Je te veux
そろそろ陽射しが傾きかけている。
犬夜叉やかごめたちは出かけていたが、珊瑚は宿に残っていた。
昨日、道中、不意に妖怪に遭遇し、小袖姿のまま戦闘に入った。
みなと一緒であったし、たいした妖怪ではなかったため、大事に至ることはなかったが、褶の裾が少し破けてしまったのだ。
今、珊瑚はそれを繕っている。
針仕事をしている珊瑚の向かいには、横向けに寝そべった法師が、畳に肘をつき、掌に頭を乗せ、針を動かす彼女の様子を眺めていた。
不意に、その静寂が破られた。
「珊瑚」
「なに? 法師さま」
縫い物の手を止めず、下を向いたまま、珊瑚は応える。
「法師さまも繕い物があったら出しといて。ついでにやっとくから」
返事がない。
「法師さま?」
特に疑問を抱くこともなく、珊瑚は再び呼びかけてみた。
「おまえがほしい」
「ふーん」
それはあまりにも自然に発せられた言葉であったため、言葉の意味が珊瑚の脳に達するまで、数秒の時間を要した。
「……」
「……」
「……えっ?」
ぱさり。
思わず落ちた針と布。
自分の聞き違いかと思い、珊瑚は落としたものを拾うことも忘れ、ぎょっとした顔を法師に向けた。
そこには先刻と変わらず、のんびりと横向けに寝そべり、肘をついた掌で頭を支えた法師が、こちらを見ていた。
まじまじと彼を凝視する珊瑚の視線を真正面から捉え、再び弥勒は口を開く。
「おまえがほしい」
「……や、やだ、何言ってんの、法師さまってば」
いつもの軽口かと呆れて流そうとしたが、弥勒の表情には冗談を思わせるようなものは欠片もなく。
にこりともせずに、真顔でじっと珊瑚を見つめている。
珊瑚はうろたえながら言葉を探した。
「あ……たしは、もう、法師さまの……も、もの?……だと、思うけど……」
いつも弥勒が言うように、軽い調子でかわそうとしてみるも、珊瑚にそのような芸当ができるはずもなく。
「いま、ほしい」
なおも目を合わせたまま無表情に言われると、どうしてよいか解らない。
「珊瑚」
「え、と──あの……」
思考は混乱するばかりで、真摯な弥勒の瞳にからめとられたように視線を逸らせない。
全身を強張らせたまま、ぎくしゃくと落とした褶を手探りで手繰り寄せようとしたとき、
「いたっ!」
一緒に落としていた針で指を突いてしまった。
「あ……」
悠然としている法師に対し、動揺を隠せない自分があまりにも子供じみて思え、痛みを感じた指に目を落とすと、珊瑚は情けなくて泣きたくなった。
「珊瑚」
丸く血の玉が浮いてくる指をぼんやりと見つめていると、いつの間にそばに来たものか、すぐ近くで法師の声がした。
「見せてみろ」
珊瑚が顔を上げるより早く、手首が掴まれた。
「ほ、法師さま──」
左手の中指の腹に小さな赤い玉を確認すると、何の躊躇もなく、彼はその指を口に含む。
「法師さま!」
珊瑚の動揺は頂点を極め、反射的に咥えられた指を引こうとしたが、手首を固定されているため、どうすることもできはしない。
舌で血を舐め取り、指を軽く吸った法師は、細い手首を掴んだまま、今度はその掌に唇を押し当てた。
「……」
混乱を極めた珊瑚はもはや言葉もなく、早鐘を打つ鼓動を必死に抑えるのみ。
ようやく掌から唇を離した弥勒の吐息が、ひどく遠くに聞こえた。
「……大丈夫か?」
「えっ? あ、うん。……だっ、大丈夫」
明らかに上擦った声で慌てて答える珊瑚の様子に、弥勒はくすりと笑みを洩らした。
やっと、いつもの彼の笑みを見ることができた珊瑚は、ほっと息をつく。
やはり、この笑顔が一番安心する。
と、思うか思わないうちに、再び弥勒の唇が手首に落ちてきた。
「法師さまっ!」
安心した途端に仰天させられ、珊瑚の怒声が響く。
「おまえに怪我をされては困るからな」
眼だけを珊瑚へ向けた法師が、意地悪げににやりと笑った。
「今日はこのくらいで勘弁してあげます」
〔了〕
2007.6.16.