飛行する雲母の上で弥勒が右手の封印を解こうとすると、珊瑚が振り向いてそれを制した。
「法師さま、風穴は駄目。あいつら、猛毒を持っている」
 不意に襲ってきた妖怪の群れと闘っているうちに、犬夜叉たちとはぐれた。
 妖怪は鳥の化生だ。
 翼を広げると優に十尺はある大きさで、尾は蛇の形状をしている。
 その蛇の尾が猛毒を持っているのだと珊瑚は言った。
 すでにあらかた片付けたが、残すところはあと一羽。
「飛来骨!」
 怪鳥の攻撃を雲母がかわした次の刹那、珊瑚が飛来骨を放った。
 金属的な叫びとともに怪鳥の身は飛来骨によって砕かれた。が、意思を持っているらしい蛇の尾が最期の反撃に出た。
 落下の際、弥勒と珊瑚に向って毒の息を吐きかけた。
 避けきれずに毒を吸い、薄れゆく意識を感じて、はっとしたときには遅かった。
「珊瑚……!」
 意識を失った珊瑚が雲母から落ちていくのが見えた。

死と乙女

 気がつくと不思議な空間にいた。
 そこは暗いのか明るいのか、大気は暖かいのか寒いのか、そんなことさえ判らない。
「ここは……」
 地に伏していた弥勒は、そろそろと身を起こし、周囲を見廻した。
 闇に閉ざされていると思った。
 だが、視界は利く。
 錫杖を支えにゆっくりと立ち上がり、己の立つ位置の前方と後方、そして左右に道らしきものが延びていることを確認した。
 その前方の道から、おぼろげにこちらへやってくる人影に気づき、弥勒は眼を凝らした。
(人間……? 妖……? いや、凄まじい霊気を感じる)
 弥勒の前に現れた正体不明の人物は、古い時代の装束の上に簡単な鎧を着けていた。
 姿かたちは人間の大男。
 厳めしい顔立ちからは何の表情も窺うことはできないが、その男から発せられる威圧感は並大抵のものではなかった。
 弥勒の前で立ち止まった男は、無表情に法師を見下ろし、ゆっくりと口を開いた。
「おまえはここがどこか知っておるのか」
「……」
「ここは六道の辻。死者の通り道のひとつだ」
「なんだって──?」
 男の言葉に愕然とした弥勒は、怪鳥を倒した際にその毒を吸い、意識を失ったことを思い出した。
「珊瑚……珊瑚はどこだ」
 大男の背後に、新たな人影がぼうっと浮かび上がる。
 恐ろしげな形相をした、やはり鎧をまとっているその者の両腕に、気を失った珊瑚が抱きかかえられている。
「では……私と珊瑚は死んだのか……?」
「正確には、まだ死すべきときではなかった」
 弥勒は改めて自らの前に立つ大男を見た。
「おまえたちはこの辻に迷い込んだのだ。私は善童子。迷ったおまえたちの魂を導くためにやってきた」
「善童子さま……?」
 それは閻魔大王の傍らに控える童子の名ではなかったか。
 それでは、珊瑚を抱えているあれはおそらく獄卒鬼──閻魔卒か。
 弥勒は素早く珊瑚の様子を確認し、再び善童子へと向き合った。
「善童子さま。私たちはもとの世界へ戻らねばなりません。その娘を返していただけますね」
 だが、善童子の返答は冷ややかなものだった。
「法師よ。六道の辻へ迷い込んだ魂は、自力で目覚めねば、そのまま死への道のりを辿る定めにある。この場で目覚めたおまえには現世への道行きを教えよう。しかし、目覚めぬあの娘の魂はこのまま閻魔の庁へと導こう」
「なんだって……?」
 それは、自分だけが生き返り、珊瑚はこのままあの世へ連れていかれるということか。
 全身の血が逆流するような激情を覚え、法師はすでに踵を返しかけていた獄卒鬼に向かって叫んだ。
「珊瑚を連れていくな!」
 依然、目覚めぬままの珊瑚のもとへ駆け出そうとした弥勒の行く手を善童子がさえぎる。
 ちっと舌打ちし、殺気が感じられるほどの眼光で法師は善童子を鋭く見据えた。
「その娘には、まだやらねばならぬことが残っている。みすみす死への道のりを許すわけにはいかん」
「おまえたちの事情など関係ない。冥府には冥府の掟がある」
「そんなふざけた掟など──
「ならば、法師。代わりにおまえの生命をもらい受けよう」
「なに……?」
「自らの死を甘受できるほど、この娘の生命はおまえにとって重いものか?」
 弥勒はたじろぎに似た感情の揺れを感じ、絶句した。
 珊瑚の代わりに自分が死ぬ──
 このまま善童子についてゆけば、自分も輪廻の輪に入ることができる。
 風穴に呑まれて無と化すより、それは理想的な死に方であるはずだった。
 珊瑚の生命が保証され、自分は来世を手に入れることができるのだ。
 骨も残さず消えてしまうことを思えば、悲しみを珊瑚に遺すことになろうとも、己の亡骸にすがって涙してほしいと願う心がある。
 しかし。
「あなたは私たちをこの辻に迷い込んだ者とおっしゃった。迷い込んだということは、来るべくして来たのではないということだ。そのような者を連れていくことは、善童子さまとて、許されるべきことではないはずです」
 何の表情も読み取れない善童子の冷たい顔を、弥勒は決然と見据えて言った。
「私は、この娘の生命も、自らの生命も、差し出すつもりはありません。配下の獄卒を使って力ずくでも連れていこうものなら、こちらも力ずくでそれを阻止するのみ」
 じゃら、と数珠玉の音がする。
 法師は右腕に巻きつけた封印の数珠に左手をかけていた。
「法師よ。仮にも御仏に仕える身が、この善童子に刃向かうか」
「私は聖人君子ではない。護るべき生命を護りたい。そう願うただの人間にすぎません」
「それほどまでに大切な娘ならば、己の生命なぞ、くれてやってもよかろう?」
「私が死せば、誰が現世でこの娘を護る……!」
 風穴を開こうとしたとき、視界の隅で善童子が薄く笑ったような気がした。
 だが、すぐにそんな善童子を護るかのように、何もなかった空間から次々と閻魔卒が現れ、珊瑚を抱えた獄卒と法師との間にどんどん距離が作られた。
 ここで珊瑚を失って後悔するよりは──
 弥勒は風穴の封印を解いた。


 ── 法師さま……! ──


 どこか遠くで自分を呼ぶ愛しい者の声を聴いたような気がして、弥勒は朦朧とする意識を無理やり覚醒させた。
 そして、すぐにはっとした。
「珊瑚……!」
 勢いよく身を起こした弥勒は、全身を走る激痛に顔をゆがめた。
「う……」
 そろと眼を開けた彼は、そこが、先ほどまでいた不可思議な空間ではなく、当たり前の河原であることに気づいた。
「珊瑚」
 すぐそばに珊瑚が倒れている。
 不安げな様子の雲母がいる。
 珊瑚の髪や装束も己の衣も濡れている。
 それらから、毒のために意識を失って川へ落下した自分たちを、雲母が岸へ引き上げてくれたのだろうと察しがついた。
「すまなかったな、雲母」
 巨大化したままの猫又の頭を撫で、弥勒はふっと息を吐いた。

 自分は本当に六道の辻などに行っていたのだろうか。
 先ほど体験したあの出来事は、夢だったのか、現実だったのか。
 今となっては判断する術はない。

 あちこちがきしむような痛みをこらえ、弥勒は意識のない珊瑚のほうへと近寄った。
 退治屋の装束の襟元をゆるめ、頸動脈を確かめた。
 彼女の心臓の音を確かめ、彼女の口許に耳を寄せて、彼女が呼吸していることを確かめて、ようやく安堵した。
 彼女は確かに生きている。

 おれの力が及ぶ限り、珊瑚、決しておまえを死なせはしない。
 おまえのためならば、この生命すら惜しくはない。
 けれど、おれがたやすく生命を捨てれば、きっと、おまえは哭くだろうから。
 おまえを悲しませることは、この身を切られるよりつらいから。
 どうあっても生き抜いてやる。

 この乙女を残しては、おれは死ねない。

〔了〕

2008.1.22.

「死と乙女」 シューベルト