ひらひらと白い蝶が目の前を通り過ぎていった。
「……」
雲母はじっと、その動きを赤い瞳で追う。
陽光は穏やか。
空気は清か。
風はのびやか。
辺りはやわらかな色彩に彩られている。
──春、爛漫。
春の歌
蝶のあとをついて野の花畑に足を踏み入れた雲母の眼に、緋色の衣をまとった銀の髪の少年と緑と白の衣をまとった異国の少女の姿が映った。
少女は花を摘んでいる。
「こんなにのんびりするの、久しぶりねえ」
「ああ?」
野に寝そべった少年は、うつらうつらしているらしい。
「いいよねえ、こっちは。花なんてお花屋さんで買うみたいな感覚があるから、こっちに来てから、知らない自然の花がいっぱいあることに気づいたわ」
「ふーん」
「ねえ。寝てていいから、髪だけ貸してくれない?」
「髪ぃ?」
「あんたの髪に、この花を編み込んだら綺麗なんじゃないかなーって思って」
「ばッ……! なに考えてやがる。女子供じゃあるめえし、寝てる間にそんなことされてたまるかっ」
「はいはい」
かごめは大して気分を害したふうもなく、膝の上に摘んだ花々に目を落とし、それを編んでいた。
そんな二人の様子を少し離れて見ていた猫又の尻尾を、つんつん、とつつく者がある。
「しぃっ」
振り返ってみると、仲間の仔狐であった。
「あーいう雰囲気のときは、そっと見守っててやるのが粋というもんじゃ。おらたち妖怪は、人間や半妖よりオトナじゃからな」
人差し指を立て、訳知り顔に言うどう見ても子供の妖怪を、猫又は赤い眼をぱちぱちさせて見遣る。
「花なら、あっちの木立を抜けた辺りに珍しいのが咲いておったぞ。雲母も見たいか?」
片手に薄紫の花を持っているのは、かごめに見せようと摘んできたのだろう。
みゅっ、と雲母が鳴くと、仔狐は嬉しげに顔を綻ばせた。
「よし。雲母には特別にその場所を教えてやろう」
花畑で戯れる白い蝶を横目に見ながら、雲母は小さな妖狐について木立のほうへと向かった。
至る所に心地好い木蔭を作っている、林というにはささやかな木々の群れ。
その小径を歩んでいると、前方から幼い少女がやってきた。
野の花を束ねた小さな花束を手に持っている。
可愛らしい妖怪たちとばったり出くわし、少女は驚いたように足をとめた。
「……」
「……」
雲母は少女と七宝を見比べる。
少女はともかく、七宝までもが驚いたような顔をしているのは、少女が初恋のあの子にどこか似ていたからであろうか。
「……サツキ?」
ぽつりとつぶやく仔狐を、雲母はじっと見守った。
「あんた、タヌキ?」
サツキよりやや年少と思われる少女は驚いた眼で相手の尻尾を見つめていたが、やがてにっこりと笑顔を見せた。
「可愛いね」
「おっ、おらは狐じゃ!」
威勢よく言うものの、仔狐の頬は仄かに赫い。そして手にしていた花をぐいっと少女につき出した。
「やる」
「いいの? ありがとう、狐さん。綺麗だね」
「おらは七宝じゃ。あっちにこの花がもっとたくさん咲いておるぞ。案内してやろうか?」
「うん。見たい」
少女と並んで歩きだす七宝を、雲母はそっと見送った。
こーいうときは静かに見守ってやるのがオトナの妖怪……と思ったかどうかは知らない。
その場に立ち止まり、雲母は眼を細めて木立を抜ける風を快く受けた。
春、爛漫。
恋も、爛漫。
動物も妖怪も半妖も──人間、も?
となれば、気になるのは己の最も大切なひとの想い人の動向。
主人の怒声も平手打ちの音も聞こえないから、今日はまだ平和を保っているのだろう。
大きく伸びをした雲母は、手近な木の枝に駆け登り、木々の枝から枝へと渡って、昼寝に最適な場所を探した。
陽光は穏やか。
空気は清か。
風はのびやか。
こんなに贅沢な時間は滅多に得られない。
ふと木立が切れ、眼前に大きな池が現れた。
その畔にこちらに背を向けて座っている法衣姿の男は、かの法師ではあるまいか。
紫の袈裟にあの髪形。
傍らに置かれた錫杖。
間違えるわけがない。
そして、彼は一人ではなかった。
隣に座っている娘へ何やらしきりにささやきかけ、くすくすと忍び笑いを洩らしている。
娘からは水の匂いがした。
濃い瑠璃色の地に朽葉色の小花が散った小袖をまとう娘の髪はまだ水に湿っていて、彼女はつい先刻、水浴びをしたのだろうと雲母は思った。
まだ水浴びをしたくなるような気候ではない。
水浴びをせねばならぬ何かが娘と法師との間にあったのかと考えると、非常に不愉快だった。
それにしても、この法師をこんなふうに放置して、己の主人はどこへ行ったのだろう?
大切なあの娘が泣く姿など、もう二度と見たくはないのに。
濡れた髪を弄んでいた法師の手が娘の肩を抱き、そのまま相手の肢体を己の腕の中に引き寄せようとするのを、木の枝の上から赤い瞳がじっと見ていた。
大きな眼がわずかに見開かれ、そのまますうっと細くなる。
──このっ、浮気者おぉぉっ!──
と、雲母が思ったかどうかは定かではないが、抱き込んだ娘の顔へ法師が顔を近づけようとした瞬間、
たっ!
と小さな猫又は足場にしていた枝を蹴っていた。
見事な跳躍の末、ものも言わず、華麗に法師の頭に着地を決めた。──思いきり爪を立てて。
「う゛っ……痛ってぇっ!」
ふっ、ざまーみろ。
などとは、たぶん、雲母は言わないだろうが、主人に代わって不埒な法師の浮気現場を押さえ、しかもいい雰囲気のところを邪魔して鉄槌をくだしてやったことに少し満足していた。
「きっ雲母? 何をするんですか、おまえはっ」
弥勒の頭に乗っかった雲母は、彼の抗議の声などどこ吹く風の澄まし顔で、呆気にとられてこちらを見ている瑠璃色の小袖を着た娘の顔に眼を向けた。
──あれ?
「雲母、降りなさい! なんでわざわざ私の頭の上に落ちてくるんです。それも今からってときに! おまけに爪っ! 食い込んでる!」
「やだ、雲母。法師さまにいじめられたの? その仕返し?」
「珊瑚、笑ってないで早く雲母をどけてください。冗談じゃなく痛いんです」
弥勒は雲母を降ろそうとするが、当の雲母はきょとんと退治屋の娘を見つめ、爪を立てたまま動こうとしない。
小猫を頭にのせて真剣にむくれる法師の様子に、珊瑚はくすくす笑っている。
「おいで、雲母」
手を伸ばす娘からは水の匂いがした。
「痛っ! まだ爪が」
慌てて爪を引っ込めて、雲母は珊瑚の手に自らの身を委ねた。
愛猫を腕に抱き、珊瑚はその喉元を撫でてやる。
「ほんとにどうしたんだい、雲母? 何か嫌なことでもあったか?」
やさしく尋ねるその声にのどを鳴らして応え、雲母は不思議そうな眼を珊瑚の濡れた髪や彼女のものではない小袖に向けた。
「ああ、これ」
憮然とする弥勒をちらりと見遣り、珊瑚は照れくさそうに雲母に微笑みかける。
「ちょっとね、池に落ちちゃったんだ。法師さまがすぐに宿のご主人から着替えの小袖を借りてきてくれたんだけど」
ばつが悪そうに眼と眼を見交わす二人の様子から、法師が娘にじゃれついて、逃げようとした珊瑚が足を滑らせたのだろうと雲母は推察した。
「もしかして、あたしだって判らなかった?」
雲母は大急ぎで否定を意味する声で鳴いた。
一生の不覚。
小袖が違っていようと、水で匂いが消されていようと、まさか自分が珊瑚を識別できなかったなんて、間違っても本人に知られるわけにはいかない。
「みゅ」
甘えた声を出して、主人の腕に頭をすりよせた。
「ああ、甘えたかっただけなんだね」
珊瑚は雲母を抱きしめ、頬ずりすると、その小さな体躯を己の膝の上に乗せた。
そんな珊瑚と雲母に、爪を立てられ、痛む頭を押さえる弥勒は不満そうな眼を向けている。
「……あの、珊瑚。続きは?」
「また今度ね」
もう少しで目の前にある唇を味わうことができたのに、その寸前で邪魔をされ、珊瑚の膝で丸くなった猫又と、その猫又をやさしく撫でる娘を、法師は恨めしげに眺めやる。
娘を独り占めした猫又は、満足げにのどを鳴らした。
春、爛漫。
最高の昼寝の場所は、やっぱり、ここ。
まだそう簡単には、譲ってあげない。
〔了〕
2008.5.28.