月の光に濡れた夜。
 現実は幻影となり、幻影は現実となる。

月の光

 古びた御堂の中に眠っていた弥勒は、ふと、眼を覚ました。
 深夜。
 周囲には仲間たちが眠っている。
 壁にもたれ、鉄砕牙を抱いて座ったまま眠る犬夜叉。身体をまるめて横になっているかごめと七宝。
 だが、退治屋の娘の姿がない。
(どこへ行った……?)
 傷みの激しい板壁の隙間から、仄かな明かりが洩れてくる。
 月の光が射し込んできているようだ。
 音を立てないように立ち上がり、弥勒はそっと外へ出た。

 月光──

 仄白い光に満ちたそこに、珊瑚はいた。
 道端の御堂から少し離れた場所に、こちらに背を向けて立っている。
 月を見上げるその背中はひどく儚げに見えた。
「みう」
 法師に気づいた雲母が、娘の肩越しに顔を出して、小さく鳴いた。
 低い声で娘が問う。
「誰?」
「私です、珊瑚。眠れないのですか?」
「うん……ちょっと外の空気を吸いたくて」
 くぐもった声で答える珊瑚は、斜めにうつむき、法師には背を向けたままだ。
 泣いていたのだろうか、と弥勒は思った。
「そろそろ中へ入りませんか? 少しでも身体を休めなければ」
 答える代わりに彼女は雲母を地面に下ろした。
「法師さまは雲母と先に寝てて? あたしはもう少しだけ、ここにいる」
「そうですか……」
 依然、背を向けたままの珊瑚を振り返り振り返り、雲母が法師のほうへやってきた。
 その小さな体躯を抱き上げて、弥勒は御堂の中に戻ろうとしたが、ふと顧みた珊瑚の後ろ姿が月の光に霞むようで、足が止まる。
 まるで、その淡い光に融けてしまいそうで。
「……」
 時間が止まったような不思議な感覚にとらわれ、弥勒が漠然と珊瑚の姿を見ていると、それに気づいた珊瑚ははっと身を固くし、彼の視線を拒むようにうつむいた。
「あ、あたし、ちょっと散歩してくる」
「珊瑚」
 弥勒は慌てて雲母を御堂の中に下ろし、錫杖を持って珊瑚を追った。
「待ちなさい、珊瑚。おなごが一人で歩いていい時刻ではない」
「あたしなら平気。ちょっと一人になりたいだけだから」
「ついていきます」
「大丈夫だって」
「一人の邪魔はしません。少し離れて歩きます」
「でも……」
 やはり、泣いていたのだ。
 顔を見られたくないのだろう。

 月の明るい夜だった。
 一本道をとぼとぼと歩む珊瑚の後ろを、一定の距離をあけて弥勒はついていく。
 月の光は仄白かった。
 世界はこんなに静かだっただろうか。
「……」
 弥勒は前方を歩く娘の背を眺め遣る。
 珊瑚との出逢いは鮮烈だった。
 出逢ったときの、あの炎のような彼女の激しさは、一瞬にして弥勒の心の奥に焼きついた。
 だが、今、目の前を歩いている珊瑚は、勝ち気で凛としたいつもの姿とは別人のような弱々しげなたたずまいだった。
 以前にもこんな彼女を見たことがある。
 退治屋の里を滅ぼされ、一人、里の者たちの墓前に座っていたときだ。
 そして、仇を討つため、自分たちの仲間に加わったときの彼女は淡々としていた。
 風穴を切られた法師を皆とともに捜し、心配してくれた顔。
 弟のために犬夜叉の愛刀を奪い、苦悩する顔。
 耐え続けてきた涙をかごめの胸で吐き出した顔。
 様々な表情を見せる彼女から目が離せない。
(らしくねえな。こんな感傷に浸るなんて)
 必要以上に他人に関わる気はない。
 だが、放っておけなかった。
 彼女のちょっとした表情の変化を、目で追いかけている自分がいる。
(ある意味、一目惚れとも言えるな)
 この娘が恋をしたらどんな顔をするのか──見てみたい。
 ふと気づくと、立ち止まった珊瑚が月を見上げていた。
 霞むような娘の美しい後ろ姿は、煌々たる月の光に濡れるようで。
 溺れるようで──
(きっと、この感傷に理由などないのだろう)
 弥勒は足早に歩を進め、珊瑚の腕を掴んだ。
「っ……!」
 驚いて振り向いた珊瑚の瞳が濡れている。
 ──月光に濡れたように。
「ほう、しさ……」
 有無を言わせず、弥勒は掴んだ珊瑚の腕を引いた。
 彼女を抱き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めて、抱きしめる。
 珊瑚の混乱が肌を通して伝わってきた。
「泣いていいですよ」
「え……」
「こうしていれば顔は見えない。明日、また闘いたいのなら、負の感情は吐き出してしまいなさい」
「……」
「誰にも言いませんから」
 放心したように、珊瑚は弥勒の胸に額を押し当て、立ちつくした。
 黙って立っていると、彼の左手が、小さな子供にするように、珊瑚の髪をやさしく撫でた。
「もっと普通に出逢っていたかったな」
「どういう意味さ?」
「奈落などと関わらず。──そういう意味ですよ」
 涙は突然あふれ出た。
「……っ」
 法衣をぎゅっと掴み、声を殺して、珊瑚は泣いた。
 ぽろぽろとあふれる涙はどんな言葉よりも雄弁だ。
 法師の胸に顔を押し当てて、ただ静かに泣きじゃくる娘を、弥勒はじっと抱きしめていた。
 晴れた夜空を雲が流れる。
 やがて、泣き疲れた珊瑚がぐったりと弥勒の胸にもたれかかってきたとき、彼ははっとした。
「珊瑚?」
 返事はない。
 彼女の額に触ってみると、ひどく熱かった。
 弥勒は小さなため息をひとつつく。
「いつから夜風に当たってたんだ」
 熱のため、意識を失った珊瑚を、弥勒は錫杖を持ったまま器用に横抱きにした。
「ゆっくり眠りなさい、珊瑚」
 そして、淡い月影の中、静かに帰途についた。

* * *

 珊瑚が重い瞼を開けたとき、陽はもう高く昇っていた。
 全身が気だるく、頭がぼんやりする。
 身体を起こそうとしたが、ひどくだるくて思うように動くことができない。
 額には冷たい手拭いが乗せられていた。
 辺りを見廻すと、彼女以外に御堂の中にいるのは法師だけだった。
「眼が覚めましたか。気分はどうです?」
 珊瑚のそばに付き添っていたらしい弥勒は、穏やかに彼女に問うた。
「……かごめちゃんたちは?」
「宿を探しに行きました。珊瑚をゆっくり休ませてやりたいと」
「あたしを?」
 怪訝そうな珊瑚に、弥勒はちょっと困ったような微笑を向ける。
「昨夜のこと、覚えてないんですか?」
「昨夜……? あたし、外で月を見てて」
「長く外にいたんでしょう。夜風に当たり過ぎて、倒れてしまったんですよ」
 弥勒は珊瑚の額に乗せてある手拭いを取り、それを盥の水に浸してしぼり直してから、また珊瑚の額に乗せた。
「まだ微熱があります。疲労がたまってたんですな」
 やや気まずそうに瞳を瞬かせ、珊瑚はおずおずと法師の顔を見た。
「……確か、法師さまが声をかけてくれたよね。法師さまが倒れたあたしを運んでくれたの?」
「たまたま眼が覚めたので」
「ごめん。迷惑かけて」
「気にすることはありません。お互い様でしょう?」
 さりげない口調だったが、どこか真摯なものを感じ、珊瑚は、昨夜、自分は法師に余計なことをしゃべったのではないかと気になった。だが、弥勒の様子はいつもと特に変わりはない。
 口を開こうとしたら、先手を取られた。
「宿が見つかれば、七宝と雲母が迎えに来てくれることになっています。まだ少し寝ていなさい」
「ありがとう」
 珊瑚は素直に瞼を閉じた。
「夢……」
「なんです?」
「夢、見てた気がする。月の夜道を、ずっとずっと歩いてた」
「おまえ一人で?」
「ううん、誰かと一緒だった。一人じゃなかったから、なんか……安心できた」
「そうか」
 珊瑚は眼を開け、弥勒を見遣った。
「夢……だったのかな」
「たぶん、夢だったのでしょう」
 気のせいだろうか。
 そのとき、法師が見せたけぶるような表情に、珊瑚の胸に、夢の中で感じた安心感がふっとよみがえった。

 月が照らす夜道を無心に歩いた。
 それは、月の光が見せた美しい幻なのかもしれない。
 けれど、弥勒の胸には、確かな現実の記憶として刻み込まれた。

〔了〕

2017.6.13.

「月の光」 ドビュッシー