎまぎと頬を染めた。
 どこまでも法師には振り回される。

 刹那草は花を閉じていた。
 状況からして、七宝が漂わせ、雲母がじゃれていたクッキーの香りに反応して花開いたと考えるのが妥当だと、二人の意見が一致した。
 もう一度、刹那草の反応を見るため、弥勒(姿は珊瑚)が例のクッキーを取りに戻った。
 一人残った(弥勒の姿の)珊瑚は、彼を待つ間、ふと、右手の風穴に意識を移す。
 刹那草の前から立ち上がり、数歩、広い野に向かって歩んでみた。
 見える景色が違う。
 いつもより高い世界。──これは法師さまの背の高さ。
 一緒にいるとき、自分の顔を見下ろしていた。──それは法師さまが見ている角度での自分。
 そして、弥勒の痛みがこの手の中にある。
 風穴を開くのはどんな気持ちだろう。恐怖なのか。痛みはないのか。
(開いてみたい)
 弥勒の身体と一体となれた今、彼の苦しみの根源を体感したい。
 野に向かい、鳥や小動物の気配がないことを確認した珊瑚は、法師の姿で数珠に手をかけた。
──っ!」
 数珠を外した途端、凄まじい風音と風圧に飛ばされそうになった。
 全てがこの右手に向かって襲いかかってくる。気を抜けば、自分自身も呑まれそうで、その場に踏みとどまっているのがやっとだった。
 次第にじりじりと後ろへ押され、珊瑚は立っていることすら困難になる。
 どうにか右手を封じようとするのだが、左手で右手を支えるだけで精一杯で動きが取れない。
 恐怖に身がすくみそうになったとき、覚えのある香りがかすめた。
 不意に強い力で背中を支えられ、背後から廻された細い腕が風穴のある腕を掴み、背後から伸びたもう片方の手が数珠をかけた。
 風穴が封じられ、風がおさまったとき、珊瑚はその場にくずおれた。
「大丈夫か、珊瑚!」
 はっとした珊瑚は、その言葉が弥勒の声で発せられたことに気づく。弥勒の顔が珊瑚を覗き込んでいた。
「法師さま……?」
 力が抜けてしまった珊瑚を支えているのは、弥勒の姿をした弥勒だ。珊瑚は呆然と自分の右掌を見つめた。
「珊瑚。何故、珊瑚が風穴を開いたのかよく解る。だから、何も言いません」
 弥勒の声音に、珊瑚は激しい後悔に捕らわれた。
 風穴がどういうものか、弥勒は決して知られたくなかったはずだ。
「……法師さま、ごめん」
「謝らないでください。立場が逆なら私も同じことをした。──愛しさゆえに」
 弥勒は珊瑚の頬を撫で、彼女の身体を抱きしめる。
 さっき香ったのは、狐の尻尾が開いたときに、弥勒と一緒に嗅いだ花の香りだ。
 二人に作用していた花の妖力は、風穴が開かれたことにより、激しい風の奔流に散らされ、雲散した。

 無事、元の姿に戻った弥勒と珊瑚が、荷を置いている木の近くまで戻ってみると、木の下には犬夜叉もかごめもいた。かごめは食べ散らかされた菓子の後片付けをしている。
 弥勒は傍らの珊瑚に悪戯っぽく目配せをして、
「かごめちゃーん!」
 と、珊瑚の口調でかごめを呼んだ。
 途端に、降ってきた犬夜叉に頭をはたかれる。
「てっ!」
「かごめちゃん言うなっつっただろ! 元に戻ったんなら、そう言いやがれ」
「あ、判りましたか?」
 犬夜叉と弥勒のやり取りに、かごめと七宝も驚きと安堵の色を浮かべ、七宝は珊瑚に飛びついた。
「よかったのう。やっぱり珊瑚は珊瑚の姿のままがよい」
「ありがとう、七宝。うん。ほんとそう」
「本当に珊瑚ちゃんなのね。よかった!」
 かごめも嬉しそうに珊瑚のもとまでやってきた。
「珊瑚ちゃん。その狐の尻尾って、どんな花なの?」
「可愛い花だよ。このくらいの大きさで、色は薄い黄土色。花が閉じた形が、狐の尻尾にそっくりなんだ」
「あたしも見てみたいな。ねえ、犬夜叉。出発する前に、一緒に見に行かない?」
「ああ? 今度はおれとかごめが入れ替わったらどうするんだよ」
「……」
 一同は思わず想像した。
「嫌じゃー! おらは目つきの悪いかごめなど見とうない!」
「ちょっと、犬夜叉! あたしの姿で飛び廻ったら、スカートの中が見えちゃうでしょ!」
「おい、待て! まだ、おれはかごめじゃねえだろ!」
 騒ぐ三人をよそに、弥勒と珊瑚はそっと寄り添う。
 そして、三人に気づかれないよう、後ろに廻した手をそっと繋いだ。
 涼しげな木陰では、残りのクッキーを独り占めした雲母が、気持ちよさそうにうたた寝している。
 あのクッキーの香料は、妖に何かしらの影響を与えるようだ。

〔了〕

2013.7.20.

匿名さんから、「弥勒と珊瑚の入れ替わりもの。弥勒(中は珊瑚)が風穴を使うシーンとか」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。