「珊瑚は一目惚れを信じますか?」
 どうしてそんな話になったのかは忘れたけれど。
 法師の唐突な問いに、珊瑚は口をぱくぱくさせ、眼を大きく見開き、まばたきをくり返した。

アンダンテ・カンタービレ

 一目惚れを信じていないわけじゃない。
 ただ、そんなもの、あたしには無縁だと思っていたから。

「なななっ、何を突然――っ」
「おや、失礼。おなごはみな、そういう話が好きなものと思っていました」
 法師の平然とした態度が憎らしかった。

 廃屋といってもいいお堂の中。
 二人は暇を持て余し、傍らには雲母が寝そべっている。
 とはいえ、奈落に関する情報収集を彼らだけさぼっているのではない。
 昨日の戦闘で足を負傷した弥勒の看病を珊瑚がおおせつかったのである。
 今日一日、歩いてはいけないと、法師は厳しくかごめから言い渡されていた。
「法師さまはあるの? 一目惚れの経験」
「そうですなあ。ないと言えないこともないかもしれません」
 意味もなく胸がざわついたが、気のせいだろうと珊瑚は思った。
 壁際に積み上げた藁にもたれて座っている人当たりのいい青年は、奈落の奸計で、家族も仲間も帰るべき里も失った自分に手を差し伸べてくれた現在の仲間の一人だ。
 幸せだった世界が崩壊し、仇を討つため我武者羅に闘って意志を強く保とうとした彼女だったが、彼らがいなければ、すでに絶望の淵に突き落とされていただろう。
(出会ったときは問答無用で攻撃して、琥珀のことでも、さんざん迷惑かけたのに)
 異国の少女は深く包み込むように。
 仔狐は幼いなりに心を砕いて。
 半妖は不器用ながらも温かく、みな、珊瑚をやさしく受け入れてくれた。
 だが、未だよく解らないのがこの法師だ。
 かごめが言ったように“基本的に”いい人でも、始めはなんてふざけた奴なんだろうと思った。
 それから、芯の強いひとだと感じた。
 己もそういう種類の強さが欲しいと願うようになった。
 でも。
(やっぱり、法師さまだけは掴めない……)
 誰に対しても、そつなく接しているが、時々、何を考えているのか判らなくなる。
 真面目に意見を述べていたかと思えば根も葉もない脅しとお祓いで宿を得たり、惹き込まれるような表情で思いやり深い言葉をかけてくれたかと思えば、次の瞬間には尻を撫でられていたり。
 要するに面妖なのだ。
 現に今だって、何を思ってこんなこと――
「そりゃ、法師さまはそんな話が好きかもしれないけど、あたしは今、恋なんてしてる暇はないんだ」
「それは残念ですな。年頃の美しい娘が恋に興味がないとは」
「一刻も早く、奈落を討つ。それからでいいよ。そんなこと考えるのは」
「すみませんねぇ。そんなときに怪我なんかして」
「えっ?」
 今回の弥勒の怪我は、珊瑚をかばって負ったものだ。
「やだ、ごめん。これはあたしの不注意のせいだし、法師さまに落ち度はないよ。それに――
「それに?」
「法師さまはいつも無理しすぎだから、こんなときくらいはゆっくり休んで」
 申しわけなさそうに上目遣いで彼の様子を窺うと、彼は面白そうに得体の知れない微笑を浮かべて珊瑚を見ていた。
 怪我からくる発熱も治まり、文字通り手持無沙汰なのだろう。
「まあ、私は自分がどこまでの無理に耐えられるか知っているつもりですから。むしろ、いつも無理しすぎなのはおまえでしょう? かごめさまが私についているようにとおまえに言ったのも、珊瑚を休ませたかったからですよ」
「……」
 今日一日は安静にしているべき弥勒の見張り兼護衛のために残されたのだと珊瑚は思っていたが、そうだ、護衛なら、雲母だけでも充分だ。
 犬夜叉とかごめ、そして七宝は、この日も奈落と四魂のかけらの手がかりを探しに行っている。
「あっ、あの、あたし」
 それに気づき、そわそわと立ち上がりかけた珊瑚の手首を弥勒が掴んだ。
「今日は私の相手をしてくれるんでしょう?」
「相手じゃなくて看病だよっ」
 ゆきずりの戯れ事の相手と同列に扱われた気がして、掴まれた手をあたふたと引き、珊瑚はわずかに上擦った声で否定した。
「怪我人なんですから怒鳴らないでください。傷に響きます」
「あ、ごめん。痛むの?」
 再びそこに腰を下ろした娘ににっこりと微笑みかけ、法師は彼女の手首から離れた己の手をやや名残惜しそうにわきに置いた。
「ですから、気を紛らわせるためにも話し相手になってください。珊瑚は、一目惚れをどう思いますか?」
 ――話はそこに戻るのか。
 珊瑚は小さくため息をついた。
「否定はしないよ。でも、あたしはそういうの、ないと思う」
「恋をしたいとか思わないんですか? そういう年頃でしょう? そもそも……」
 かごめが置いていった薬箱の中を確かめ、包帯を取り出した退治屋の娘に、弥勒はじっと穏やかな視線を注いでいる。
「珊瑚には理想の男ってあるんですか?」
「……」
 何故か無性にこの男を言い負かしてやりたくなった。珊瑚はちらりと横目で法師を見遣る。
「そうだね。まず、助平じゃない人」
「はあ」
「それから、詐欺とかインチキのお祓いとかしない人」
「ほう」
「あと、女なら誰でもって人は嫌だ」
「思いっきり私を意識してますね」
 はは、と照れたような笑いを浮かべる彼に、嫌みを言ったつもりが何だかこっちが恥ずかしくなってしまった。
「つまり誠実で思いやりのある人がいいの、あたしは!」
 それも、裏を返せば弥勒に当てはまることに気づき、珊瑚は唇を噛んでうつむいてしまった。
「珊瑚。すみません、困らせるつもりでは……」
「法師さま、希望はあるってあたしに言ってくれただろう? 今はそれだけでいい。今のあたしに普通の生活なんて望めないから」
 ふっと別の自分を思い描いた。
 もし、里があんなことにならず、あたしが普通の娘だったら――
 誰かを好きになっていた?
 その人もあたしを好きだと思ってくれた?
 愛しい人と想いを通わせ、ゆっくりゆっくり恋をはぐくみ、みなに祝われて祝言をあげ、穏やかで平凡で幸せな日々を送る。
 珊瑚はふるふると首を横に振った。
「とにかく恋なんてものは、闘いが終わってからでいい。今は、そんなことにうつつを抜かしている場合じゃないんだ」
「でも、理性では抑えられないのが恋でしょう?」
「そりゃ、法師さまは仏門に入っていても見境なしだからね」
 胡散臭そうに彼を一瞥し、珊瑚はやや疑わしげな口調で付け加えた。
「ねえ。法師さまの、子を産んでくれって、あれ、全部一目惚れして言ってるの?」
「まさか。私は、一目惚れは生涯に一度です」
「ずいぶんはっきり言いきるんだね」
「根拠を知りたいですか?」
 探るように娘の無垢な瞳を覗き込んだ法師だったが、
「いえ、やめておきましょう」
 あっさりと引いた。
「おまえが、恋をするのは闘いが終わってからと言うなら、私もそれまで待ちますよ」
「別にあたしに合わせてくれなくてもいいよ。法師さまは、恋、しながら闘ったっていいじゃないか」
「ですが、恋をするには相手が必要なんですよ? 珊瑚」
「法師さまならそこらじゅうに相手を作っていそうだけど」
 悪戯っぽく笑う弥勒のこんな表情は初めて見たような気がして、珊瑚は小さく首を傾ける。
「痛みはどう? そろそろ薬草を新しいのに換えようか」
「ああ、そうだな。頼みます」
 法衣の裾をまくり、投げ出された右足のふくらはぎの包帯を、珊瑚は手際よく解いていった。
 解いた包帯を傍らの盥に入れ、傷口を確かめ、消毒し、新たな薬草をあてがって薬箱から取り出したガーゼを当てる。
 そんな娘の動作を見つめる弥勒の瞳には、不思議なやさしさが揺らいでいた。
「おまえがゆっくり進みたいと言うのなら、私も同じ速さに付き合いますよ」
「誰がゆっくりなんて言ったのさ。一刻も早く、奈落を倒すんだ」
「そうですな。そうすれば、ゆっくり恋ができる」
「法師さまって、それしかないの?」
 くつりと声に出さずに笑い、彼は、身をひねって新しい包帯に手を伸ばした珊瑚の臀部をおもむろに、ひと撫でした。
「法師さまっ!」
 憤怒の声とともに平手を食らい、真っ白な包帯が投げつけられた。
「手は無傷なんだから、自分で巻いて! あたし、これ洗ってくるから!」
 血と薬草の葉汁に汚れた包帯や手拭いを入れた盥を持ち、眉をつり上げた珊瑚は立ち上がる。
「あたしが戻るまでおとなしくしてるんだよ!」
 包帯や手拭いを川まで洗いに行くのだ。
 戸のないお堂の入り口から出ていく彼女の後ろ姿を見送りながら、ひっぱたかれた頬を撫で、弥勒は小さく口角を上げた。
「余所見をするなよ、珊瑚」
 遠ざかる娘の背に向かって法師はつぶやく。
「奈落を倒し、風穴の呪いが消えるまで……堂々と告げられる日が来るまでおれも恋など封印する。だから、おまえもそれまで、他の男に惚れたりするな」

 ――面妖な男。
 川に向かう珊瑚は、こうまで簡単にかき乱される己の心に苛立ちと戸惑いを覚えずにはいられなかった。
 どうしてあの男にはいつもいつも振り廻されてしまうのだろう。
 唐突に立ち止まり、頬に朱を昇らせ、盥を持つ手に力を込めて、珊瑚は物思いを振り払うようにぶんぶんと首を振る。
 あんな男は好みじゃない。あたしは誠実な人が好きなんだから。

 その笑顔を見てほっとするのも。
 その声を聞いて安心するのも。
 そばにいるだけで気持ちが安らぐのも。

 みんなみんな、あたしの気のせい。

〔了〕

2009.1.8.

「アンダンテ・カンタービレ」 チャイコフスキー