水晶の断片

 水晶を砕くような音が聞こえた。

 はっとした珊瑚は振り返る。
 それは徐々に激しい風音に変わり、辺りを巻き込み、呑み込んでいった。
「法師さま!」
 目の前をゆっくりと横切っていく、網代笠をかぶった法衣姿を認め、珊瑚は叫んだ。
 この光景は見覚えがある。
 夢心の寺。忘れたくても忘れられない、恐ろしい一瞬。
 弥勒ではない。
 弥勒の父だ。
 激しい風に煽られ、彼の笠が飛ばされた。
 だが、ふと珊瑚のほうを振り向いたその顔は、紛れもなく弥勒であった。
「!」
 風が決壊する。
 たちまちのうちに周囲の景色が一変した。
 ここは奈落の体内だ。
「法師さま……法師さま──!」
 弥勒の姿を求め、珊瑚はひたすらに叫ぶ。
 風の流れを追っていくと、その中心に弥勒がいた。
「来るな、珊瑚!」
 叱咤するような弥勒の声音に身がすくんだ。
 流れる風が強くなる。
 一緒に行きたいのに、身体が動かない。
(置いて行かないで! 法師さまと一緒に、あたしも……!)
 次の瞬間、立ちつくす弥勒の身体が凄まじい風の渦に巻かれ、視界から消えた。
「いやあああ!」
 あらん限りの声で、珊瑚は絶叫した。

* * *

 珊瑚は闇の中にいた。
 眼が慣れてくると、そこは我が家の寝間であることに気づいた。
「……法師さま」
 汗をびっしょりかいている。
 傍らを見遣ると、赤子の双子の娘たちを真ん中に、その向こう側で弥勒は静かに寝入っていた。
 夢を見ていたのだと気づき、珊瑚は身を起こして大きく息を吐き、額を押さえた。
 水晶を──玻璃を砕くような音を聞いた。
 あれは風が決壊した音だ。
 珊瑚は寝床から出て、そっと娘たちの頬を撫で、衾を掛け直してやってから、立ち上がって弥勒の褥に移動した。
 薄暗い闇の中、眠る法師の顔をじっと見つめ、夜具の上に投げ出された右手を持ち上げた。
「……」
 掌をなぞり、確認するようにそこに口づける。
「う、ん……」
 微かに弥勒が呻いたが、眼を覚ますことはなかった。
 珊瑚はそのまま彼の夜具にもぐり込み、彼の腕の中に身を潜めた。
(あたたかい)
 ひとつ床に身を横たえ、弥勒の右手を握りしめ、彼がここに生きていることを実感し、珊瑚はようやく安心して眠りに就くことができた。

 朝の訪れに眼を覚ました弥勒は、目の前に妻の寝顔を認め、思わず息を呑んだ。
 別々の寝床に眠っていたはずの珊瑚が、己の腕の中で、身を寄り添わせてすうすうと眠っている。
「さ、珊瑚?」
 驚いた弥勒が彼女を揺り起こそうとしたとき、赤子の一人が泣き出した。
 赤子の声に敏感な珊瑚は、すぐにぱちっと眼を開き、身体を起こした。
「おはよう、珊瑚」
「お、おはよう、法師さま」
 法師の腕の中で眠っていたことを思い出し、珊瑚は恥ずかしそうに夫から眼を逸らして立ち上がった。
「どうした? 眠りにくかったのか?」
 泣いているほうの娘を抱き上げて珊瑚が乳を含ませると、もう片方の娘も遅れて泣き始めた。
 起き上がった弥勒が、そちらを抱き上げ、あやし始める。
「起こしてくれれば、応じたのに」
「ちっ、違う!」
 悪戯っぽい弥勒の声に、珊瑚は真っ赤になって否定した。

 その日の珊瑚はどこか上の空で、ぼんやりしていた。
 朝餉の席でも、ぼうっと弥勒の顔ばかり見つめている。
「珊瑚……?」
 珊瑚ははっとしてまばたきをした。
「なに?」
「聞いていましたか? 今日の予定」
「う、うん。頼まれていた妖怪退治だよね。犬夜叉と一緒に」
「はい」
 ご馳走さま、と朝餉を終えた弥勒が立ち上がると、珊瑚も夫を見送るために立ち上がり、一緒に玄関へと向かった。
「……怪我、しないでね」
 錫杖を取ろうとした弥勒の腕に身を寄せて、その肩に珊瑚は頭をもたせかける。
「どうしたのです?」
「かすり傷も負わないで。それから、早く帰ってきて」
 珊瑚がこんな懇願をするのは珍しい。
 ふと思いついたように、弥勒が両手で彼女の頬を包むと、彼女は法師の右手を取って、その掌を頬に押し当てた。
 弥勒の眼に労わるようなやさしい微笑が揺れる。
「解りました。できるだけ早く帰ります」
 仕事に出る彼の後ろ姿を、珊瑚は見えなくなるまで見送っていた。

 不安で不安で仕方ない。
 こんな想いは、もう、とっくに乗り越えられたと思っていたのに。
 つらい記憶は水晶のような透明な何かに閉じ込めていた。
 けれど、水晶が砕けると悪夢も飛び散る。
 砕かれた水晶は悪夢の断片で、その破片をうっかり裸足で踏んでから、痛みに気づいて怯え、戸惑う。
 足の裏には、血の滲んだ小さな傷痕。

「いたっ……」
 夕餉の支度をしていた珊瑚は、指の痛みに顔をしかめた。
 鋭い水晶の破片で切ったような痛みは、だが、使っていた包丁によるものだった。
 一日中、いても立ってもいられなかった。
 弥勒の存在を感じ、彼の腕に抱きしめられたくて。
「ただいま帰りました」
 待ちかねた声とともに、帰宅した弥勒が台所に顔を出した。
「法師さま」
 包丁を置いて振り返った珊瑚の表情が少しだけ和らいだようだ。
「お帰りなさい。法師さま……あたし」
 夫のもとまで行き、遠慮がちに彼の肩に頭を寄せる。
 気丈な珊瑚はなかなか正面から甘えることをしない。
 この日の彼女も、彼の胸ではなく腕に身を寄せるのを、弥勒は微笑ましそうに見守っていた。
「珊瑚、指から血が。包丁で切ったんですか?」
「あ、大丈夫」
「大丈夫ではないでしょう。手当てをしますから、居間へ行きましょう」
 居間で眠っている赤子たちに「ただいま」と小さく声をかけ、弥勒は薬草棚から傷薬を取り出した。
 それを珊瑚の傷にあてがい、布を巻いて手当てをする。
「約束通り、怪我をせずに早く帰ったのに、珊瑚のほうが怪我などしては駄目でしょう」
「いいの。法師さまが無事なら」
 手当てが終わると、珊瑚はすぐに夕餉の支度に戻ろうとしたが、弥勒の手が素早く彼女の手首を掴んだ。
「心配事があるなら、聞かせてください」
「大したことじゃないよ」
「珊瑚が何かを気に病んでいるなら、それだけで私には充分“大した”ことですよ」
 じっと見つめられ、そのやさしさにすがるように珊瑚は彼の腕に触れ、眼を伏せた。
「本当に何でもない。嫌な夢を見た、それだけ」
 弥勒が風穴に呑まれる夢。
 言葉にするのも嫌だと、珊瑚の瞳が語っている。
「……風穴、ですか?」
「変だろう? 風穴がなくなって、もう一年以上も経っているのに」
「珊瑚」
 弥勒は珊瑚の手を掴んで引き寄せ、後頭部にもう片方の手を廻し、彼女を強く抱き寄せた。
「今宵は、私の褥で眠りなさい」
「えっ……」
 瞳を上げると、真摯な眼差しが彼女を見つめていた。
「誰かの体温を感じていれば、怖い夢を見ずにすむかもしれない。たとえ、悪夢にうなされても、手の届く距離に私がいれば少しは気が紛れるだろう」
 双子が生まれるまで、二人はずっと同じ寝床に眠っていた。
 肌を合わせない夜も、互いの肌のぬくもりに安らぎと安心を求め、ひとつの夜具で眠りに就いていたのだ。
 そうして、互いに癒され、たびたび見ていた悪夢からも、次第に解放されていった。
「私はおまえの夫です。妻の不安を取り除いてやりたいと思うのは当然だろう?」
「法師さま」
 不安で仕方なくて、そんなときは、強く抱きしめてほしくなる。
「でも、夜中も子供たちの世話があるし」
「子供の世話で起こされるのは構いません。それに、私だって珊瑚を独り占めする時間が欲しいですし」
「法師さま……」
「甘えてくれたほうが、嬉しいんですよ」
 深い愛情を感じ、胸がいっぱいになって、珊瑚は夢中で弥勒の胸にすがりついた。
 それに答えるように、弥勒は珊瑚のこめかみに唇を触れさせ、その唇を頬まで滑らせた。
「落ち着きましたか?」
「うん」
「では、ご褒美をくれますか?」
 瞳を上げる珊瑚をやわらかく見返し、弥勒の視線が妻の唇を見つめた。
「もう少し抱きしめていて。もっと強く。あたしが息ができなくなるくらい。そしたら、あげる」
「仰せのままに」
 弥勒は全身で珊瑚を包み込むように抱きしめた。
 頬を寄せ、頭を抱き込み、背中に廻した腕に力を込める。
「ん……」
 珊瑚の唇から陶然とした吐息が洩れた。
 だが、それも束の間で、泣き出した赤子の声が二人の抱擁を中断させた。
「さっそく、邪魔をされたな」
 くすりと笑った弥勒が、妻の身体から腕を解いた。
「あ、あたし、夕餉の支度も途中……」
「手伝いましょう。なんだったら、今夜は湯漬けでも構いませんが」
「法師さまは疲れて帰ってきてるのに、そこまで手抜きはできないよ」
 珊瑚が双子に一人ずつ乳を含ませると、その傍らで、弥勒は赤子たちのむつきを替えるのを手伝ってくれた。
「おまえも無理はせぬように。悪夢を見るのは疲れているからかもしれません」
 乳を飲んでお腹がいっぱいになり、むつきも替えてもらい、双子は機嫌のいい声を上げている。
「夕餉、すぐ支度するから、子供たちを見ててね」
「ああ。でも、まだ抱きしめ足りない」
 低く、声を潜めるように言って、弥勒は妻に微笑みかけた。
「今宵は早く床に入ろう」
 彼女に気を遣わせないための言葉だろうが、ときめきを覚え、珊瑚は頬を赤らめてうなずいた。

 あの夢の光景は、ひとつ歯車が狂えば、現実に遭遇していたかもしれない未来であった。
 でも、実際に進んだ未来には、弥勒がともにいて、あの光景が現実になることは決してない。

 愛しい者たちがそばにいる。
 居間から台所へ向かうとき、ふと振り返った珊瑚の瞳に、楽しげに娘たちをあやしている夫の姿が映り、何ものにも代えがたい幸福と安堵を実感させた。

〔了〕

2013.1.13.

海さんから、「結婚後に子供がいる珊瑚が弥勒に甘える話」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。