恋は気まぐれ。
 あの人の心は気まぐれ。
 いつも自由に大空を翔けて。
 気がついたらどこかへ飛んでいってしまう。
 そう、まるでこの空を舞う小鳥のように──

ハバネラ 〜 恋は野の鳥 〜

 珊瑚はちょうど太陽の陽射しを遮ってくれる大樹の下に、かごめと並んで座り込んでいた。
 隣のかごめは熱心に異国の書物を開いて難しい顔をしているが、別のものを眺めている珊瑚もまた、別の意味で難しい顔を作っている。
 傍目には木陰でひと休みしているように見える二人だが、束の間の休息も、大樹の幹にもたれてのんびり刻を過ごすなどというわけにはいかないらしい。
「……ねえ、かごめちゃん」
「ん? なあに、珊瑚ちゃん」
 かごめは教科書に目を落としたまま、半ば上の空で応える。
「小鳥みたいだね」
「……え?」
 珊瑚の言っている意味が解らず、そこではじめて、かごめは珊瑚のほうへ顔を向けた。
「法師さま。いつもいつも、飽きることなくさえずって、枝から枝へと渡っていく小鳥みたい」
 かごめが珊瑚の視線の先をたどると、ここからぎりぎり視界に入る小高い丘の上、そこに今日も飽きずに村娘に囲まれた弥勒の姿がある。
 相も変わらず娘たちの手を握り、手相でも見ているのだろうか、戯れ言をささやいているらしく、時折華やいだ笑い声がここまで届くのだ。
 珊瑚は大きくため息をついた。
「弥勒さま、まぁたやってるのね」
 懲りないなあ、と、かごめは苦笑い。
「でもほら、あれは珊瑚ちゃんの気を惹きたいだけだから、いつもみたいにがつんと言ってきてやればいいのよ」
「だけどさ、考えてみると、法師さまは自由なんだよ」
「……?」
 かごめは小首を傾げてみせた。
「あたしとの約束だって奈落を倒したあとのことだし、今の法師さまが何をしていたって、それを咎める権利なんてあたしにはないってことに、気づいちゃったんだ」
「珊瑚ちゃん……」
「小鳥のさえずりならうるさいともなんとも思わないのにな。解っていても、あれ見ると苛々する。あたし、自分がこんなに心が狭い人間だなんて知らなかったよ」
 かごめは教科書をぱたんと閉じて、軽く立てた両膝を両手で抱えると、珊瑚の顔を下から覗き込むようにした。
「小鳥なら閉じ込めておきたい?」
 え? と珊瑚は軽く眼を見開いた。
 小鳥なら閉じ込めておける……?
 しかし、首を横に振る。
「無理だよ。野の鳥を飼い馴らすことができないように、法師さまから自由を奪うことなんてできない。法師さまには法師さまの生き方があるし、法師さまはああいう人だし」
 それに、そんな人を好きになっちゃったのはあたしだし、と胸の中で付け加える。
 ……なんでだろう?
 いくらあたしが呼んだって、怒鳴ろうが殴ろうが平然としていて。
 こっちが諦めかけた途端、しつこいほどちょっかいをかけてくる。
 いつも振り廻されるのはあたし。
 少しはあたしのこと気にかけてくれてるのかなって期待して振り返ると、もうあの人は別のところを見ている。
 いつも捕らわれるのはあたし。
「はぁーあ……」
 大きなため息をついて、珊瑚は両手の中に顔を埋めてしまった。
「ねえ、珊瑚ちゃん」
 そんな珊瑚をなだめるようにゆっくりとかごめは言葉を選ぶ。
「珊瑚ちゃんは雲母といつも一緒だけど、雲母は自由でしょ?」
「うん──
「雲母を縛り付けておきたいなんて思ったことある?」
「まさか」
 珊瑚は心外だといわんばかりに顔を上げて首を振る。
「だって、雲母は絶対にいなくなったりしない。必ずあたしのところへ戻ってくる」
 かごめは微笑んだ。
「弥勒さまも同じよ。いつも、帰る場所は珊瑚ちゃんのところじゃない」
 ぱちぱちとまばたきをした珊瑚はわずかに眉をひそめる。
「そうかな……雲母と法師さまは違うよ。雲母は決してあたしを置いていったりしないけど──
 法師さまは。
「……いつか、見失っちゃうんじゃないかって、不安にさせられる」
「何の秘密の相談ですか」
 不意に、憎らしいほど涼やかな声とともに、珊瑚の面前にすっと花が差し出された。
 五弁の花びらを持つ野生の薔薇。
 珊瑚の表情がたちまち曇る。
 そのまま、花とそれを持つ人物を無視して立ち上がると、珊瑚はかごめを振り向いた。
「あたし、雲母捜してくるね、かごめちゃん」
 そう言って、ふいっとその場を去ってしまう。
 手にした花の行き場所を失い、残念そうな顔をして退治屋の娘を見送る法師を、呆れた表情のかごめが頬杖をついて見上げている。
「珊瑚はどうしたんでしょうねぇ」
「その花、女の子の誰かからもらったの?」
「よくお解りで」
「そんなのあげちゃ、そりゃあ、珊瑚ちゃんだってむっとするでしょ。その花を弥勒さまにあげた人に対しても失礼よ?」
「はあ。しかし、花に罪はありませんし」
「……罪作りなのは弥勒さまでしょ」
 よいしょ、と法師は先刻まで珊瑚が座っていた場所に腰を下ろした。
「で、何が不安なんです?」
「不安って?」
「珊瑚ですよ。何を話していたんですか」
 不安の原因は自分であることを、この法師はいったいどこまで理解しているのだろうか。
 かごめは何ともいえない複雑な表情を作り、法師を眺めやる。
「弥勒さまは小鳥なんだって」
「小鳥?」
 うん、とかごめがうなずく。
「気まぐれな野の鳥みたいって。珊瑚ちゃんがそう言ってた」
 この言葉で彼は珊瑚の心情を少しは察してくれるだろうか。
 かごめは注意深く弥勒の様子を見守るが、対する法師は、ただ不思議そうな表情をその端麗な顔に浮かべただけだった。
「そうですか? 私に言わせれば、珊瑚のほうがよほど小鳥のようですがね」
「珊瑚ちゃんは弥勒さまみたいにふらふらしないわよ」
「けれどほら、今だって。捕まえようとしても、するりとすり抜けていってしまう」
 それは弥勒さまの行動に問題があるんじゃ……と口まで出かけた言葉をかごめは呑み込んだ。
 代わりに珊瑚にしたのと同じ質問を弥勒にもぶつけてみる。
「できることなら狭い籠の中に閉じ込めておきたい?」
「私がそんなことをするように見えます?」
「どうだかなあ……」
 と、かごめ。
 表に見せないだけで、弥勒さまって、ほんとはとっても嫉妬深いんじゃないの? 独占欲が強いタイプなのよね、きっと。
「弥勒さまってば、わざと珊瑚ちゃんに見せつけるようにあんなところで女の子集めちゃって」
 ちらりと窺うように弥勒の顔を見遣れば、法師のすまし顔は微動だにしていない。
「今日のあれは、単なるやきもちでしょう? 昨日の夕方、珊瑚ちゃんと宿屋の息子さんが親しげに話をしてたから」
「そうでしたっけ?」
「珊瑚ちゃんが他の男の人を好きになるはずがないって言い切ったわりには、いつもさりげなく周りを牽制してるわよね、弥勒さま?」
 かごめはここぞとばかりに親友の加勢に出るが、法師はしれっと手の中の薔薇を弄んでいる。
「自由に羽ばたいてこそ、珊瑚です。しかし、悪い虫がつかないとも限りません。珊瑚を護るためだったら、本人が籠の中にいることにすら気づかぬような大きな籠に閉じ込めますよ」
 私以外の男が、触れることができないように。
 それは最低限、必要な処置なのだから。
 やっぱりやきもちなんじゃないの、とかごめは呆れ顔でため息をつく。
「素直じゃないわね、弥勒さま」
 にやりと人の悪い笑みを浮かべると、弥勒は珊瑚の消えた方角へと眼を向けた。
「さて。それでは、珊瑚のご機嫌を取ってきますか」
 かごめに笑顔を向け、ゆったりと立ち上がった弥勒は、珊瑚が消えたほうへ向かって悠々と歩を進めるのだった。

「気まぐれな小鳥、か」
 先ほどの珊瑚の憮然たる表情を脳裏に浮かべ、花を見つめてくすりと笑みをこぼす。
 前方の川の畔に見慣れた小袖の後ろ姿が見えた。
 まだご機嫌斜めだろうか。
 どちらにしても、そんなことは気にもならないが。
「しかし、この私を本気にさせたのだから、おまえにも覚悟してもらわないと」
 そう独りごちた弥勒は、手にした薔薇を、無造作に道端に捨てた。
 そして、悪戯な笑みを浮かべながら、愛しい娘に一歩一歩近づいていく。

 ──今度こそ、逃がしはしない。

〔了〕

2007.7.22.

「ハバネラ (「カルメン組曲」より)」 ビゼー