夢うつつ

 どうも調子が悪い。
 心なしか頭が重く感じられ、珊瑚は額に手を当てた。
 この日、犬夜叉たちの一行は、大きな町で四方に分かれて情報を集めていた。
 まだ日は高く、異変らしきものが見当たらなければ、この町を素通りして先へ進むつもりだ。
 そろそろ合流する時刻になり、珊瑚は集合場所に向かっていたが、やけに飛来骨が重く感じられた。そのとき、前方に法師の後ろ姿を見つけ、彼女はそちらへ駆け寄ろうとした。

 がたん!

 大きな音に驚き、弥勒が振り向くと、やや後方に、自身も驚いたような顔をした珊瑚がいた。
 足許に飛来骨が落ちている。
「珊瑚」
 錫杖を鳴らして弥勒が珊瑚のほうへ近づくと、娘はややきまり悪げに法師から眼を逸らした。
「ごめん。飛来骨を落としただけ」
 飛来骨を持ち直そうとして、持ち手が手から滑り落ちてしまったという。
「どうしました? 疲れが出ましたか?」
 珊瑚らしからぬ小さな失敗に弥勒は微笑ましげに微笑して、地面にいた雲母を抱き上げ、彼女の肩に乗せた。
 飛来骨を落としたとき、雲母も驚いて珊瑚の肩から飛び退いてしまったようだ。
 再び飛来骨を担いだ珊瑚と一緒に、弥勒は集合場所のほうへ歩き出そうとしたのだが、珊瑚はそのまま彼にもたれかかるようにして、身を寄せてきた。
 弥勒はどきりとする。
「珊瑚……?」
 娘の肩に手をかけ、様子を窺おうとすれば、不意に珊瑚が顔を上げて彼を見つめた。
「!」
 潤んだ瞳。紅潮した頬。切なそうな視線。
 はからずも動揺してしまった自分を誤魔化すように、弥勒は周囲を見廻した。
 町の中だが、それほど人通りは多くない。
 すぐそばを川が流れている。河原へ降りれば、人目を避けられるだろう。
「珊瑚、こちらへ」
 弥勒は低い声で珊瑚を促して、二人は河原へ降りた。

 橋桁の下へ隠れ、弥勒は珊瑚を抱き寄せた。
 飛来骨は下ろし、彼女の肩に乗る雲母は躯ごと後ろを向かせた。
「みゃう」
 雲母が文句を言うが、知ったことではない。
 ただ、愛しい娘を抱きしめたかった。
「珊瑚……」
 あんな表情をされて、黙って見過ごせるほど聖人ではない。
「法……師さま……」
 全身を預けるようにもたれてくる珊瑚の身体を抱きしめ、上を向かせ、弥勒はそっと唇を合わせた。
 合わせただけでは足りなくて、ゆっくりと何度もついばむ。
 娘の唇は熱を帯び──というより、異様な熱さだった。
 弥勒ははっと唇を離した。
「珊瑚、おまえ……」
 慌てて額を合わせる。
「……熱があるな」
「ん……」
 珊瑚は虚ろにまばたきをし、艶めかしい吐息を洩らした。
「法師さま……少し、ふらふらする」
 そう言って、珊瑚は弥勒にしなだれかかった。
「風邪、か」
 珍しく甘えてくるように見えたのだが、喜んでしまった自分が情けない。
「とにかく、どこかで休まなければな。宿を取りましょう」
 弥勒は心配そうに眉根を寄せ、飛来骨を持ち上げると、珊瑚を支え、犬夜叉たちとの集合場所に向かうことにした。

 冬だというのに、ここのところ、しばらく野宿が続いていた。
 そのせいで風邪をひいたのだろう。
 かごめは寝袋を使用していたが、珊瑚は小袖姿のまま、身体に掛けるものもなかった。
 男性陣も同様の格好だったが、女の身で、鍛えているとはいえ、無理がたたったのだろう。
 目印にした樹の下には、もう犬夜叉たち全員が集まっていた。
「この町には、奈落の影響は何もねえようだな」
「あたし、ここから西にある山のほうで、妖怪が出るという噂を聞いたわ」
「奈落と関係あるんじゃろうか」
「その噂ならおれも聞いた。そう遠くねえ場所だし、奈落と繋がりがあるのか、確かめに行ってもいいと思う。弥勒、おまえはどう思う?」
 話を振られ、はっとした弥勒は出し抜けに言った。
「私は今夜、この町で宿を取りたいんですが」
「はあ?」
 犬夜叉はちらと高い位置にある太陽を振り仰いだ。
「西の山へ行くぞ」
「いえ、珊瑚に熱があるんです。風邪のようですが、ちゃんとした宿で寝かせたほうがいい」
「えっ?」
 かごめが、どこかぼんやりした珊瑚に近寄り、掌を彼女の額に当てた。
「本当、かなり熱いわ。ちょっと待って。あたし、風邪薬持ってるから」
 背中のリュックを下ろし、口を開けて、かごめは薬箱を探した。
「ったく、人間ってのは弱えな。体調管理がなってねえぞ、珊瑚」
「ちょっと、犬夜叉。病気の女の子に」
「迷惑かけてごめん。確かに、犬夜叉の言う通りだ」
 思うように行動できず、悔しげな珊瑚を見て、弥勒は諭すように言った。
「まずは風邪を治すことですよ」
「しょうがねえな。じゃあ、珊瑚だけこの町に残って寝てろ」
「珊瑚ちゃん一人で? だって、熱が高いのよ。看病する人は?」
 ちらちら弥勒を見ながら、かごめが口を添えてくれた。
「あー、解ったよ。弥勒と珊瑚はこの町に残れ。おれたちは西の山を調べて、明日またこの町に戻ってくる。それでいいか?」
「助かります、犬夜叉」
 犬夜叉が承諾してくれたので、弥勒はほっとしたように珊瑚を見て、安心させるようにうなずいた。
「けど、雲母は連れていくぞ。戦力になるし、何かあったときには七宝を雲母に乗せてそっちへ行かせる」
「解りました」
「弥勒さま、これ、風邪薬よ。飲み方は知ってるわよね」
 薬箱から取り出した飲み薬を、かごめは弥勒に手渡した。
「ありがとうございます、かごめさま」
「ごめんね、みんな。薬、ありがとう、かごめちゃん」
 珊瑚は落ち込んだ様子だったが、そんな珊瑚にかごめが遠慮がちな笑顔を向けた。
「珊瑚ちゃん、頑張ってね」
「……頑張る……?」
 何を? と怪訝な顔をする珊瑚の隣で、弥勒は苦笑いを浮かべている。
 そうして、犬夜叉、かごめ、七宝、雲母は妖怪の調査に、弥勒と珊瑚は、この町に残ることになった。

* * *

 宿を取り、案内された部屋へ落ち着くと、すぐに夜具を延べてもらい、褶だけを外し、珊瑚は床に横になった。
「少し眠りなさい。夕餉が運ばれてきたら、起こしてあげます」
「あまり食欲がないんだ」
「何か胃に入れなければ、薬が飲めませんよ。先程、宿の方に粥を作ってもらえるよう、頼んでおきましたから」
 傍らに座した法師にやさしく言われ、頬を撫でられたが、珊瑚は弱々しく弥勒を睨んだ。
「部屋へ案内してくれた人に? ……若くて可愛い女の子だった」
 こんなときでも焼きもちを忘れない珊瑚に、弥勒はむしろ嬉しそうに口許を綻ばせた。
「別に口説いてませんよ。少し、心づけを渡しただけです。焼きもちは風邪が治ってからにしてください」
 咳などは特になかったが、熱が高いようだ。
 弥勒は宿から小さな盥を借り、手拭いを絞って、横たわる珊瑚の額にのせた。
 そのまま、珊瑚は少しうとうとしていたが、夕餉が運ばれてくると、弥勒に助けられて身体を起こした。うまく力の入らない身体を支えてくれた弥勒が、悪戯っぽく珊瑚の耳にささやいた。
「食べさせてあげましょうか?」
 珊瑚は照れ隠しにちらと法師を睨む。
「そこまでしてもらわなくていい」
 律儀に膳の前に正座して、珊瑚は気丈に、弥勒と向かい合わせに箸を取った。
 弥勒に心配をかけまいとしている様子がありありと解る。
 が、ふと室内を見廻して、いきなり彼女は法師に問いかけた。
「法師さまも同じ部屋に泊まるの?」
「……は?」
 今さらな質問に一瞬面食らう。
「同じ部屋でなければ看病ができないでしょう。それに、宿代だって無駄にできません」
「そ、そうだよね」
「いつも同じ空間で寝ているではありませんか。心配いりませんよ」
 まるで言いわけのように言って、夕餉の焼き魚を箸でほぐし、口に運んだ弥勒が視線を感じて眼を上げると、頬を紅に染め、珊瑚がじっと彼を見ていた。
 見返す彼の視線を受けて、恥ずかしそうに彼女は粥の碗に目を落とした。
(頬が赫いのは熱のせいか、それとも、私と同じ部屋に泊まることに対してか?)
 柄にもなく動転して、弥勒はすまし汁の碗を取り、それを口に含んだ。
 意識されると、逆にこちらも意識してしまう。
 二人きりで夜を過ごすのだと。──

 夕餉を終え、薬を飲み、珊瑚は再び夜具に横になった。
 珊瑚の夜具の隣に自分の夜具を延べた弥勒は、盥の水に手拭いを浸して絞り直し、珊瑚の額にのせた。熱はまだ高い。
「喉が渇いたら、私に声をかけてください」
「うん。じきに薬が効いてくるだろうし、あたしは寝るから、法師さまもちゃんと睡眠とってね」
「ああ。おまえが大丈夫そうなら、そうさせていただきます」
 外はもうだいぶ暗く、二人の部屋も燈台に火が灯されている。
 珊瑚の気配が解るよう、弥勒は自分の夜具を珊瑚の夜具にくっつけて並べた。
 相手は病人と割り切っているが、愛しい相手と二人きりで枕を並べて眠るのは、やはりどこか緊張する。
「こういうときは、たとえば、子守唄を歌ったりするものですか?」
 珊瑚の傍らに座る弥勒が、ふと、問うた。
「法師さま、歌ってくれるの?」
 少し驚いたように、枕の上から法師のほうへ眼を向けた珊瑚は、まぶしげに彼を見つめた。
「いえ、実を言うと、子守唄などひとつも知りません。歌ってもらった記憶もなくて」
「そう……じゃあ、法師さまが風邪をひいたとき、あたしが歌ってあげるよ」
「珊瑚が?」
 朧な灯りの中で、やわらかく珊瑚はうなずく。
「琥珀が小さかった頃、よく歌ってあげたんだ。……あ、でも、二人だけのときね。みんながいるときは恥ずかしいから」
 弥勒は静かに微笑する。
 約束のしるしに、二人は手を握り合った。
「少し眠くなってきた。あたしは大丈夫だから、もう、法師さまも休んでいいよ」
「ああ。だが、気分が悪くなったら、必ず私を起こすと約束してください」
「うん……ありがとう」
 薬が効いてきたようだ。
 眼を閉じて、夢に揺蕩い始めた珊瑚の美しい顔を見つめ、弥勒は娘の額の手拭いを取り、それを水で絞って、また額にのせた。
──珊瑚が愛しい、愛しい、愛しい……」
 子守唄代わりに低い声でささやいてみる。
 眼を閉じたまま、珊瑚が微かに微笑んだ。
 甘く低いささやきは耳に心地好い。
 ぼんやりする意識の片隅で、珊瑚は最愛の人の声に耳を傾けていた。
 娘の顔を見つめ、弥勒はとりとめのない言葉をさらに続けた。
「愛している。愛しい。恋しい。おまえが欲しい……今すぐここで」
「!」
 珊瑚の瞳がぱちっと開かれた。
「今、変なこと言わなかった?」
 動揺したように傍らの法師を見た。
 しかし、眠りに落ちかけ、夢を見ていたような気がする珊瑚には、それが現実に法師が言った言葉なのか、夢で聞いた言葉なのか、曖昧だった。
「いいえ? おまえが愛しい、と」
 法師は身を乗り出して、やさしく彼女の髪を撫で、額に手を当て、眠りを促す。
 珊瑚が眼を閉じてから、弥勒はまたゆっくりと言葉を紡いでいった。
──愛している。早く一緒になりたい。子供はたくさん。こんなふうに、枕を並べて眠るのが当たり前でありたい」
 ささやかれる言葉が増えていくうちに、珊瑚は次第に深い眠りに落ちていく。
──愛している……おまえが恋しい……愛している」
 飽きることなく、弥勒は珊瑚への想いを込めた言葉をささやき続けた。
 意識がはっきりしていれば、珊瑚には赤面ものの言葉の数々だったが、薬が効いて朦朧としている今、それらの言葉は音楽のように快く、珊瑚を眠りへと導いてくれた。
 やがて、彼女が完全に眠りに落ちたことを知った弥勒は、燈台の灯を消し、闇に沈んだ部屋の中で、横たわる珊瑚の顔の辺りに、影のように静かに覆いかぶさった。
「ん……」
 珊瑚の吐息が洩れる。
 夢かうつつか。
 闇の中で、そっと唇が合わせられた。

〔了〕

2012.12.2.

麗奈さんから、「原作設定で風邪引き珊瑚ちゃん。キスした時の唇の熱さで弥勒さまが気付く」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。