小舟にて
そろそろ午の刻だろう。
暦の上では秋とはいえ、まだまだ暑い日が続く。陽射しは容赦なく照りつける。
「雲母がいないと、存外大変だね」
「まあ、このところ、二人だと移動は雲母に頼ることが多かったですからな」
弥勒と珊瑚は、楓の村へ帰る途中だった。
かごめが実家に用があるというので、犬夜叉たち一行が楓の村へ戻ったのが三日前。その翌日、珊瑚に妖怪退治の依頼が舞い込んだ。
犬夜叉はかごめを追って留守だったし、弥勒は珊瑚についていくと言って聞かない。残される七宝がつまらなげだったので、珊瑚は雲母を幼い妖狐の遊び相手に置いてきたのだ。
幸い、妖怪の被害を受けているという村は、徒歩でも半日ほどの距離だった。
二人は昨日の朝早くに出発し、村を荒らしていた化けイタチを退治すると、その日は村に泊まり、今朝方、帰路についた。
しかし、暑い。
川沿いの細い道を歩いていた二人は、天頂に差しかかる太陽に眼を細め、道端に四方に枝を伸ばした大樹を見つけると、ほっとしたように顔を見合わせた。
「あそこでひと休みしましょう」
その樹の木陰に、弥勒と珊瑚は腰を下ろした。
珊瑚は村人が持たせてくれた笹折りを取り出し、包みを開く。
中には菜飯のおにぎりが四つ並んでいた。
「はい、法師さま」
「ああ、すまん」
珊瑚の差し出すおにぎりを笑顔で受け取る弥勒。
二人はその場で簡単な食事をとった。
食べ終わり、竹筒の水をこくこくと美味しそうに飲む、そんな自分の白い喉元をぼんやりと弥勒が眺めていることに気づいた珊瑚は、法師に竹筒を差し出した。
「あ、ごめん、あたしばかり飲んじゃって」
「いえ、美味しそうに飲むおまえに、つい、見惚れてしまって」
珊瑚は呆れたようにため息をついた。
「この暑さでぼうっとしてただけだろう? まだ充分冷たいよ」
だが、法師は竹筒を受け取ったものの、じぃっと珊瑚の口許を見つめている。
「そんな物欲しげな顔しなくても、まだ半分以上残ってるよ」
怪訝な表情で竹筒を指差す珊瑚の顔に弥勒はすいと手を伸ばした。
「いえ、水に濡れたおまえの唇が美味しそうだなと」
臆面もなく言ってのけ、伸ばした指先で珊瑚の唇を拭う。
ただでさえ暑いというのに、さらに汗が噴き出るようなことを、何故わざわざこの男は言わずにはいられないのだろう。
「その唇から飲ませてくれれば、さぞかし……」
「なっ、なに馬鹿なこと言ってんだ!」
真っ赤な顔をした娘のほうへ法師が身を乗り出した直後、どこまでも青い空に乾いた音がこだました。
この暑さ。
少しでも涼をとろうと、二人は川岸を歩く。
ふと見ると、船小屋らしい簡素な小屋の前で、一人の男が古びた高瀬舟を解体しようとしているのが目に入った。
「すみません。その舟は、もう使われないのですか?」
法師が声をかけると、振り向いた男は気さくに言葉を返す。
「ああ。新しいのを造ったのでね。処分しようと思っている」
「もしよろしければ、譲ってもらうわけにはいきませんか?」
男は、人のよさそうな法師と何やら大きな得物を背負った娘を見比べていたが、すぐに笑顔になってうなずいた。
「どうせ処分するものだ。おまえさん方にあげよう。この道を進むなら、川を下っていきなされ」
地上を歩くより、途中まで涼しげな川を下ったほうが早いし、楽だ。
男に丁寧に礼を言い、法師と退治屋は高瀬舟に乗り込んだ。
緩やかに小舟が川面を滑り出し、二人はほうっと息をついた。
「やれやれ。これで、しばらく休めますね」
「さっき休んだばかりじゃないか」
「おまえだって、この暑い中、飛来骨を担いで歩くより舟のほうがいいでしょう?」
「そりゃそうだけどさ」
珊瑚は飛来骨を背中から下ろし、棹を手にして川の流れを探っている。
「流れは緩やかで一定だし、このまま流れていけば、棹は使わなくても大丈夫なんじゃない?」
「では、舟は河伯の手に委ねましょうか」
棹を舟の上に渡し、珊瑚は弥勒と向かい合うように腰を下ろした。
ゆらゆら
ゆらゆら
水面で陽光がきらきらと乱反射してる
「あ、川風が気持ちいい」
舟の縁から腕を伸ばして川の水に手を浸していた珊瑚は、顔に風を感じて眼を瞑り、やや顎を上げた。頬や額で受ける風が心地好い。
そんな珊瑚の様子を、弥勒は愛しげに眼を細めて見つめている。
ふとその視線に気づき、子供のような己の所作を思って珊瑚は恥ずかしそうにうつむいた。
ちらりと横目で法師を窺う。
「ほ、法師さまはさ、どんなに暑くても法衣をまとっていなきゃならなくて、大変だね」
取って付けたように会話を始める珊瑚を微笑ましく眺め、弥勒は、
「おまえこそ、その髪は蒸すでしょう」
と、簡単に答えた。
そして、不意に何かを思いついたような悪戯っぽい表情になると、立ち上がり、狭い舟の中を器用に珊瑚の背後に廻り込む。
「珊瑚、じっとして」
「え、なに?」
弥勒は珊瑚の元結いをするりと解いて、その豊かな髪から熱を逃がし、風になびく緑髪を捉えて手櫛で梳いた。当然、珊瑚は驚いて振り返る。
「やだ、やめてよ、法師さま」
「いずれ夫婦になる仲なのだから、照れることはないだろう」
「嫌だって。ほんと、恥ずかしいんだから」
「大丈夫。誰も見てません」
弥勒は強引に珊瑚を前へ向かせると、何やら髪をいじり始めた。
「何してるの……?」
「髪を編んでいるんですよ。以前、かごめさまがやっているのを見て、覚えたんです。少しは涼しくなるでしょう」
彼は珊瑚の髪をひとつに束ね、三つ編みに編み出した。
「……あの。かごめちゃんにも、やってあげたりしてたの?」
いささか低めの声で尋ねる珊瑚の言わんとしていることは、弥勒にもすぐ解った。
かごめの名を借りて、他の娘たちにもこんなことをしているのかと問うているのだ。
悪戯っ気を起こした弥勒は、わざと息がかかるほど近く珊瑚の耳元に唇を寄せ、ぞくりとするような甘い声でささやきかける。
「──いいえ? おまえだけですよ」
びくりと身を震わせ、そのまま珊瑚は固まってしまった。
ゆらゆら
ゆらゆら
水中を泳ぐ川魚の鱗に陽光がきらきらと乱反射してる
「はい、できました」
法師の手に髪を預け、どこか甘酸っぱいような沈黙に浸っていた珊瑚は、はっと我に返った。
手をうなじにやって、髪に触れてみる。
「ほんとだ。編まれてる」
綺麗に編まれた髪は、垂髪にしているより、確かに涼しい。
そろ、と後ろを振り向くと、満面の笑みを湛えた弥勒と目が合った。
「可愛いですよ」
「……あ、ありがとう」
ぱっと前へ向き直り、珊瑚は恥ずかしげにつぶやいた。
心臓がどきどきとうるさい。
「さて。到着までもう少しだな」
まだ胸の高鳴りが治まらない珊瑚を無造作に抱き寄せると、弥勒は、飛来骨にもたれかかるようにして舟の中に身を横たえた。
「えっ、ちょっ……法師さま!」
治まるどころかますます激しくなる鼓動を抑え、珊瑚が抗議の声を上げても、弥勒は面倒そうに彼女を抱きなおすだけだった。
「少しくらい、うとうとしたって構わんだろう」
「暑いっ。離れて」
「我慢しなさい」
「髪っ! 髪、くずれちゃう」
「気にするな」
「もうっ……!」
起き上がろうと身をよじってみたが、眼を閉じた弥勒の穏やかな顔を見ていると、まともに怒るのも馬鹿らしくなってきた。
弥勒の腕の中で、そっと珊瑚も眼を閉じた。
ゆらゆら
ゆらゆら
瞼の裏で陽光がきらきらと乱反射してる
「ちょっ……! ちょっと、法師さま! 起きて!」
「んー? 珊瑚──どうした?」
まだ微睡みから覚めきらぬ法師は、無意識に珊瑚を抱き寄せようと腕を伸ばした。珊瑚はそんな弥勒の手をぴしゃりとはたき、
「起きてってば! 川、下りすぎちゃったよ。早く岸に着けて、歩いて戻らなきゃ」
「ええっ?」
驚いてがばと身を起こした弥勒が空を仰ぐと、陽はかなり傾いていた。
「随分、うとうとしてしまったようですな」
「結局、遠回りになっちゃったね」
苦笑する珊瑚を引き寄せると、法師はその頭の天辺に軽く唇を当てた。
「まあ、いいではないですか。おまえと二人、このようにゆっくり過ごせる時間が持てたのだし」
棹を操り、舟を川岸へ着けた珊瑚が降りようとするところを呼び止め、乱れてしまった彼女の髪を編み直してやる。
「おまえと二人きりで旅をするとしたら、毎日がこんな感じなのだろうな」
「雲母を忘れないでよ」
「はいはい」
奈落を倒して自由になれたら。
それはきっと、そう遠くない未来の話。
〔了〕
2007.8.23.