献呈

 最猛勝の毒に侵され、二日ほど、寝込んでいた。
 ようやく毒が抜けかけてきた弥勒は、誰もいない静かな午後、小屋をふらりと抜け出した。
 まだ多少ふらつきながら、川までたどり着き、その場に膝をつく。
 冷たい水に手を浸すと、そこだけ鮮明な感覚を取り戻したようで、気持ちがよかった。
「法師さま」
 不意に、凛とした声が気遣わしげに彼を呼んだ。
 娘はすぐに追いかけてくるだろうと、ある種の期待を持っていた弥勒は、振り返らずに微かに口角を上げた。
「忘れ物」
 肩の横から錫杖が差し出される。
 いかにもこれを届けるのが目的というように。
「まだ一人で出歩いちゃ駄目だろ。熱が下がったばかりなのに」
「すみません、顔を洗いたくて」
「そういうときは誰かに声をかけてからにして」
「珊瑚が、いつでも私に付き添ってくれますか?」
「当たり前だろう? かごめちゃんだって、犬夜叉だって、七宝だって。みんなそうだよ」
 弥勒は小さく微笑する。
 それは解っているが、“珊瑚が”どうするかということが重要なのだ。
「手拭いを持っていますか?」
「うん」
 冷たい川の水をすくい、弥勒はゆっくりと顔を洗った。
 早く毒を抜いて旅に戻らねばならない。
 珊瑚が差し出してくれた手拭いを広げて顔を拭う。
 大きく吐息を洩らし、その場に腰を下ろすと、少し心配げに珊瑚も彼の隣に座った。
「まだあまり顔色がよくないね」
「そうですか? 気分はだいぶよくなったんですが」
「もっと自分の身体を労わってよ。犬夜叉と同じだけの無理がきくわけじゃないんだしさ」
「ああ。解っている」
 まだ今生に未練がある。
 風穴が限界を迎えるまで、珊瑚を護り続けるために。
 ふと、視線を感じて弥勒が傍らの娘を見遣ると、こちらを盗み見ていた娘と視線が合い、その視線を捉えると、娘は恥ずかしそうに目を逸らした。
 可憐な娘だ、と弥勒は思う。
 愛しいという気持ちが自然に湧き起こる。
 華奢な肢体をこの腕に閉じ込め、無垢な視線に視線を絡めて、桜色の唇を思うままに求めることができたなら。
 そうできればどんなに──
 弥勒は数珠に守られた右の掌を握りしめた。
「法師さま?」
 まだだ。
 今はまだ、珊瑚に何も悟られてはいけない。
 弥勒はおもむろに立ち上がり、近くに咲いていた可憐な白い花を摘み取った。
「心配してくれたお礼です」
 身をかがめ、恭しく珊瑚に差し出す。
 娘は仄かに頬を染め、まぶしげに法師をちらと見上げてから、花を受け取った。
「ありがとう」
 この娘は男から花を贈られた経験などあるのだろうか。
 そんなことを考えてしまい、嫉妬がちくりと胸を刺す。
「……あの、なんていう花?」
 嬉しさを紛らわせるように問う珊瑚の言葉に、弥勒はふっと微笑んだ。
「名前はありません」
 そっけないともとれるほど簡単に答えた弥勒を、珊瑚は意外そうに見つめていたが、やがて、唐突に法師を睨んだ。
「法師さま、もしかして、だれかれ構わずいつもこんなことしているんじゃ……」
「なんでそうなるんですか」
 苦笑いで弥勒は誤魔化す。
 これは珊瑚への“愛”で、女の気を引くための気まぐれな道具ではない。
 珊瑚への想いに花の名などいらない。
(だが、愛だと言うわけにもいくまい)
「そろそろ、戻りましょうか」
「うん」
 錫杖を持って立ち上がる弥勒に合わせて、珊瑚も腰を上げた。
 借りた手拭いは忘れたふりをして、何気ない仕草で弥勒は自分の懐にしまう。
 気づいているのかいないのか、珊瑚は何も言わなかった。

 たったひとつだけ、望むことがある。
 死ぬ前に、ただ一度の口づけをおまえが与えてくれるなら。そうしたら、この闘いで、たとえ生命を落としても悔いはない。
 身も心も魂も、全てをおまえに捧げよう。

〔了〕

2011.4.8.

「献呈」 シューマン