薄紅色の予感

 その村の共同井戸を借りて、血や土に汚れた退治屋の装束を洗っていた珊瑚は、垣根の向こうに若い娘たちに囲まれて嬉しそうな弥勒の姿を認め、むっとしたような顔になった。
「法師さまったら、また……!」
「こらえろ、珊瑚。あれは今宵の宿のためじゃ」
 洗濯を手伝ってくれている七宝がなだめるようにささやく。
「手前にいるのが名主の娘じゃ。あの娘を落とすことができれば、おらたちは久しぶりに温かい飯と暖かい寝床が得られる」
「それは解っているけど……」
 一行はこの日、この村に泊まる予定だ。
 だが、名主がよそ者をあまりよく思わない人物らしく、屋根の下で眠れるか野宿になるか、一行の今宵の運命は法師の弁舌にかかっていた。
 別に裕福な家にこだわらなくてもいいのではないかと、珊瑚などは思うのだが。
「それにしても、弥勒は面食いじゃのう」
 何気ない七宝の言葉に、珊瑚はふと顔を上げ、法師と一緒にいる娘たちを眺めた。
 よく見ると綺麗な娘ばかりだ。
 珊瑚は漠然とした不安に捕らわれた。
「法師さまは、綺麗な娘にしか興味ないのかな。でも、そうでない娘にだってやさしいよね」
「そうじゃな。しかし、弥勒が自分から声をかけるときは、高確率で美人を選んでおるぞ」
 珊瑚はぎくりとなった。
 自分は、彼の好みに外れているのではないだろうか。
 彼とはすでに将来の約束をしているけれど、彼女との出逢いは、法師が自ら選んで声をかけたというわけではない。
 珊瑚はこれまでに出会った、法師が過去に口説いたことのある娘たちを思い浮かべた。
 そういう娘の数は実際はもっと多いに違いない。
(そして、たぶん、みんな美人)
 珊瑚は急いで嫌な考えを振り払い、洗濯物をごしごしとこすった。

 名主の娘の口添えで、犬夜叉たちはその屋敷に泊まることができた。
 二部屋を用意してもらい、男性と女性に分かれ、それぞれの部屋に移った。
 今、女性陣の部屋では、雲母は夜具の上でくつろぎ、かごめは髪を梳いている。
 だが、珊瑚は昼間の考えに捕らわれたまま、武具の手入れどころではなかった。
(整理して考えてみよう)
 珊瑚は呼吸を整えた。
 法師さまはずっと一人で旅を続けていた。
 女の子は口説き放題。
 選ぶのはおそらく美女ばかり。
 一夜どころか何夜だって、美女をはべらせてきたはずだ。
 手を出してきたのは遊女だけではないだろう。
 至って無造作に、気に入った娘に声をかけているのは本人も認めているところで、記憶の糸がこんがらがるほどのたくさんの色恋沙汰があったという。
 宵に紛れて甘い言葉を交わしたことだって、数知れないはずだ。
(じゃあ、あたしは?)
 妖怪と闘うことしか知らず、何のとりえもない。
 男勝りで綺麗でもないし、気が利いているわけでもない。
 一方的に想いを寄せられて、仲間だから、法師さまに同情されているだけだとしたら?
(……っ)
 一気に蒼ざめ、両手で頬を覆う珊瑚を雲母が心配そうに見上げた。
 珊瑚は、同じ部屋にいるかごめのほうへにじるようにして近寄り、じいっと彼女の顔を見た。
 少女はコットンを使って化粧水を肌になじませているところだった。
「ど、どうしたの?」
 見つめてくる視線が妙に艶めかしくて、かごめはどきりとする。
「かごめちゃんの頬がつやつやしてるのは、それのせい?」
「え?」
 かごめは手に持ったコットンを見遣って、照れくさそうに笑った。
「こっちの世界は埃っぽいから、保湿を怠っちゃいけないかなって。でも、どうかした? 珊瑚ちゃんがそんなふうに言うのって珍しいかも」
 かごめは新しいコットンに化粧水をつけて、珊瑚に手渡した。
「こうするのよ」
 かごめの動作を真似て、珊瑚も化粧水をつけたコットンで自分の頬をぴたぴたとしてみる。
「こうすると、綺麗になれるかな?」
「どうしちゃったの、珊瑚ちゃん。もとから綺麗じゃない」
「かごめちゃん、唇もつやつやしてる」
「ああ、これは」
 かごめはコットンを置いて、小さな筒状のものを指で取り上げた。
「リップよ。口、そのまま。動かないで」
 珊瑚は対座したかごめにリップをぬってもらう。
 少しくすぐったい。
「でも、珊瑚ちゃんは何もつけなくたって、いつも、ほっぺも唇もつやつやじゃない?」
「そんなことないよ。法師さまは」
「弥勒さまに何か言われたの?」
 珊瑚は顔を曇らせて首を横に振った。
「法師さまは、美人が好きなんだ」
「へ?」
 今さら何を言い出すのだろうと、かごめはきょとんと珊瑚を見つめている。
「法師さまの好みは綺麗な子。かごめちゃんもそう思うだろう?」
 かごめは少し困ったように眉をひそめた。
「好みのタイプってこと? そんなのなさそうだけど。……強いて言えば、女の子全般じゃない?」
「でも、法師さまが過去につきあってきた人たちって、みんな女らしくて美人だろうと思うんだ。あたしじゃ絶対見劣りする」
 深刻な顔をして、思いつめたように珊瑚はかごめに詰め寄った。
「飽きられないようにするにはどうすればいい? あたし、法師さまの好みに近づきたいんだ」
「やだ、何を言い出すのかと思ったら」
 かごめはくすくす笑い出した。
「珊瑚ちゃんの悩みは、猫好きな人に拾われた雲母が、どうしたら可愛い猫になれるだろうって悩むようなものよ?」
「えっ?」
 珊瑚の顔が強張った。
「無理ってこと? 雲母は猫又だからっ」
「違う違う。猫又だけど、雲母はどこからどう見ても、可愛い猫じゃない。心配する必要なんかないってことよ」
 勢い込んで言う珊瑚に、かごめは可笑しそうに笑った。
「最初から美人なんだから、悩むことなんかないって」
「でも、あたしは法師さまに可愛いとか思われて“なんぱ”されたわけじゃないし……」
 出逢った直後、怪我が治った珊瑚にナンパみたいなことしてたような──とかごめは思ったが、珊瑚は気づいてないのだろう。
「じゃあ、珊瑚ちゃん。今からでも弥勒さまがもう一回プロポーズしたくなるようにしむけてみない?」
「ぷ、ぷろ……?」
「惚れ直させるのよ」
 かごめは楽しげににっこりと言い、珊瑚は驚いたように眼を見張った。
 かごめにとっては、珊瑚とこのような話ができることが嬉しくて仕方ない。
 以前から、現代の親友たちと同じように、珊瑚とお洒落や恋の話を思う存分してみたかったのだ。
 珊瑚は恋愛に関してはひどく奥手だし、奈落を倒すという命がけの目的がある以上、あまり浮ついた話は控えるべきかとも思うけれど、
(珊瑚ちゃんにお洒落をさせて、弥勒さまをびっくりさせよう)
 その考えはかごめの気に入った。

 二人は灯りを消してそれぞれの寝床に入った。
 だが、この時代の娘たちがどのようなお洒落をしているのか、具体的なところをかごめは知らなかった。
 かといって、現代のアクセサリーをプレゼントしても、着物に合うかどうか解らないし、妖怪退治屋の彼女にとっては動きの邪魔になるだろう。
「ねえ、珊瑚ちゃん。こっちの世界の女の子はどんなお洒落をするの? っていうか、珊瑚ちゃんは今までどんなお洒落をしてた?」
 並んだ夜具に横たわり、密やかに問うと、珊瑚は困ったように口ごもった。
「……ない、かも」
 退治屋の里にいた頃は、技を磨くことにばかり夢中だったのだ。
「瞼の紅は? それ、お化粧の一種よね?」
「これは、死んだ母上が恋しくて、母上の形見をつけたのが最初だったから、特にお洒落の意味はない」
「そっか」
「あ、でも、法師さまと二人きりのとき、法師さまがよく花をあたしの髪に飾ってくれたりするけど」
 一旦眼を伏せ、珊瑚は不安そうに薄闇の中でかごめを見つめた。
「そういうのもお洒落っていうの?」
 大真面目な珊瑚だが、惚気にしか聞こえない。
(それって、何の問題もないくらいにラブラブなんじゃ……)
 かごめは珊瑚に解らないように苦笑した。

* * *

 それから数日後のこと。
 現代に帰っていたかごめが戻ってきたので、一行はこれから楓の村を出発するところだ。
 少女たちの支度を待ちながら、犬夜叉と弥勒は外で、これから向かう場所やそこに至るまでの道筋などについて、確認し合っていた。
 そこへ、小屋の簾の影から顔を出したかごめが声をかけた。
「犬夜叉ー、珊瑚ちゃんの飛来骨、持ってもらってもいい?」
「別に構わねえけど?」
「珊瑚がどうかしたのですか?」
 眉をひそめる弥勒を見て、かごめは悪戯っぽく笑ってみせた。
「ううん、何でもない。ちょっと珊瑚ちゃんとじっくり話したいことがあって」
 犬夜叉も弥勒も怪訝そうな顔をしたが、それ以上追及することはなかった。

(あれ……?)
 犬夜叉との情報交換に余念がなかった弥勒だが、歩き始めてすぐ、それに気づいた。
 一行の先頭をかごめと珊瑚が行き、飛来骨を持つ犬夜叉と弥勒は、少し離れてその後ろを歩いていく。七宝と雲母は男性陣の肩の上にそれぞれ乗っかっていた。
 前方の珊瑚の後ろ姿がいつもと違うことに気づいて、弥勒は眼を見張った。
(髪飾り? 珊瑚が、何故あのようなものを……)
 髪の結い方もいつもと違う。
 いつも髪を束ねているよりずっと高い位置で、トップとサイドの髪をすくうようにして結われた髪。その髪を、白と桃色が織り込まれた細い組紐が蝶結びに飾っていた。
 弥勒は歩調を早め、彼女に追いついた。
「珊瑚……」
 肩を掴み、彼女の身体をこちらへ向けようとすると、流れるように振り向いた珊瑚の恥ずかしそうに潤んだ瞳と目が合った。
「!」
 その唇。
 いつもより少し濃い桃色に彩られた小さな唇を見て、弥勒は息を呑む。
 弥勒の驚く様子を見て、かごめはさりげなく雲母を抱き取り、二人から離れた。
「それは?」
 やがて発せられた法師の声は固い。表情も険しい。
「あ、も……もしかして、濃すぎた?」
 珊瑚は動転したように袂からティッシュを一枚取り出すと、それを口に咥えて色をおさえた。
「あの、これでいい?」
 上目遣いで恐る恐る訊いてみたが、弥勒の表情は和らがなかった。
「貸しなさい」
 珊瑚の顎に手をかけ、法師は乱暴にティッシュで彼女の唇から桃色の色彩を拭い取ってしまった。
 どうして彼がこれほど不機嫌なのか見当もつかず、珊瑚は目の前が暗くなるようなショックを覚えた。
「感心しませんな。おまえが唇に紅など」
 低く放たれた言葉に、眼の奥がじわりと熱くなる。
「……ごめんなさい」
 涙をこらえて、それだけを言った。

 ただならぬ雰囲気に仲間たちが近寄ってきた。
 無惨に拭われた珊瑚の唇を見て、かごめが愕然となる。
「ひどいじゃない、弥勒さま! 珊瑚ちゃん、弥勒さまのためにおめかししたのに!」
「珊瑚に紅などは」
「口紅じゃないわ。カラーリップよ。それも、弥勒さまは薄い色が好きだろうって、珊瑚ちゃんが一生懸命考えて」
 親友をかばうように、かごめはうつむく珊瑚の身体を自分のほうへ引き寄せた。
「珊瑚ちゃんはね、弥勒さまが今までにつきあった女の人たちに負けないように、綺麗になりたいって、そう言ってたのよ。あんなに似合ってたのに、どうして褒めてあげないの?」
 弥勒は少し驚いたように珊瑚を見た。
「か、かごめちゃん」
「だって、珊瑚ちゃんの気持ち、伝えなきゃ。弥勒さまは女好きのくせに、女心が解ってない」
 気まずい雰囲気が場を支配する。
 犬夜叉と七宝が間に入ろうとしたが、かごめも弥勒も頑なだった。
「いいんだ、かごめちゃん」
 ややあって、珊瑚が言った。
「あたしがいけないんだ。自分に似合わないことしちゃったから」
 珊瑚は犬夜叉から飛来骨を受け取ると、何でもないように歩き出した。
 飛来骨を担ぐと、髪飾りが隠れてしまう。
 それに気づいた弥勒は、はっとなった。
 彼女の装いは、自分だけに向けられたものだと。
「珊瑚──
 名を呼び、珊瑚を追おうとした弥勒に、かごめが素早く筒状の小さなものを手渡した。渡されたものに目を落とすと、それが“カラーリップ”であることがすぐに解った。

 弥勒の声に珊瑚は足をとめた。
 すぐに追いつき、けれど、弥勒はとっさに言葉が見つからない。
 眼を伏せている娘の正面に向き合うと、彼は、手の中のリップのキャップを取った。
「……紅筆は?」
「そのまま、唇にぬるの。筒の下を廻すと桃色の部分が上へ出てくるから」
 筒を廻し、出てきた桃色の部分を弥勒は珊瑚の唇に当てた。
「……」
 小さな顎を片手で捉え、少し顔を上へ向けさせ、丁寧にぬる。
 思わぬ法師の行動に、珊瑚は呼吸が止まりそうだった。
 壊れそうな鼓動に耐えきれず、思わず眼を閉じた。
「少し唇を開いて」
 聞こえた声の通りにした。
「懐紙を」
 ティッシュを取り出し、色をおさえる。
 リップとティッシュを袂に入れて、そっと珊瑚が弥勒を窺うと、彼は春風のようなやさしい微笑を浮かべ、応えてくれた。
「綺麗ですよ。とても」
 穏やかなやさしい声音はいつもの法師のものだった。

 弥勒と珊瑚の様子に、成り行きを見守っていたかごめたちもほっとしたようだ。
 二人きりにしてやろうとの気遣いなのか、たたずむ二人を追いこして、仲間たちは先に道を進んでいった。
 残された二人はどちらからともなく見つめ合う。
 弥勒の眼が、珊瑚の瞳を覗き込んだ。
「珊瑚。私が悪かった」
「そ、そんな。あたしが法師さまの気が立つようなことをしたから」
「珊瑚は悪くありません。あまりにも美しいので……なんていうか、腹が立って」
「え……?」
 弥勒は少し照れくさげに、彼女から視線を逸らして言った。
「これから、大きな町に向かいます。かなりにぎやかな町らしく、ですから、人目を惹くような華やかな装いは好ましくない」
「目立っては行動に障るということ?」
 軽く首を振り、彼は自嘲するような表情を見せた。
「白状すると、他の男たちがおまえを見つめる視線が疎ましい。考えてもごらんなさい。普段はおまえの背の飛来骨のほうへ視線が集まるというのに、それを犬夜叉に預けて、いつもより美しく装って、人込みの中を歩くなど」
 珊瑚は大きく眼を見張った。
「かごめさまが言ったことは本当ですか?」
「あ……あの」
「では、何も気にすることはない。私が過去に係わったどのおなごよりも、おまえは美しい。それに、他のおなごと比べてどうというより、珊瑚だから一生をともにしたいんです」
 言葉を失い、ただ頬を染める娘に微笑し、法師は飛来骨を取ろうとした。
「法師さま?」
「背負っていると、髪飾りが見えないでしょう? 町まで私が持ちますよ」
 彼女の髪を飾る組紐にも、法師は真摯な眼差しを向けた。
「髪紐も似合っています。この色はおまえの小袖に合わせているんだな」
「うん。かごめちゃんと二人で色を選んで、かごめちゃんが国で買ってきてくれたんだ。あたしは気に入ってるんだけど」
「かごめさまに張り合うつもりはないが、次は、私がおまえのために選びたい」
 飛来骨を法師が持ち、二人は並んで歩き出す。
 犬夜叉たちの姿は、もう前方に小さくなっていた。
「町に着いて、もし自由な時間が取れたら、その時間を私にくれるか?」
 面と向かってこんなに丁寧に誘われたのは初めてで、頬に熱さを覚え、珊瑚は小さくうなずいた。
「りっぷ……ぬったままでもいいの?」
「私が折れます。似合ってるのは事実ですし、私が珊瑚から目を離しません」
 うつむいて歩いていた珊瑚が視線を感じて、ちらと法師を見遣ると、目が合った弥勒は、珍しく照れたような表情で微笑した。
 鼓動が跳ねる。
 見えない予感に、珊瑚の胸が高鳴った。

〔了〕

2012.9.23.

匿名さんから、「珊瑚がかごめの協力で弥勒のためにおめかしを(女らしくしようと)頑張る」
匿名さんから、「弥勒の昔の彼女たちと比べて自分は、と不安な珊瑚ちゃん」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。