それは、突然はじまった。

愛の挨拶

「おはようございます」
 宿の井戸端で顔を洗っていると、背後からさわやかな声がかけられた。
 急いで手拭いで顔を拭い、珊瑚は立ち上がって振り向く。
「おはよう、法師さ……」
 ま、と言うより早く、彼の顔が覆いかぶさってきた。
(え?)
 軽く頬に触れたものに、一瞬、眼をぱちくりさせたが、接吻を受けたことに気づき、珊瑚は大きく眼を見開いて法師を見遣る。
「なにっ、いきなり!」
「何って、朝の挨拶ですよ」
「……」
 絶句する珊瑚に構うことなく、弥勒も桶の水で顔を洗い始めた。
 抗議しようとしたが、あっさりとした弥勒の様子に、まともに取り上げるのも馬鹿馬鹿しい気がして、珊瑚は釈然としないながらも朝餉の席へ向かった。
 そして、そのようなこと、もう珊瑚が忘れかかっている頃、宿を出立するとき、かがんで草鞋を履いている彼女のもとに法師がやってきた。
「珊瑚」
「ん、なに?」
 ふと顔を上げ、彼を振り仰いだとき、またしても彼の唇が降ってきた。
 今度は額に。
「……」
「さあ、行きましょうか」
 にっこり笑う弥勒だったが、珊瑚には彼がふざけているとしか思えない。
 誰にも目撃されていないことを確認すると、珊瑚は法師の腕を引いて声をひそめてささやいた。
「法師さま! 何それ? 新手の嫌がらせ?」
「なに言ってるんです。こんなの挨拶ですよ。あ・い・さ・つ」

 そんな調子で、何かにつけて、弥勒はいちいち挨拶だと唇を寄せてくる。
 朝、起きて顔を合わせたとき。夜、寝る前。食事の前後。
 出くわした妖怪を退治してふうっと息をついているときも、いきなり腕を引かれ、頭のてっぺんに口づけられた。
 頬や額に触れるだけの軽いもので、彼は新しい遊びを楽しんでいるつもりなのだろうが、珊瑚は四六時中気が抜けなくなった。
 仲間たちの目も気になる。
 三日も経つと珊瑚は警戒心を強くし、法師から離れて行動するようになった。
「どうしたの、珊瑚ちゃん?」
 そんな緊迫感漂う二人の様子に気がついたかごめが、弥勒と距離を取って歩いている珊瑚の隣に並んだ。
「弥勒さまとなんかあった?」
 かごめの顔を見て、珊瑚は小さくため息を洩らした。
 わざわざ相談するのも馬鹿らしいような、気恥ずかしいような、口に出すのが面映ゆい。
「うん……ちょっとね」
 言葉を濁す珊瑚だったが、好奇心旺盛なかごめはうまく話を誘導し、たちまち全てを聞き出してしまった。
「やだ、弥勒さまったら」
 事情を知ったかごめは苦笑いした。
「それ、半分はあたしの責任かも……」
「かごめちゃんの? なんで?」
 驚く珊瑚に照れ笑いを向け、かごめは前方を歩く男性陣に聞こえないよう、声をひそめた。
「何日か前、弥勒さまと話をしていてね」
「うん」
「どうしてそんな話題になったのか忘れたけど、あたしの世界で外国人は、挨拶でキス――口づけをね、することがあるって言っちゃったのよ。弥勒さまはそういうのしそうなタイプよねって」
「……」
「まさか、本当に弥勒さまが珊瑚ちゃんで実行するとは思わなかったわ」
 くすくすとかごめは明るく笑う。
「……かごめちゃん、変なこと教えないで」
 珊瑚は脱力してつぶやいたが、かごめは平気な顔で笑っていた。
「だって、珊瑚ちゃん限定でしょ? 他の女の子にはしないんだから、いいじゃない?」
「そんなの、誰にでもするようだったら許さない」
 それにそういう問題じゃない、と言いかけたところへ弥勒が来た。
「村が見えます。今日はあそこで宿を取りましょうか」
「あ、そうね。犬夜叉ー、七宝ちゃーん、村が見えてきたわよ」
 かごめが犬夜叉たちのほうへ駆けていくと、珊瑚は素早く法師に手を取られた。
「……っ!」
 構える珊瑚に頓着することなく、弥勒はその手を口許に持っていく。
 そして指先に軽く唇を触れさせて、娘ににっこり微笑みかけるのだった。

 ……疲れる。
 気の休まる暇もない珊瑚は困り果てていた。
(そうだよ、どれだけあたしが困っているか、法師さまにしっかり伝えないと……!)
 今はかごめ以外の者に知れていないとはいえ、法師は仲間たちの目などお構いなしなのだから。
 一方の弥勒は、珊瑚があまりに自分を避けるので、いやでも自分へ関心を向けさせようと、最も簡単な手段を講じた。
 つまり、てっとり早く珊瑚に妬かせようと、村に着くなり娘たちを集め、手相を見始めた。

(よしっ、今日こそ法師さまにはっきり言おう!)
 宿を頼んだ屋敷の部屋で怖い顔をして考え込んでいた珊瑚は、屹と宙を見据え、拳を作った。
 と、周囲を見廻しても弥勒の姿はない。
「あれ? かごめちゃん、法師さまは?」
「あ、弥勒さまなら外で……」
 言いにくそうに口をつぐむかごめの言葉を犬夜叉が引き取った。
「あいつなら村の広場で女と騒いでたぞ?」
 すくっと珊瑚が立ち上がる。
「ちょっと行ってくる!」
 心配そうに見送るかごめの視線にも気づかないまま、珊瑚は勢い込んで部屋を出た。

 法師の姿はすぐに見つかった。
 若い娘五、六人に囲まれ、楽しげに談笑している。
「法師さまっ!」
 そのうちの一人の手を取り、切り株に座って手相を見ていた弥勒は、珊瑚の声を聞くと、すぐに立ち上がって振り向いた。
「おや、珊瑚。ずいぶんと私を避けていたようですが、何か用ですか?」
 しらじらしい! と、珊瑚は険しい眉で法師を睨む。
「もう、おまえのそばへ寄ってもいいんですか?」
 からかうような法師の眼差しを屹と見返した珊瑚は、娘たちが見守る中、ずかずかと彼に歩み寄った。
「珊瑚?」
 怒った表情のまま、娘はものも言わずに彼の衿元を両手で掴む。
「珊――
 そして、彼の身体をぐいと引き寄せ、爪先立つと、いきなり彼の唇の真ん中に、自分の唇を押しつけた。
「きゃああっ!」
 村娘たちの悲鳴が上がる。
 たっぷり五秒間、彼の唇に自らの唇を押しつけていた珊瑚は、顔を離すと、真っ赤になって法師に怒鳴った。
「ところ構わず不意打ちで! その――されるのがどれほど恥ずかしいか、解った?」
 弥勒は呆気に取られて珊瑚を見つめている。
 その眼を睨みつけてから、珊瑚は憤然と踵を返した。
「さん……ご……?」
 自分の名を呼ぶあやふやな声音を聞き、少し溜飲が下がったような気がする。
 法師もこれで懲りただろうと、珊瑚はさっさとその場を立ち去った。
「なに、あの娘、いきなり」
「なんて乱暴な」
 騒ぐ村娘たちの声などまるで耳に入らない。
 弥勒は、まだ呆然と珊瑚のあとを見送ったまま、左手で己の唇に触れた。
「……」
 珊瑚の行動が未だ信じられない。
 あの珊瑚が、人前で、自分から――などと。
(っ!)
 唇に押しつけられたやわらかさを思い出し、今さらながら顔が赫くなるのを自覚する。
「法師さま、大丈夫ですか?」
 気遣わしげにかけられた声で弥勒ははっと我に返った。
 だが、村の娘たちに構っている場合ではなかった。
「ちょっとすみませんっ。急用がっ」
 娘たちから珊瑚への非難の声が上がるのを無視し、弥勒は彼女の去ったあとを追いかけた。
 珊瑚が。
 あの珊瑚が、まっすぐ自分の眼を見て唇を合わせてきたのだ。
 弥勒は自らの頬が熱を持っていることに気づいた。
 恥ずかしさよりも驚きと嬉しさのほうが大きかったと伝えたら、あの娘はどんな顔をするだろう。
(これは、たっぷりとお返しをせねば)
 頬を緩ませ、足早に珊瑚を追いかける。
 そして、まもなく、珊瑚は法師がいささかも懲りていないことを知る。

〔了〕

2009.10.17.

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