宵に染まる顔
奈落との闘いが終わって、無事、祝言をあげた弥勒と珊瑚は、楓の村に落ち着き、新しい生活を始めた。
故郷を失った珊瑚はもとより、幼い頃から旅に身を置いてきた弥勒も、愛する人と我が家という安住の地を得て、幸せすぎるほどの毎日を過ごしていた。
その日、弥勒は説法を聞きたいという村の年寄りのもとを訪れ、話し相手を務めていた。
彼は法師という立場で村人たちと係わることも多い。
足が悪く、出歩くことが困難なその老女は、話が終わると、手を合わせて、弥勒に頭を下げた。
「ありがたい話を聞くと、心が安らぎます。また、話を聞かせてください、法師さま」
「楓さまには到底及ばぬ若輩者ですが、私のような者でよろしければ」
柔和な笑顔で応じる若い法師を、老女は眼を細め、好ましそうに眺めた。
「そうそう、うちの孫のみつが、法師さまのご妻女の珊瑚さんと仲良くさせてもらっているんですよ」
「ほう、珊瑚と」
実はみつは法師とも仲がいいのだが、それは老女は知らないらしい。
「本当に、よい娘さんですね。感じがよくて。それに綺麗だし気立てもいいし……」
老女はほっと吐息を洩らした。
「みつには兄がおりますが、まだ独り者で。珊瑚さんのような嫁が来てくれればと、みつと、よく話しているんですよ」
「それは光栄ですな。あれが聞けば、ひどく恐縮するでしょう」
みつは両親を亡くし、年老いた祖母の面倒を兄と見ている。
弥勒が独り身だった頃、彼女はよく彼を取り巻いて談笑していた娘たちの一人だったから、今でも気さくに弥勒に話しかけてくる。弥勒を介して、珊瑚とも親しくなった。
「兄ちゃんにも、珊瑚ちゃんみたいなお嫁さんが来てくれればいいなって、あたしも思うよ」
帰宅する法師を送りがてら、みつが言った。
「そうでないと、あたしも安心して嫁に行けないもん」
「別に珊瑚みたいでなくてもいいのではありませんか?」
「気を悪くしたらごめんね。珊瑚さんっていいよなって、兄ちゃん、よく言ってるから。あたしも、珊瑚ちゃんみたいな人だったら安心だし」
「というと?」
「気立てがよくて働き者で、おまけに美人」
人差し指を立てて指摘するみつに、弥勒は満更でもない。
「では、兄上が嫁御をもらったとして、おまえにはもういい人がいるのですか?」
「これから見つける。弥勒さまのような素敵な人を」
みつはにこっと法師に笑いかけた。
ずっと弥勒に片想いしていたことは、珊瑚にはもちろん、弥勒にも内緒だ。
「弥勒ー」
我が家へ戻る道の途中、法師の姿を見つけた七宝が駆けてきた。
「どこ行ってたんじゃ?」
「仕事みたいなものですかね」
自然と笑みが深くなる弥勒を見て、七宝は不思議そうに尋ねた。
「何かいいことでもあったのか?」
「いい嫁を持って羨ましい、みたいなことを言われました」
ごく内々の話を打ち明けるつもりで言ったのだが、
「そうじゃろうなあ、珊瑚は人気があるからな」
あまりにも当たり前のように応じた仔狐の様子に、弥勒の動きが止まる。
「え?」
「知らんのか? 珊瑚に憧れている村の若者は大勢いるぞ?」
「ちょっと待ってください。いつからです。珊瑚がこの村に住み始めたのは、私と夫婦になったからで……」
「珊瑚が村へ出入りするようになった最初の頃からじゃ。よそ者は目立つし、美人で若い娘となれば、なおさらじゃ」
法師が娘たちと戯れていた間、村の若者たちの注目が珊瑚に集まったということだろうか。
「あの頃の珊瑚はぴりぴりして、取りつく島もなくて、みな遠巻きに眺めておったがな」
「で、でも、そのあと、珊瑚は私と将来の約束をして……」
「弥勒は相変わらずじゃったからのう。みな、珊瑚とはそのうち駄目になると思っていたのではないか?」
「でも! 今はもう夫婦です」
「弥勒がまた他のおなごにちょっかいを出し始めたら、今度こそ珊瑚から離縁を言い出すのではないかと……あ、いや! 気にするな。単なる噂じゃ」
「そんな噂があるのか……?」
弥勒は愕然とした。
村の子供たちと仲のよい七宝は、かなりの情報網を持っていた。
愛らしい妖狐はどこの家でも歓迎される。
炉端でいろいろな話が耳に入るし、遊び友達からも大人たちの噂を聞く。
「村人たちは、まだ弥勒のことをよく知らんのじゃ」
浮気な印象が未だ拭えないのでは、というのが七宝の見解だった。
弥勒が家へ帰ると、庭先で珊瑚が村の若者と立ち話をしていた。
みつの兄ではない。
若者は法師の姿を見ると、会釈だけしてそそくさと立ち去った。
「何をしていたんです?」
妻のもとへ歩み寄って、弥勒が問うと、
「野菜を届けてくれたんだ」
帰宅した夫へ、にっこりと珊瑚は両手で持った野菜の束をかかげてみせた。
「やましいことがないなら、何故あのように逃げるようにして行くんです」
「法師さまが怖い顔して睨むからだよ」
踵を返して歩き出す珊瑚のあとを台所までついていき、弥勒はさらに詰問を続けた。
「何故、野菜をいただいたんです?」
「別に? みんなよくしてくれるよ。この村に住み始めたばかりだから、いろいろ気を遣ってくれてるんじゃないかな。いろんな人がいろんな品を届けてくれる」
「もしかして、届け主は若い男ばかりですか?」
「何でそんな意地悪な言い方をするの」
珊瑚が否定しないことに、弥勒は軽いショックを覚えた。
錫杖を置いた彼は、不機嫌そうに眉をひそめ、ことさら彼女を無視するようにして居間のほうへと向かう。
(もしかして、やきもち……?)
ぴんときた珊瑚は眼を大きく見張り、どこか嬉しげに微笑んだ。
夫婦になる前は一方的に妬かされるばかりだったことを思い、少し優位に立ったような、誇らしげな気持ちになる。
彼女は台所の棚にあった竹筒に甕の水を汲んで入れ、手にしていた野花をそこへ挿した。
そして、寝間へ向かった弥勒を追い、明るい声をかけた。
「あのね、花ももらったんだ。法師さまの文机の上に飾るね」
竹筒に活けた野花を文机に置こうとすると、
「そんなもの、いらん!」
竹筒を払い落とされ、珊瑚は驚いて身をすくませた。
花が散らばり、水がこぼれる。
「法師さま!」
「花など受け取るな。もう人妻なのだから、自分の立場をわきまえなさい」
竹筒の水が板の間にこぼれてしまったが、拭くものがなく、珊瑚はとっさに自分の褶を外し、それで濡れた床を拭いた。
「花ぐらいで怒らなくたって……法師さまだって、村の娘から花をもらったら、受け取るじゃないか」
「私は法師という立場でどうにでも解釈できる。だが、おまえが男から花など受け取ると危うい」
ため息をついて、濡れた褶を台所へ持っていこうと立ち上がりかけた珊瑚の前に、弥勒は膝をついた。
そのまま彼女の腰を抱き寄せ、そして、腹に耳を当てる。
「何してるの?」
「子がいたら、何か聴こえるかと」
「え?」
「子供ができた気配はないか?」
夫婦になっても、珊瑚との関係が確固たるものにならないのなら、早く子を儲けるしかない。
子を儲けても、まだ離縁の可能性があると疑われるなら、それこそ、十人でも二十人でも儲けるまでだ。
七宝が言っていたことは、あくまでも例え話だろうが、聞いてしまった以上、いやが上にも不安は募った。
「だって、この間、夫婦になったばかりじゃないか。仮に祝言をあげた日に子を授かっていたとしても、その兆候が現れるまでは、もう少しかかるよ」
弥勒が顔を上げると、珊瑚ははにかんだように頬を染め、彼から視線を逸らせて眼を伏せた。
この娘は美しくなった。
そう思った途端、箍が外れたように、弥勒は珊瑚の身体をその場に押し倒していた。
「なっ、なに?」
乱暴に求められ、珊瑚は激しく抵抗した。
硬さの残る美少女が、臈たけた美女になりつつある。その現実が、ひどく弥勒を不安にさせた。
絶えず珊瑚を感じていなければ、いつか、彼女は遠くに行ってしまうのではないか。──幼い頃、父が自分の手をすり抜けていったように。
彼女が己のものだという実感が欲しい。
たが、されるがままの珊瑚は、片手で目許を覆って泣いていた。
弥勒ははっと我に返った。
「おれは……」
なんてことをしたのだろう。
蒼白になり、彼は泣いている妻を見下ろした。
震える手で珊瑚の衣の裾を直してやり、けれど、それ以上は何もできなくて、思いつめたように文机の前に座って、彼女に背を向けた。
「……」
珊瑚は視線でそっと法師の様子を窺った。
弥勒は文机に突っ伏し、こちらに背を向けたまま微動だにしない。
そろそろと起き上がって、涙を拭い、珊瑚は夫の背後に膝をついた。
「法師さま……」
微かに震えている肩を後ろから抱きしめ、小さな子をあやすようにささやいた。
「どうしたの。法師さまらしくないよ」
「おまえを好ましく思っている男が何人もいると聞いた」
くぐもった声を聞き、珊瑚は先を聞こうと弥勒の次の言葉を待ったが、彼は何も言わなかった。
「……それだけ?」
「それだけって、重大なことだろう!」
「あたしだって、法師さまのこと、本気で好きな娘を何人も知ってるよ。一緒になる前の法師さまなんて、自分から積極的に女の子口説いてたし」
「それは……」
わずかに顔を上げ、弥勒は瞳を伏せた。
これまで、弥勒は一人の女に執着することがなかった。こんな想いは初めてで、嫉妬というものをどう扱っていいか解らない。
「仮におまえが私に愛想をつかせ、私と別れても、次の貰い手はいくらでもあるということだ」
「ひどい。それじゃ、あたしが誰にでもなびく女みたいじゃないか。せっかく一緒になれたのに、あたしは絶対法師さまから離れないよ」
「──私が、こんな男でも?」
「え?」
背後から彼の肩を抱きしめる妻の腕に、彼は遠慮がちに触れた。
「力ずくで抱こうとした。怒っただろう?」
「違うの、法師さま。あたし、法師さまになら何をされてもいい。だけど、信じてもらえないのは嫌」
掌で顔を覆う弥勒の後ろから、その首筋に、珊瑚はそっと口づけた。
彼女とて、奈落との闘いで幾度も生命を落としかけた弥勒を見てきた。もし、彼を失ったらと、恐怖に怯えたことは幾度となくある。
だからこそ、二人で確かな幸せを築いていきたい。
ゆっくりと愛しむように、珊瑚の唇が弥勒の首筋を這い、細い指が、弥勒の袈裟の結び目を解いた。
「躰を重ねたいなら、拒まないよ。でも、あたしの気持ちを無視しないで」
珊瑚はしなやかに法師の頬に唇を寄せた。そして、彼の顔をこちらに向かせ、じれったいほど緩やかな動きで、静謐に唇を合わせた。
静かな午後、障子越しの明るい光。
二人は飽くことなく、互いの唇を食み続けた。
そして、もつれ合うように、そのまま床に倒れ込んだ。
常の珊瑚は、清楚という言葉が似合う娘だ。
だが、清楚なはずの妻が夜毎に艶冶に染まっていく様を、これが己の知る珊瑚なのだろうかと、弥勒が驚きとともに見ていることを珊瑚は知らない。
そういった珊瑚の隠れた艶めかしさを、他の男たちも鋭く感づいているのではないかと案じられたのだ。
互いに肌小袖姿のまま、二人はしばらく横たわり、抱き合っていた。
「私は単純に美人が好きだが……自分の妻が美しいということで、こんなに思い悩むとは思わなかったな」
珊瑚を抱きしめ、しみじみと法師が洩らすと、彼の腕の中で彼女があでやかに笑った。
「知ってた? あたしなんか、亭主が浮気者なんだよ?」
「言うな。もう浮気はしない。……だから、ずっとおれのそばにいてくれ」
珊瑚に嫌われることが何より怖い。
そして、もう二度と、己が孤独だと気づかないほどの孤独に呑まれるのは嫌だった。
珊瑚は微笑み、身を起こすと、返事の代わりに弥勒の頭をそっと抱きしめた。
艶なる眼差しで。“愛している”の想いを込めて。
〔了〕
2012.12.18.
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。