木枯らし
その日、木枯らしが吹いた。
冷たい風に、一気に冬の気配が濃くなった気がした。
風音に耳を澄ませ、閑散とした藪の中を進んでいた弥勒は、足首に違和感を感じ、次いで針で刺すような痛みを覚えた。
「つっ……」
「どうしたの、法師さま」
法師の声に、先を歩いていた珊瑚が足をとめて振り返る。
「いや。蔓が足に絡みついただけだ。棘があったらしい」
「棘?」
退治屋の装束をまとう珊瑚はそのような植物に気づかなかった。
彼女は弥勒の足許を見遣り、そして、はっとした。
「法師さま、動かないで」
そう言って、飛来骨を置き、珊瑚は鮮やかな手さばきで腰の刀を一閃させた。
次の瞬間には棘を持った蔓が、弥勒の足許の地面に残骸となって散らばる。蔓は瞬く間に蜥蜴のような姿に変化し、痙攣して、息絶えた。
「珊瑚、これは」
「植物に擬態した妖怪だよ。毒を持っている。早く手当てをしたほうがいい」
「手当てといっても……」
犬夜叉たちとは別行動をしている。薬箱を持ったかごめもそちらだ。
「この毒を中和させる薬なら、あたしが持ってる。手当てできる場所を探そう」
冷静に言った珊瑚だが、ふと不安がよぎった。
一刻も早く薬を飲ませなければならないが、それは水に溶いて飲む粉薬だ。水が必要だった。
それに、あまり動き廻っては毒がまわる。
早く彼を休ませられる場所を探さなければと、珊瑚は焦った。
古い御堂を見つけた。
きしむ木の床に弥勒を座らせ、珊瑚は彼が妖怪に噛まれた場所を確かめた。
血の滲む足首に躊躇いなく口をつけ、毒を吸い出す。
「すまない、珊瑚。おまえにこのようなことをさせて」
「なに言ってるのさ。こんなの、お互い様だろう?」
決然とした珊瑚の言葉に、法師は困ったように微笑んだ。
「毒がまわったらどうなる?」
ふと見遣ると、弥勒の顔が少し蒼ざめているように見える。珊瑚は心配げに眉をひそめた。
「寒いの?」
「急に身体が冷えてきた。毒のせいか?」
珊瑚はふと口ごもり、だが、すぐに言葉を続けた。
「徐々に体温が奪われて、……悪夢を見ることもある」
悪夢という言い方は正確ではない。
体温が奪われ、身体が冷たくなり、幻覚に襲われる毒だ。
珊瑚は口許を拭って立ち上がった。
「待ってて、薬を飲むための水をすぐに汲んでくる。雲母、法師さまをお願い」
珊瑚の言葉に呼応し、すぐさま変化した雲母が、あたたかな被毛で震える法師を包んだ。
法師が見る幻覚は風穴の幻影だろうと珊瑚は思う。
冷たい木枯らしに心を切り裂かれるような、そんな思いをあの人にさせたくはない。
見なくてもいい幻影など、見せたくなかった。
道端のお地蔵様に供えられた盃を拝借し、湧き水を見つけた珊瑚は、急ぎ、それを汲んで弥勒のもとへと引き返した。
御堂の扉を開けると、法師はぐったりと雲母にもたれかかり、眼を閉じている。
「法師さま」
苦しげな呼吸。
うなされているようだ。
思ったより毒のまわりが速く、珊瑚は愕然とする。
「法師さま、寒い? あたしが解る?」
「さん……ご……」
弥勒の手が弱々しく珊瑚を求めた。
「水、汲んできたから。薬を飲めば、楽になるよ」
薬を取り出して、珊瑚は弥勒に飲ませようとしたが、弥勒の意識は朦朧としている。
「法師さま」
珊瑚は薬と水をそこに置いて、弥勒を抱き起こそうとした。
と、伸ばした手をいきなり鷲掴みにされ、心臓がとまるほど驚いた。
弥勒の意識の中に吹き荒れているであろう風の音に耳を澄ませ、じっと彼の顔を見つめると、掠れたつぶやきが洩れ聞こえた。
「珊瑚……」
幻を見ているのだろうか。
「珊瑚、行くな」
薄く眼を開けてはいるが、弥勒の瞳は珊瑚を映してはいないようだ。
「……おれを置いて、行かないでくれ。独りに……しないでくれ」
「法師さま」
珊瑚は息を呑み、差し伸べられた手を強く握った。
彼女のためならいつでも身を引こうとする弥勒の、これが本音なのか。
けれど、どんなに強く約束したって、どんなにともに在りたいと自分や弥勒が願ったって、現実は簡単に自分たちを分かつことができるのだと、珊瑚はやるせなく考えた。
風穴然り。
体温を奪うこの毒も、摂取量が多ければ生命に係わるものだ。
「大丈夫だよ。あたしは法師さまのそばから離れたりしない」
この状態では弥勒は一人で薬を飲めまい。
珊瑚は意を決して、盃の水に溶いた薬を自らの口に含んだ。
雲母に身を預けている弥勒の頭を抱き寄せ、彼の唇を彼女はじっと見つめた。
大罪を犯している気持ちになる。
こんな形で──彼の唇を盗むことになるなんて。
(……)
珊瑚は己を叱咤するように首を横に振った。
これは薬を飲ませる行為であって、口づけではない。
弥勒を風穴の幻覚に苦しませてはならない。
珊瑚は心の中で深呼吸し、落ち着けと自分に言い聞かせた。
「珊……珊瑚──」
己を呼ぶ彼の声に応えるように、珊瑚は法師の唇に自らの唇を押しつけた。
顔から火が出そうだった。
けれど、そんなことは意識の外へと追いやって、口移しで薬を飲ませることに集中する。
彼がむせないように、少しずつ、少しずつ液体を彼の口中へと移し込む。
それを彼が全て飲み込んだのを確認してから、濡れた唇をゆっくりと離した。
「……」
一気に力が抜けた。
心臓が無茶苦茶な音を立てている。
慄く指先で、痕跡を消そうとするかのように、珊瑚は弥勒の唇を拭い、そして、こわごわ自分の唇に触れた。
だが、これでもう安心だ。
小さく咳き込む弥勒の頭を抱き、大丈夫だよ、と珊瑚はつぶやいた。
彼はまだわずかに震えている。
「寒いんだね」
呼吸も荒いが、まもなく薬が効いてくるだろう。
呼吸を楽にしてあげることはできないけれど、少しでも弥勒が寒くないようにと、珊瑚は彼の身体に覆いかぶさるように抱きつき、ぎゅっとその身を抱きしめた。
そして、彼の耳元で、幽かな声で歌うように、大丈夫、大丈夫だよ、とささやき続ける。
どんな幻覚にうなされようと、そこに必ずあたしもいるから。
彼の右手に、指を絡めた。
どれくらいそうしていただろう。
毒が見せる幻影にうなされる弥勒を、珊瑚はただ夢中で抱きしめていた。
突然、ふと何かが髪に触れた。
顔を上げると、力なく雲母に寄りかかったまま、弥勒の瞳がこちらを見ていた。彼の指が躊躇いがちに彼女の髪を撫でている。
「法師さま」
苦しげだった呼吸も落ち着き、震えも治まっているようだ。
珊瑚はとっさに眼を逸らした。
彼の唇がまともに見られなかった。
「私は意識を失っていたのか……?」
あやふやなその声音に、珊瑚は弥勒を安心させなければと気を引きしめて、彼を見た。
「ずっと私についていてくれたのだな、珊瑚」
「うん。でも、もう大丈夫。毒を中和する薬を飲んだから」
弥勒の手が、もたれている雲母の背を撫でた。ありがとうと、礼の意味を込めてのことだろう。雲母の二つの尻尾がゆらゆらと揺れた。
「……悪夢を見るとおまえは言っていたが」
「うん。うなされていたよ」
「だが、私はいい夢を見ていたような気がする」
「え?」
珊瑚は軽く眼を見張った。
「どんな?」
「おまえが、私に……」
弥勒は不安そうな珊瑚の顔を覗き込み、彼女の唇の辺りを見つめていたが、やがて、悪戯っぽく笑って言った。
「ま、そんなことがあるはずないが」
「なあに?」
「いや。それにしても、ずいぶん無防備な体勢ですな」
珊瑚ははっとなった。
雲母に背を預ける法師に抱きついたままの格好だ。
「これはっ! 体温が奪われていく、そういう毒だから、あたしは法師さまを温めようと──」
慌てて法師の身体の上から飛び退こうとした珊瑚の動きをやわらかく制し、弥勒は春風のようにふわりと微笑んだ。
「右手がとても温かかった」
「あ……」
弥勒に引き寄せられるままに、珊瑚は彼に身を寄せる。
──ずっと右手を握っていたことに、気づいてくれた。
「ありがとう、珊瑚」
「ううん」
彼の顔を見ていられなくて、娘は法衣の肩の辺りに、熱を持った頬を埋めた。
その背に、弥勒の手が添えられる。
「珊瑚」
「ん?」
「まだ少し、寒いのだが」
抱擁を求める法師の腕の中に、珊瑚は、彼が意外に思うほど素直に身を任せた。
「……少しだけなら」
ただ、顔を見ることは恥ずかしくてできない。
冷たい風は、依然、法師の掌にある。
だが、その手を、身体を包み込んでくれる娘の体温は、どこまでもやさしく、温かだった。
〔了〕
2011.2.9.