恋とはどんなものかしら

 自分はよほど暇なのだろうか。
 疑問を抱いた途端、不安になり、肩に乗った猫又に問うように視線を向けてみるが、そんなこと、雲母にだって判りはしない。

 かごめは宿を頼んだ家で勉強中。
 犬夜叉は別にすることもないようで、休息中。
 七宝はさっきまで自分と一緒にここにいたが、さすがに飽きてしまって、村の中を散策しに行った。
(あたしも、少しは身体を休めておかないと)
 こんなことをしていても不毛だと解ってはいるが、どうしてもここを動けなかった。

 仕方なく、珊瑚は肩の雲母を腕に抱き、もたれて立っていた木の根元に腰を下ろす。
 彼女の視線の先には、村の共同井戸で洗濯をする娘を相手に楽しそうな法師がいた。
 四魂のかけらを探す旅の途中、すっかり恒例になっている、法師の、訪れた村の娘たちとの交流。最初は物珍しくて、呆れて眺めていたその光景も、最早見慣れたものとなった。
 法師が女を口説く光景など、そろそろ飽きてもよさそうなものだったが、何故か珊瑚は彼から目が離せない。
 そして、そんなときは決まって胸がざわざわする。
「なんであたしが苛々しなきゃなんないの」
 膝の上の雲母を機械的に撫でる手つきがだんだん乱暴になってきて、遠慮がちに雲母が小さく非難の声を上げたが、あまり効果はなかった。
 珊瑚の視線が雲母に落ちる。
「ねえ、雲母」
 どこか拗ねたような、どこか甘さを感じさせる声で、彼女は言う。
「法師さまって、人を苛々させる天才だよね」
 でも、昨日、散歩に誘われたとき、信じられないくらい嬉しかった。
 あんなにやさしい気持ちで過ごせたのは久しぶりだ。
「法師として、褒められたものじゃないことばっかりしてるし」
 でも、この前、妖怪からかばわれて抱きしめられたとき、胸の動悸がとまらなかった。
 自分の身を犠牲にして、いつも仲間のことを気にかけている、そんな人だ。
「女と見れば声をかけてさ」
 誰よりも彼女を狙って、習慣のように尻に手を伸ばしてくる。
 でも、それは色めいた戯れ事ではなく、からかうには都合のいい相手というだけ。
「……」
 珊瑚は座っている場所をずらし、法師が目に入らないように木の後ろ側へ移動した。
「ねえ、雲母。あたしは別に法師さまのことを嫌ってるわけじゃないんだ。ただ、何ていうか」

 ――気になってしょうがない……

 珊瑚ははっとした。
「今のなし! 聞かなかったことにして!」
 声に出していないので、無論、雲母は聞いていない。
 が、同時に膝の上の小猫に添えられた両手に力が入り、首を絞められそうになって雲母は怯む。両手で押さえられているため逃げ場がない。
 有無を言わせず雲母を抱き上げ、珊瑚はぎゅっと胸に抱きしめた。
「み゛ぅ……」
 雲母が変な声で呻く。

 気になるなんて、そんなの嘘だ。
 絶対違う。
 何故かなんて解らないけど。何より悔しい。

 大きく深呼吸をし、珊瑚は雲母を自分の顔の前まで持ち上げて、赤い眼と視線を合わせた。
「やっぱり、ほら。仲間内の和を乱すのってよくないだろ? うん。そういうことなんだ」

 ……あたし以外、誰も気にしていないようだけど。

「でも、あんなにいい加減なのってどうかと思うし。何かあってからじゃ遅いじゃないか。そう思わない? 雲母」
 何があるのか、そこまでは説明できない。
 返事をよこさない猫又と睨めっこしていると、不意に澄んだ金属音が響き、涼やかな声が珊瑚の名を呼んだ。
「こちら側にいたのか、珊瑚。姿が見えないので、もう帰ったのかと思いました」
「法師さま!」
 彼は別に気配を消していないはずだが、こんなに近くに来られても気がつかなかったことに、珊瑚は驚きを禁じえなかった。
 けれど、この驚きを悟られるのは癪だ。
「どこにいようとあたしの勝手だろ?」
 突っ慳貪に言葉を返すと、弥勒は、別段気を悪くしたふうもなく、穏やかに微笑んだ。
「まあ、そうですが、おまえがいないとつまりませんので」
「……どういう意味?」
「言葉通りの意味ですが」
 二人の間にしばし沈黙が降りた。
 座ったまま、珊瑚は上目遣いで彼を探るように見つめている。弥勒は珊瑚が立ち上がるのを待っているようだったが、彼女がそのままうつむいてしまったのを見て、
「帰らないんですか?」
 とさりげなく尋ねた。
 珊瑚は反射的に身を固くする。
 今、立ち上がったら、まるで、ここで法師を待っていたみたいではないか。
「あたしは雲母ともう少しここにいる」
「では、私ももう少しここにいましょう」
 気軽に言って、法師は珊瑚の隣に腰を下ろした。
 突然、近くなった彼との距離に、珊瑚の心臓が大きく跳ねた。だが、そんな珊瑚の動揺には気づかぬふうに、弥勒は彼女が抱く猫又に視線をやった。
「なんか雲母がぐったりしていますが」
「えっ? あ、あれっ、雲母? どうしたんだろう」
 動転した珊瑚が雲母を地面に下ろすと、猫又はふらふらと数歩歩き、草の上に倒れるように横になった。しばらく雲母の様子を見つめていた法師と珊瑚は、互いに互いを、窺うようにちらと見遣る。
「今日の日課は終わったの?」
「はは、日課ですか。終わったというより、ある意味、これからですな」
 その意味が解らず、珊瑚は少し口をつぐんだ。
「また、誰か井戸に来るのを待ってるんだ」
 法師が自分に声をかけたのはその繋ぎの時間の暇つぶし程度のことなのだと思うと、面白くなかった。
「……恋、楽しい?」
 こぼれ落ちた珊瑚の言葉を聞き、弥勒は問うようにまばたきをした。
「珊瑚には――私の、その、“日課”が恋に見えるんですか?」
「あ、違うんだ……?」
 少しほっとしたように珊瑚が応える。だが、すぐに頬の熱さを誤魔化すように彼から眼を逸らし、
「あたし、経験ないから判んないや」
 とつぶやいた。
 弥勒は複雑な表情で彼女を眺めた。
「珊瑚、それでは私の立場がないのですが」
「法師さまは別に関係ないよ」
「私はおまえの何なんですか」
「仲間だろ?」
「……まあ、そうですが」
 法師はそっとため息を洩らす。
 本気でそれだけだと思っているのだろうか?
 珊瑚の気持ちなど、法師にはお見通しで、そんな鈍感な彼女を可愛いと思う反面、ときにはもっと強く自分のことを意識してほしいと願ってしまう。
「では、私と、っていうのはどうです? 恋の相手。試してみませんか」
 法師の意図を量りかね、珊瑚は胡乱な視線をちらりと彼に向けた。
「あの、言いにくいんだけどさ。女の数だけふらふらしている男を、本気で相手にする女はいないんじゃない?」
 恋敵になりえる不特定多数の女に焼きもちを妬いてというより、本当にそう考えているらしい珊瑚の口調に、法師は悄然と肩を落とす。
 解ってくれない愛しい娘に思い知らせてやりたくて。
「珊瑚」
「何?」
 こちらを向いた珊瑚に身体ごと腕を伸ばした。
「えっ? ……えっ、あの、法師さま、何?」
 慌てふためいたような声に満足して、弥勒はそのまま珊瑚の身を覆うように身体を乗り出した。
「肩に草が」
 彼女の左側から右の肩に弥勒は左手を伸ばし、尤もらしくはたいてみせた。
「あ、髪にも草が」
 ほんのわずかでも彼から身を離そうと、べたっと木の幹に背を押しつけて固まっている珊瑚を悠然と見下ろし、わざとらしく、髪にも手を伸ばす。

 簡単に唇を奪うことのできる距離だ。
 均衡を崩したふりをして抱きしめてしまってもいい。
 相手が珊瑚でなければ――戯れの相手であれば、たぶん、そうしている。

「もう離れてよ。冗談はやめて」
「冗談じゃなければいいのですか?」
「いいわけないだろっ」
 そのとき、弥勒の後方、珊瑚の視線の先を横切る人影があった。
 つい先程まで、弥勒が井戸端で戯れていた娘だ。
(なんで? あの人が帰ったから、法師さま、あたしのところへ来たんじゃないの……?)
 今から家へ帰るらしい娘は、洗濯物を入れた盥をかかえ、歩きながらちらちらと名残惜しそうに弥勒に視線を注いでいる。
「……」
「どこを見ているんですか。本当にいただいてしまいますよ?」
「え、いただくって何を……」
 弥勒はさらに珊瑚を追いつめようと、頬を撫でるために指を伸ば――

 ぽかっ!

「てっ! 何だ?」
 したところを、突然、細長い棒のようなもので後頭部をたたかれ、頭を押さえて振り返る。
「大丈夫か、珊瑚! 助けに来たぞっ」
「七宝」
 置いたままだった錫杖でその持ち主を殴った七宝が、勇ましく仁王立ちをしていた。

* * *

「だから、誤解です」
「何が誤解じゃ! おらが駆けつけなければ、珊瑚がどうなっていたか!」
「誤解ですってば。ねえ、珊瑚」
「えっと……そうなのかな」
 頬の熱さに戸惑う珊瑚はあやふやにつぶやいて、雲母を抱き上げようと手を伸ばした。
 誤解と言えるだろうか? だが、草を払ってあげただけだと言われれば、そうかもしれないと思う。
「みゃう」
 と、次の刹那、雲母が娘の手をすり抜け、法師のほうへ逃げたので、珊瑚に弥勒、そして七宝までもがきょとんとなった。
 愛らしい猫又は弥勒の肩に駆け上がり、そこで甘えるように喉を鳴らした。
「……なんか知らんが、おらの勘違いのようじゃのう」
 どうして雲母の態度で七宝が納得したのか、それは弥勒にも珊瑚にもよく解らなかったが、そろそろ陽も傾いてきた。三人は宿を借りた家に戻ることにした。
 まだ心なしかそわそわしている珊瑚の隣を、七宝と雲母を肩にのせた弥勒が歩く。
 錫杖を鳴らしてゆっくり進めば、ふと七宝が彼の耳に小さな口を寄せて、ささやいた。
「夕陽のせいかのう。なんだか珊瑚の顔が妙にまぶしいと思わんか?」
 弥勒は意味ありげに微笑した。
「私のせいですよ」
 七宝には聞こえないように、口の中でつぶやく。
「恋をした娘は綺麗になるんです」
「ん? 何て言ったんじゃ、弥勒?」
 もちろん、彼にとって想いを寄せられたのはこれが初めてではない。けれど、これほど胸が躍る恋の相手は初めてだった。

 彼女は私に恋をしている。

 視線を感じたのか、ふと珊瑚が振り向いた。
 彼女の視線を受け、弥勒は満面の笑みを浮かべてみせる。
 はっとなった珊瑚は、微かに頬を染め、再び前を向いた。

 ――私もおまえに、恋をしているんですよ。

〔了〕

2010.9.23.

「恋とはどんなものかしら (「フィガロの結婚」より)」 モーツァルト