やさしい雨が奏でる子守唄のように、互いを包み込める。
──そんな存在になれたらいい。
雨だれ
しとしとと降り続く雨はなかなかやまない。
本降りではない。
むしろ小雨といってもいいくらいであるが、気まぐれな山の天候のもとでは、このまま歩き続けるのは得策とはいいかねる。午後ももう遅い。
いつやむとも知れない雨を受けながら山道を行く一行の前に、廃寺らしい建物が見えた。
かなり荒廃した寺である。
しかし、背に腹はかえられず、一行はその荒れ寺を今夜の宿とすることにした。
「うわ、中もすごいね」
大きな寺だったが、廃寺となって久しいらしく、建物の傷みが激しい。
わざわざ履物を脱ぐ必要もないほどであった。
「雨も漏っておるぞ」
天井からぽたりぽたりと滴ってくる雨粒に、七宝が眉をひそめた。
「何か出はせんかのう……?」
化け猫が巣食っていたいつかの尼寺を思い出したのか、幼い妖狐はきょときょとと落ち着かなげに周囲を見廻す。
「大丈夫だ。妖怪の臭いも気配もねえよ」
犬夜叉のお墨付きをもらい、ほっと一安心するも、再び不安そうな目で天井を仰ぐ。
「天井が落ちてくるなんてことはないじゃろうか」
「七宝は心配性だね。まだそこまで腐っちゃいないよ」
珊瑚がぽんと仔狐の頭に掌を乗せた。
「これだけ広い寺です。雨漏りのしない部屋だってあるでしょう。一晩くらいはしのげますよ」
と、弥勒も笑顔を作る。
「そうよ、七宝ちゃん。お寺の中を探検しましょ?」
かごめに抱き上げられ、七宝は不承不承納得したようだった。
僧房の室をひとつひとつ覗いて廻り、比較的傷みの少ない一部屋を見つけると、一同はその部屋に落ち着くことに決めた。
他の部屋ほど荒れておらず、雨も漏ってはいないようだ。
七宝がほうっと安堵の息を洩らした。
とりあえず荷を置くと、珊瑚が立ち上がる。
「ちょっと庫裏のほうを見てくるよ」
「あ、珊瑚ちゃん、あたしも行くわ」
足音も軽く、庫裏の様子を見に行った二人だが、しばらくして戻ってきたのはかごめ一人だった。
「かごめさま、庫裏は使えそうですか?」
「うん。お湯くらいは沸かせそうよ。薪はないけど、湿気てない床板とか剥がして薪の代わりにすればいいって、珊瑚ちゃん、言ってた」
かごめは、ざっと埃や蜘蛛の巣を掃った床に胡坐を掻いて座る男性陣に向かって、両手を合わせて苦笑してみせる。
「ごめんね、今日の夕食はカップ麺くらいしかできそうにないけど」
「平気じゃ! おら、かごめの忍者食は大好きじゃ」
食事と聞いて、にわかに空腹を覚えた七宝は元気を取り戻したようだ。
「で、珊瑚は?」
異国の少女の背後を窺うような法師の視線を受け、かごめは今来た方向へ目を向けた。
「ここを真っ直ぐ行った角の部屋に庭に面した濡れ縁があってね、少しだけそこにいてもいいかって」
弥勒の表情に、少し──ほんの少しだけ、物思わしげな翳が揺れた。
一方のかごめはつかつかと半妖の少年に歩み寄ると、その腕を取ってぐいっと引っぱる。
「さっ、犬夜叉、立って! 薪代わりにする板を集めてくれない?」
「ああ?」
「そろそろお腹空いたでしょ? それくらい手伝ってよ」
「しょーがねえなあ。おい、弥勒、行くぞ」
「あ、じゃあ、弥勒さまは、あっちのほう、見てきてくれる?」
かごめは珊瑚がいるという方角を指で示す。
「しかし、あちらは……」
珊瑚は一人になりたいのでは?
「お願いね、弥勒さま。じゃあ、あたしたちはこっちに使える板がないか探しに行こ? 七宝ちゃん、すぐ何か食べさせてあげるから、もう少し待っててね」
弥勒に向かって意味ありげに微笑むと、犬夜叉の腕を掴んだかごめは、ずんずんと広い廊下を庫裏とは反対の方向へ歩いていった。
「……」
仕方がない。
七宝と雲母に荷の番を任せると、法師は錫杖を鳴らしながら、かの娘がいるという縁へ向かって足を進めた。
かごめの様子からして、自分たちを二人きりにしてやろうと気を遣ったのだろう。
しかし、まさか珊瑚が自分と二人きりになりたいなどと口に出すはずはなく。
そのようなことを彼女が仄めかしたとも考えられず、今、珊瑚のそばに行っていいものかと弥勒はわずかに躊躇する。
思案しつつ歩いていると、前方に、己の思考を占めている娘の姿が見えてきた。
苔むした庭に面する広い濡れ縁に両手で膝を抱え込むような格好で座り込み、軒を支える柱に肩をもたれさせている。
憂いを帯びて見える視線を小さな庭へ無造作に投げ、じっと雨だれの音に聴き入っているようだ。
弥勒は、珊瑚の眺める庭へ眼を向けた。
広くはないが、かつては手入れの行き届いた立派な庭だったのだろう。
しかし今は、雑草が生い茂り、見る影もない。
雨にけぶるその風景に珊瑚は何を見ている?
弥勒はそっと娘の背後に歩み寄る。
「どうした?」
やさしく問いかけた。
「そんなところにいつまでもいると、身体を冷やしますよ」
珊瑚は柱に頭をもたせかけたまま、夢見るような声音で応えを返す。
「……子守唄みたいに聴こえる」
法師は耳を澄ました。
「雨だれ」
と、珊瑚は斜交いに弥勒を振り仰いだ。
やさしげに細められた珊瑚の眼の表情を見て、弥勒は彼女が想いを馳せていたものを知った。
「座っても──いいか?」
「……うん……」
控えめな承諾を得て、法師は娘の左隣に腰を下ろす。
かつて、大勢の人が集い、賑わっていたであろうこの場所は、まるで似ていないにも拘らず、珊瑚の里を思わせた。
「人の世は無常だな」
「ん……」
独り言のような法師のつぶやきに、珊瑚は小さくうなずいた。
しとしとと雨は降り続く。
そこにじっと座っていても、軒が深いため、思ったほど雨のしぶきがかかることはなかった。
夢想するように柱に寄り掛かったままの珊瑚を横目に、弥勒はぼんやり考える。
帰る場所を失った彼女にとって、己の存在とはなんだろう?
真に彼女の還る場所となるには、己はまだ程遠い位置にいるのか。
せめて、彼女が安心して寄り掛かることができるものが、己の存在であれば。
「珊瑚」
右肩を柱に預けたまま、膝を抱えたそのままの姿勢で、珊瑚は法師を顧みる。
彼女の左側に座る弥勒は、微笑を浮かべ、こちらへ向かって掌を差し出していた。
珊瑚は首を傾ける。
「手相を見てやろう。考えてみると、おまえのは一度も見たことがなかったからな」
「あたしはいいよ」
「今さら何を恥ずかしがってるんですか。手を握るくらい、どうってことないだろう?」
弥勒から眼を逸らし、珊瑚はうつむいた。
「信じてないから」
「?」
「占いなんて、よく解らないし」
「たいていのおなごは占いを好むものだがな」
「いいの。あたしは法師さまの怪しげな占いなんて当てにしない」
法師はふと気づく。確証のないものに未来を左右されることを、彼女は恐れているのだ。
「珊瑚。占いは、ただの指針だ」
伸ばされた弥勒の右手の指先が、珊瑚の手に触れた。びくりと彼女の身が強張るのが、触れている指を通じて伝わってくる。
「信じる信じないはおまえの自由。そして、よいことを言われても慢心せず、悪いことを言われれば精進すればよい」
弥勒は珊瑚の左手を取る。
やや不安げな面持ちながらも、珊瑚はそのまま左手を弥勒に委ね、立てていた膝を寝かせて横座りになると、法師と向き合った。
弥勒は自分の掌の上に珊瑚の手の甲を乗せ、その掌の筋──紋理を右手の人差し指で示しつつ、珊瑚にも解りやすいようにと説いていく。
「これが天紋。人との関わりや、たどる身分の貴賎を示している」
と、感情線を指先でなぞり、耳に心地好い、低い声音で説明する。
「これは人紋といい、持ち主の性格やたどる貧富を表している」
頭脳線をなぞりながら、次にそう言う。
珊瑚は、知らず知らず弥勒の声に惹き込まれ、床に右手をつき、法師に預けた己の掌を覗き込むようにして見つめている。
「そしてこれが地紋だ。持ち主の住まう場所、そしてたどる寿命を司っている」
最後に生命線をなぞってから、弥勒は珊瑚の掌の中央の縦に走る紋を指し、
「おまえの掌のここ、縦に皺がまっすぐ指を貫いているだろう?」
「うん」
「これは、万事において、本望を遂げることを示唆している」
あまりにもはっきりと明言する弥勒の言葉に驚いた珊瑚が彼を見遣ると、彼女の掌を見つめる法師の表情はいつになく真剣だった。
「そして、ほら、このように細やかな紋は、持ち主が聡明で才智に長けている証だ」
穏やかに告げ、弥勒は視線を珊瑚の顔へ移した。
娘と目が合うと、包み込むようなやわらかさで微笑んでみせる。
「ほ……ほんと?」
そんな良いことばかりが手相に表れているはずはない。
そうは思うものの、法師の言を全て嘘と決め付ける根拠も何もなく──
けれど、
「本当ですよ。おまえはよい相を持っている」
ただそれだけの言葉に、何故か、ふわりと心が軽くなる。
荒寥とした心ごとやさしく包み込んでくれるような弥勒の思いやりが、涙が滲むほど嬉しかった。彼がそばにいてくれることに、珊瑚は心から感謝する。
「……ありがとう、法師さま」
弥勒には珊瑚の心情などお見通しだったのだろう。
珊瑚は、自分の手を握っていた彼の左手を両手で掴むと、自分のほうへ引き寄せた。
弥勒が与えてくれたように、何かを彼に返したいと思う。
「珊瑚……?」
日頃の彼女らしからぬ所作に不思議そうな弥勒の声。
「あたしにも、占えたらな……」
弥勒の心遣いに酬いたい。
この上なく純粋な想いで、珊瑚は引き寄せた法師の左掌を凝視する。
この掌の地紋から、彼が短命ではない証を見いだすことはできないだろうか。
弥勒が自分に与えてくれたように、何か彼が安らげる言葉を彼に返せないだろうか。
「ねえ、地紋って、どうやって見ればいいの?」
幼子のように問いかける珊瑚に、しかし、弥勒は静かに微笑をよこすのみ。
「法師さま?」
「……おなごの手相は左手を見るが、男の場合は右手で見るんですよ」
ぎくりとした。刹那、心臓を鷲掴みにされたように、息がつまる。
なんて不用意な発言をしてしまったのだろう──
意図したものではないにせよ、返したかった想いは、彼を傷つけるだけの行為となった。
法師の左手を握ったままの珊瑚の両手が、ぱたりと膝の上に落ちた。
片手を珊瑚の手の中に残し、数珠と手甲に護られた右手を持ち上げた弥勒は、己の掌に視線を落として淡々と言葉を紡ぐ。
「それでいいんだ。自分で自分の寿命が見えてしまうほど、恐ろしいことはない」
「……法師さま」
珊瑚は迂闊な自分の言葉を激しく悔やんだ。
きゅっと唇を噛んだ彼女は、そろ、と手を伸ばし、おずおずと弥勒の右手を掴む。
「未来って、分け合えないかな」
「珊瑚?」
「そうしたら、法師さまが占ってくれたあたしの相を法師さまにあげられるのに」
そう言って、珊瑚は弥勒の右の掌に、己の左の掌を押し当てた。
「あたしが本懐を遂げられる相を持っているなら、風穴の呪いも必ず解ける。法師さまの占いが、インチキでなければね」
風穴の穿たれた掌の中央に己の左手を合わせていた珊瑚は、それにもう片方の手を添えて彼の右手を握りなおすと、押し頂くように自らの頬に当てた。
「法師さまの占いは当たるって、あたしが証明する。だから、風穴がなくなった右手、一番にあたしに見せて。約束だよ」
珊瑚の想いがやさしい子守唄のように、ささくれた心を包み込む。
華奢な両手にそっと包まれた右手とともに、彼女の想いに抱かれて、そのひたむきな純真さに心があらわれるようだ。
「ああ、約束だ」
胸が熱くなるのを感じ、弥勒はさりげなく視線を庭へ向けた。
しとしとと雨が降り続いている。
「……子守唄のようだな」
雨だれに耳を傾けて。
「いつかまた、このような時間を持ちたいものだ」
全てが終わった、そのときに。
愛しい娘へ視線を戻した弥勒は、彼女の膝に置き去りにされていた左手で、ゆるりと彼女のあいているほうの頬を撫でる。
「そのときは、おまえが私の手相を見てくれるか」
「うん。約束。あたしが法師さまの手相を見てあげる」
二人は互いに探るように見つめあっていたが、やがて緩やかに微笑みを交わした。
──それは、全ての闘いが終わったとき、私とともに生きるというおまえからの確約だぞ。
気づいているか? 珊瑚。
──それは、風穴の呪いが消えたとき、必ず生きているという約束だよ?
解ってる? 法師さま。
しとしとと落ちてくる雨だれが、やさしい子守唄を奏でている。
〔了〕
2007.7.6.