雨だれが聞こえる。
 こんなに静かで穏やかな時間を過ごせるのはどれくらいぶりだろう。
 珊瑚は瞼を閉じたまま、静かな眠りに落ちていった。

亜麻色の髪の乙女

 通りかかった小さな村に足をとめた犬夜叉たちの一行は、名主の家にその日の宿を得た。
 母屋で、みなひと休みしている間、例によって弥勒だけは、戯れる相手を求めて外へ出ている。
 見目よい法師の耳に心地好い語りを聞きに、好奇心旺盛な村の娘たちが畑仕事や家事の合い間を縫って集まってきたが、程なく、雨が降ってきた。
 娘たちは、たちまちのうちに洗濯物や、干している野菜のことを思い出し、それぞれの家へと帰っていった。
 何人か、名残惜しそうに法師の袖を引いて誘う者もいたが、この日は法師のほうで気が乗らないらしく、やわらかく辞退した。以前なら、機会を逃すことなく、好みの娘を選んで二人きりの時間を楽しむところだが。
 弥勒はしばらく大樹の陰で雨をしのいでいたが、この分だと雨足が強くなりそうだと、名主の家のほうへ歩き出した。
 途中、納屋がある。
 雨宿りするのにちょうどいいと、納屋の扉を開けた弥勒の動きが止まった。
「おや」
 先客がいた。
 仲間の、退治屋の娘。
「珊瑚」
 彼女は法師の声に反応しなかった。
 納屋の隅に積み上げられた藁の上に身を横たえ、すうすうと寝息を立てている。
「年頃の娘が不用心な」
 弥勒は呆れてつぶやいたが、珊瑚は両手でしっかりと小さな猫又を抱きしめていた。
「ああ、護衛も一緒ですか。しかし、雲母は羨ましい位置にいるな」
 耳をぴくぴくさせた雲母が、珊瑚の腕の中からちらと法師を顧みたが、すぐにまた娘と一緒に眠ってしまった。
 開かれたままの小さな窓から、雨だれの音が洩れ聞こえてくる。
 扉を閉め、窓も閉めて、まるで約束をして逢い引きしているようなこの状況に、弥勒は声を抑えてくすくす笑った。そして、珊瑚が褥代わりにしている積まれた藁の足許に、静かに腰を下ろした。
 見るともなしに、娘の寝顔を眺め遣る。
 境遇のせいか、いつも硬い表情をしているが、こうしてみるとあどけない。それに相当の美少女だ。
 たまには行きずりの女と共寝することなく、美女を眺めているだけというのも悪くはないと、弥勒は我知らず微笑した。
 静かな雨の音だけが響く中、弥勒は、ただ眠る珊瑚の姿を見つめていた。
(疲れているのだろうな)
 うら若い娘の寝姿をあまり見つめるのもどうかと思われ、視線を落とすと、視界に入った彼女の草鞋が、だいぶ傷んでいる。
 弥勒はそっと珊瑚の足を持ち上げ、草鞋を片方、脱がせた。
(そろそろ替え時かな)
 路銀は弥勒が管理している。
 かごめは必要なものを全て自宅から持ってくるのでうっかりしていたが、若い娘のこと、珊瑚にも日常的にこまごまとしたものが必要だろう。少し金子を持たせておくのだった。
 弥勒は、もたれている藁の山から藁を少し引き抜き、草鞋の修繕を始めた。
 弱っている緒の部分に新しい藁を巻きつけ、強度を測る。
「う、ん……」
 背後で小さな吐息が洩れ、娘が寝返りを打った。
「……」
 薄く開けた瞳に映った袈裟の色をぼんやりと見つめていた珊瑚は、突如、がばっと飛び起きた。
「法師さまっ?」
 驚いて眼を見張る娘を振り向き、弥勒はにっこりと笑んだ。
「よく眠れましたか」
「こっ、この助平! 人が寝ている隣で何して……まっまさか、寝込みを――!」
「安心なさい、珊瑚。さすがに私も、合意でなければ襲いませんよ」
 弥勒は、直した珊瑚の片方の草鞋を彼女へと差し出した。
「あ、あたしの?」
 珊瑚が自分の足に視線を落とすと、片方、草鞋を履いていない。
「応急処置程度ですが、少し補強しておきました」
「あ……」
「これで、少しはもつでしょう。次に町か市を通ったときに、新しいものを買い求めます」
 屈託なく微笑む弥勒を見て、草鞋を受け取った珊瑚は恥ずかしそうにうつむいた。自分でも、そろそろ新しいものに交換しなくてはと思っていたのだ。
「……ありがとう」
「いいえ。私こそ、気がつかなくて」
 草鞋を履き、珊瑚はふと彼を見た。
「そういえば、法師さまは何でここにいるの?」
「雨音が聞こえませんか?」
 依然、静かに雨は降り続いている。
「雨宿りにここへ駆け込んだら、珊瑚がいたというわけです」
「みう」
「珊瑚と、雲母が」
 そして、積み上げた藁の上に身を起こした珊瑚を改めて見遣った弥勒は、くすくすと笑い出した。
「なに」
「髪が藁まみれですよ。小袖の肩や袂も。年頃の娘が子供みたいに」
 彼はなおも、忍ぶように笑っている。
 無防備な姿を見られ、あまつさえ子供扱いされ、珊瑚は髪に手をやり、真っ赤になった。
「……し、仕方ないだろ? 藁の上で寝てたんだから。ねえ、ちょっと。法師さまも、藁を払うの手伝ってよ」
「帰るときでいいではありませんか。できれば、場所を代わってもらえれば助かります。私も少し眠りたいので。それとも、一緒に寝ていいですか?」
「駄目に決まってる!」
 珊瑚は慌てて、藁を払うのもそこそこに、場を移動した。
 今度は弥勒が積まれた藁の上へ身を横たえ、珊瑚が彼の足許の床に腰を下ろした。雲母は娘の膝の上だ。
 気持ちよさそうに藁の上に横たわる法師を、珊瑚は何となく振り向いて見つめた。
「今日も村の娘たちを口説いてたんだろう? 誰かに雨宿りさせてもらえなかったの?」
「今日は興が乗らなくて。ですから、珊瑚と一緒のほうが都合がいい」
「振られたんだ」
「いえ、積極的な娘がいましてね。もし、小雨になってその娘が再び私を誘いに来ても、私が他のおなごと一緒のところを見つければ、黙って引き下がってくれるでしょう」
 珊瑚はよく意味が飲み込めない様子で、首を傾げた。
「じゃあ、その娘と昼寝してればよかったんじゃ?」
 弥勒はくすりと口角を上げる。
「珊瑚は仲間ですからな。男女の逢瀬は、普通、昼寝で終わりませんよ」
 けだるげに法師が洩らす吐息に、珊瑚ははっとして頬を真っ赤に染め上げた。
「こっ、子供を産んでもらうつもりだったの?」
「いえ。一夜の夢を結ぶだけです。……まだ昼ですが」
「だ、だけって……」
 弥勒が珊瑚のほうへ顔を向けてみると、彼女は困惑しきったように、うつむいて両手で紅潮した頬を押さえていた。初心な反応が弥勒には可笑しく、可愛らしく、新鮮に映った。
 大人の恋の駆け引きよりも、色恋に奥手そうな珊瑚とのじゃれあいが楽しい。
「じゃ……じゃあ、あたしはこれで。昼寝の邪魔しちゃ悪いし」
「まだ雨が降っていますよ」
「走るから、平気」
 居心地が悪そうな珊瑚は視線を彷徨わせて立ち上がろうとしたが、身を起こした弥勒の手が、すかさず彼女の臀部を撫でた。
「法師さまっ!」
 振り向きざま、問答無用で珊瑚は法師の頬をはる。
「仲間だから手を出さないって、たった今、言わなかった?」
「尻を撫でたくらいで手を出したとは言いませんよ。これは親愛の印、です」
 打たれた頬を撫でて苦笑いをする法師を横目で睨み、珊瑚はつんとそっぽを向いた。
「そんな言葉に騙されないよ。やっぱり、法師さまと二人きりなんて危険だ」
「濡れますよ。それに、母屋へ戻ったときに二人して髪や衣に藁屑をつけていたら、私たちは納屋でそういう関係になったと、皆に誤解されますよ」
「ちょっ、まだついてる? 払ってよ」
 だが、無情にも法師は眼を閉じて、眠る体勢に入った。
「起きたら払ってあげます。少し眠りたいので、雨が上がるまで、そこで待っていてください」
 寝息まじりにささやくと、彼の意識はなめらかに眠りに落ちていった。
 弥勒がこのように無防備な姿を見せることを、珊瑚は少し意外に思った。
 普段は眠るときも隙を感じさせない彼なのだ。彼がここまで警戒を解いた姿を初めて見た気がする。
(気を許してくれてるのかな)
 ふと珊瑚は、弥勒は、夜よく眠れていないのではと思った。
 彼女自身も心に負った傷や闘いへの緊張感のせいで、眠ろうとしても眠れない夜がある。
 珊瑚は眠りに身を委ねる法師をじっと見つめた。
 規則正しい静かな呼吸。
 自然、見つめる彼女の表情も和らいでくる。
(まあ、いいか)
 眠っているのだから、尻を撫でられることもないだろう。
 だから、そばについていよう。
 納屋の窓を少し開けて外の様子を窺うと、薄日が射し始め、雨はそろそろ上がりそうだった。けれど、弥勒をもう少し寝かせてあげたい珊瑚は、窓を閉め、外の気配を遮断した。
 雲母を抱いて、娘は法師の足許に座り込む。
 そして、積まれた藁にもたれて、眼を閉じた。

〔了〕

2013.3.5.

「亜麻色の髪の乙女」 ドビュッシー