菩提樹
夏の陽射しがまぶしい。
この日、夢心の使いで、別の寺へおもむく弥勒に、珊瑚も一緒についてきた。
二人は祝言をあげて間もない。
一時でも弥勒と離れていたくないというのが、珊瑚がついてきた理由であり、夫婦になって初めての遠出である。
「暑くないですか? 飛来骨は置いてくればよかったのに」
「うん。でも、手許にないと、なんか落ち着かなくて」
雲母は琥珀のもとにいるので同行していないが、珊瑚は皆と旅をしていた頃と同じ格好で、手甲と脚絆をつけ、飛来骨を背負っている。
「寺はあの山の上です」
山のふもとにはこぢんまりとした森があり、二人はその森に入った。
森の中はだいぶ涼しい。
「少し、寄り道していきましょう」
「寄り道?」
「ああ。珊瑚に見せたいものがある」
弥勒は、夢心について修行していた幼い頃、その寺には何度も使いに出されたことがあるらしく、この辺りは馴染み深い土地らしい。
山寺へと続く道を逸れて、木々の間をどんどん進む弥勒に、珊瑚もついていった。
「ほら、ここですよ」
「わあ……」
大きな池の畔に出て、珊瑚は眼を見張った。
池には、葉を白く美しく染め、花をつけた半夏生が、今を盛りに群生している。瑞々しい緑と白のコントラストが美しい。
思わず飛来骨を肩からおろした珊瑚は嬉しそうに池に近づいた。
「きれい。法師さまがあたしに見せたかったものって、これ?」
「……いえ、こっちです」
「え?」
珊瑚が振り返ると、法師の錫杖が、池の畔に葉を茂らせる大樹を指し示していた。
「木?」
「片白草が見頃なのは運がよかった。ですが、おまえに見せたかったのはこちらの木です。珊瑚はこれが何の木か判りますか?」
彼女は首を横に振る。
「ううん。何か謂れのある木なの?」
「これは菩提樹ですよ」
「菩提樹……?」
あ、と珊瑚は口を開く。
「菩提樹って、お釈迦様がその下で悟りを開いたっていう?」
「はい」
と、弥勒はようやくにっこりと珊瑚を見た。
「厳密にはお釈迦様が悟りを開いた木とは異なる種らしいが、子供の頃、これが菩提樹だと教えられ、ここならば私でも悟りを開けるかと、よくこの木の下で瞑想していました」
「法師さま──」
風穴の呪いを乗り越えようとしてのことだろう。
幼い日の彼の心を思い、気づかわしげな表情を浮かべる珊瑚に、彼の笑みは困ったようになる。
「そんな顔をするな、珊瑚。もう、私は無理に悟りを開く必要はないのですから。それに、私は聖人ではなく俗人ですから、そもそも、悟りを開くことなどできはしなかったんですよ」
「……っ」
言葉とともに腰を抱き寄せられ、珊瑚は反射的に法師の手をはたいた。
だが、弥勒は構うことなく彼女の腰を抱く手に力を込め、錫杖を菩提樹の幹に立てかけて、もう片方の手で彼女の顎をとらえた。
「私は、聖人になるより、妻を取ります」
じっと見つめられ、胸がときめく。
面映ゆげに頬を染めた珊瑚だが、ふと、記憶をたどるようにして眉をひそめた。
「ちょっと待って」
「はい?」
「お釈迦様は、確か、妻も子供もいて、その妻子を置いて出家したんだよね」
「ええ」
「法師さまの場合、別の女のために妻を捨てたりなんてこと、ない?」
「何を言ってるんです。あるわけないでしょう。まだ、一人も子を産んでもらってないのに」
弥勒は珊瑚の鼻の先に軽く唇を当てた。
「では、そろそろ私は行きますので、おまえはここで待っていてください」
「ちょっと! さっそくあたしを捨てる気? この辺りに昔馴染みの女でもいるの?」
言葉が足りなかったのは事実だが、たちまち気色ばむ珊瑚に衿を掴まれ、弥勒は面白そうに苦笑した。
「違います、寺へ行くんですよ。言っていませんでしたが、この先は女人禁制なんです。一応、古くからの霊山で」
「えっ?」
珊瑚は自分の早とちりに顔を赫くした。
「やだ、最初に言ってくれればいいのに。あたしったら、何も知らずにここまで法師さまについてきて、馬鹿みたい」
「いえ、私も珊瑚と一緒にいたかったので。それに、子供の頃、好きだったこの場所を、珊瑚に見せたかったんです」
ぬけるような青い空を映す池の上に、さわさわと涼しげな葉音がこだましている。
法師の両腕が珊瑚の背中に廻された。
「やっと夫婦になることができたおまえを、捨てるわけないでしょう?」
抱きしめられて、ようやく安心したらしい珊瑚は、きゅっと彼の衣を握りしめた。
「じゃあ、あたしは菩提樹の下で、瞑想しながら待ってるよ」
「ああ。すぐに戻る」
錫杖を持ち、目的の寺へ向かう夫の姿を見送って、彼女は涼しい木陰を作る菩提樹の下に腰を下ろした。
池に咲く鮮やかな緑と白の彩りを心地好く眺め、風を感じて、空を仰ぐ。
今、自分は過去の弥勒が見たのと同じ景色の中にいて、同じ場所に座っているのだと思うと、感慨深かった。
* * *
菩提樹の葉のさざめきとともに、池の半夏生が午後の風を受けて揺れている。
寺での用事をできるだけ早くすませ、菩提樹のところまで戻ってきた弥勒は、地面に置いた飛来骨に寄りかかり、すやすやと眠っている妻の姿を見つけて、微笑した。
「不用心だな。瞑想してたんじゃないのか?」
悪戯心を起こした弥勒は、眠る珊瑚に口づけようと、身をかがめた。
珊瑚からの初めての口づけの顛末は、祝言をあげたその日の夜に白状させた。
奥手な彼女の精一杯の想いを込めた行動に、珊瑚への愛しさはいやが上にも増したものの、それとは別に、やはり、愛しい娘との初めての口づけを自分だけが記憶していないというのは悔しい気もする。
意趣返しというほどではないが、口づけで目覚めさせて、驚かせてやろうと思った。
弥勒は木陰であどけなく眠る彼女の小さな唇にそっと顔を寄せ、そっと、己の唇を触れさせる。
──起きない。
もう一度、今度はもう少し強く唇を合わせ、軽く吸った。
──起きない。
「起きなさい、珊瑚。っていうか、何故、起きん」
あまり激しい口づけをしては、情緒というものに欠けるだろう。
彼女が眼を覚ましたとき、可憐に驚き、恥じらう様が見たいのであって、引っぱたかれては意味がない。
ほっとため息をついた弥勒は、ふと、人の気配を感じて、立ち上がった。
法師の位置からは池をはさんだ向こう側に、近在の村の者らしい娘がいる。
娘も法師に気づいたようだ。
菩提樹の下に立つ法衣姿の青年を認めた娘は、はっと眼を大きく見開いた。そして、すぐに池を回って、法師のもとまでやってきた。
「弥勒さま? 弥勒法師さまだよね。会いたかった、嬉しい!」
親しげに彼の名を呼ぶ娘を、確かに弥勒は知っていた。
「まさか、幸……か? これは驚きました。美しい娘になったな。見違えましたよ」
「あたしは弥勒さまだってすぐに解ったよ。弥勒さまも、あたしだって気づいてくれた」
さちと呼ばれた娘は、ほんのりと頬を染めて、まぶしげに法師を見上げた。
「一人でこんなところで、どうしたのです? 今も父御の供をしてここまで来ているのですか?」
「ううん、あたし……」
菩提樹の陰で珊瑚の睫毛が瞬いたのは、そんなときだった。
「……法、師さま……?」
身を起こして、振り返れば、弥勒が知らない娘と親しげに言葉を交わしている。
一瞬で眼が覚めた。
「弥勒さま、あたし、弥勒さまをずっと待って……」
娘が法師との距離を縮め、彼の手を取ろうとしたのを見て、驚いた珊瑚は思わず声を上げた。
「法師さまっ!」
その声にはっとした弥勒は、珊瑚がまずいタイミングで眼を覚ましたことに気づき、ぎくりとなる。
「珊瑚──」
「法師さま……! やっぱり、女がいたんだ」
「ちっ、違いますよ! この娘は近くの村の娘で、子供の頃、よくこの場所で顔を合わせていたので、そういう間柄です」
弥勒は慌てて釈明しようとしたが、珊瑚の目付きはますます険しい。
「昔、いい仲だったんだ」
「だから、違いますってば! この木の下でよく瞑想していたと話したでしょう? 当時、幸は寺へお布施を運ぶ父御について、よくこの森まで来ていたんです。この池の畔で父御を待っていたんですよ。山は女人禁制ですから」
「ふーん」
「何度も顔を合わせていれば、話もするようになります」
弥勒がため息まじりにつぶやくと、二人のやりとりを聞いていた幸が、無造作に彼の言葉を引き取った。
「それで、弥勒さまは旅に出るとき、あたしに子を産んでくれって言ったんだよね」
「!」
突然の幸の発言に、弥勒は色を失い、硬直する。今さらだが、珊瑚に一番知られたくない内容だった。
珊瑚の顔をまともに見ることができず、弥勒はぎくしゃくと言葉をつなげた。
「さ、珊瑚。確かに、過去はおまえの想像どおりだと思うが、子を云々というのは、幸にはすでに断られているので、もうとっくに終わった話です。というより、始まってすらいません。さらに言うと昔の話で……」
「でも、あたしは弥勒さまのこと、忘れたことなかったよ。時々ここへ来て、菩提樹の下で弥勒さまのことを考えてた」
幸は二人に近づき、困惑しきった様子の法師と、菩提樹の根元に座る不機嫌そうな娘とを見比べた。
「弥勒さま、この人は?」
「ああ、紹介します。珊瑚は──」
「ただの旅の連れだよ」
完全にへそを曲げてしまった珊瑚の様子に、弥勒はやれやれと肩を落とした。
ここで妻だと紹介すれば、これ以上の無用な誤解を防げるだろうに──と、ため息をつく。
珊瑚はおもむろに立ち上がり、衣の土埃を払って、幸を見遣った。
「それ、何年くらい前のこと?」
「もう何年にもなるよ。あたしは十二だった」
「十二……? 今、いくつなの?」
「十六」
珊瑚が屹となって法師を睨むと、弥勒は慌てて言い訳を並べる。
「いや、そのときすぐに子を産んでもらおうとしたわけではなく、旅から戻ったら、また会えればいいなあという程度の軽い気持ちで……」
「本当に見境なしだね、法師さま。琥珀くらいの子を口説くなんて、信じられない」
「ちょっ、今の私で想像しないでください。その頃は私もほんの少年だったんですから。私も幸も本気ではなく、そう、他愛ない冗談のようなものです」
旅に出るため、もう、この場所へ来ることはないだろうと幸に告げた弥勒は、いつか旅から戻ったらという前提で、例の科白を口にした。
対する幸は、よほど驚いたらしく、「産みません!」のひと言を残し、振り向きもせず、法師の前から逃げ帰ってしまったとのことだ。
「でも、あれ、本心じゃないんだ」
「……え゛」
珊瑚ばかりか、弥勒まで、ぴきりと引きつったようになる。
「本当は嬉しかったんだよ」
「あの、幸……?」
「だから、弥勒さまが戻ってくるのを、ずっと待ってた。おとうは、法師さまは戻ってこない、そんな戯れ言を信じるあたしが馬鹿だと言ったけど、この場所に通い続けていれば、いつかまた会えるって信じてた」
「では、おまえがここにいたのは、私に会えるかもしれないから?」
幸は真顔でこっくりとうなずいた。
「次に弥勒さまに会ったら、ちゃんとお返事しようと思って」
「へ、返事とは……」
幸はいきなり弥勒の手を取り、両手でぎゅっと握りしめた。
「あたし、産みます! 弥勒さまの子!」
空気の割れる音がした。
──ような気がした。
不穏な沈黙がその場を支配し、ざわざわと菩提樹の葉音が不安な思いをかきたてた。
やがて、静かに息を吐き、弥勒は幸の手から己の手を引いて、まっすぐに彼女を見た。
「幸、申し訳ないが、父御の申されることが本当です。私は不実な男で、あれはちょっとした軽口にすぎません」
「え?」
「私には、もう妻がいるんです。この娘、珊瑚が私の妻です」
弥勒がちらと珊瑚を見遣ると、幸は唖然と、穴があくほど珊瑚を見つめた。
「うそ……」
「珊瑚とはともに旅をしていました。祝言をあげたのは、つい先日ですが」
──ぱんっ!
威勢のいい音が響いた。
「ごっ、ごめん!」
と、幸は法師の頬を打ってから、自分の平手打ちに驚いたように、珊瑚に謝った。
「ひとのご亭主を引っぱたいたりして。でも、こうでもしなきゃ、気がすまないもの」
「……う、うん。よく解る」
珊瑚が幸の立場でも、引っぱたかずにはいられないだろう。
幸は混乱気味に視線を弥勒へと戻した。
「もし、あのとき、あたしが弥勒さまの子を産むって言っていたら、あたしを旅に連れていってくれた?」
「いいえ」
無関係の人間を巻き込める旅ではない。
落ち着いた声で弥勒は答えた。
「旅の連れは他にもいて、私も珊瑚も、それぞれの目的があっての旅でした。その目的が、無事に果たされたとき、私には珊瑚以外のおなごを娶ることなど考えられなかったんです」
「……」
幸はきゅっと唇を噛み、感情を殺した低い声で言った。
「もう一度、叩いてもいい?」
「いいですよ」
幸の右掌が、法師の頬を打つ。
一度目よりは、力を弱めた平手打ちだった。
「最初から、あたしの片想いだったんだね」
「すまん」
「謝らないでよ。何年も一人相撲してたなんて、よけい哀しくなる」
風が森の木々の梢を吹き渡っていく。
さわさわと鳴る葉音はあの日も今も同じだった。
「さよなら、弥勒さま」
幸は身を翻し、身軽に森を駆けていった。
法師に涙を見せたくなかったようだ。
幸の姿をじっと見送っていた弥勒は、視線を感じ、傍らの珊瑚を振り向いた。
「なんです?」
「意外。法師さまなら、もっとマシな言い訳を、いくらでも思いつくと思った」
「今まで私とかかわり合ったおなごたちにどれだけ不実と思われても、珊瑚にだけは、誠実な夫でいたかったんですよ」
「あたしがここに居合わせなければ、あの娘にもっと違う説明してた?」
「独り身の頃ならいざ知らず、今は珊瑚と夫婦なのですから、適当に言い繕って誤魔化したりはしませんよ」
「……」
「信じないんですか?」
「……いいよ。騙されてあげる」
瞳を伏せてうつむき、珊瑚は表情を隠すようにして言った。
「では、これから何年もかけて、じっくりと信じさせてあげますよ。時間はたっぷりありますからな」
うつむく彼女を、弥勒は意味ありげにじっと見つめた。
「ところで、珊瑚。やり直したいことがあるのですが」
「何?」
「ちょっと眠ってくれませんか?」
「へ?」
顔を上げた珊瑚は、軽く肩を押され、菩提樹の幹に背中を押しつけられた。
「形だけでいいです。座って、眼を閉じて」
わけも解らず、珊瑚はそのまま腰を下ろし、菩提樹の幹にもたれて眼を閉じた。
「何がしたいの?」
「私の意識がないときに、誰かさんが私にしたようなことを、です」
「は?」
閉じていた珊瑚の眼が開かれ、弥勒を見上げ、問うように瞬く。
「さっきもしたのですが、おまえは起きなかったので」
「したって……」
身をかがめた法師の人差し指が、珊瑚の唇に軽く触れた。
「目覚めてくれなければつまりません」
珊瑚がたちまち真っ赤になる。
「そっ、そんなこと、張り合わなくたっていいだろ? 法師さまって、意外と負けず嫌いだよね」
「おや、今頃気づいたんですか?」
弥勒の瞳が、じっと覗き込むように珊瑚の瞳を見つめる。その瞳を見つめ返す珊瑚の鼓動が速い。
「さっきの娘のことから、あたしの気を逸らそうとしてる?」
「珊瑚の好きに受け取ってもらって構いませんよ」
風が揺らす葉音に、彼女は耳を傾けた。
背中に感じる菩提樹の幹。
──この樹の年輪に、幼い頃の法師さまの想いが刻まれている。
これが初めてではない弥勒の昔の女絡みの騒動は、これが最後ではないかもしれない。
だが、それを承知で、彼という人間を愛したのだ。
しばらく探るように見つめ合っていたが、折れた珊瑚がそっと瞼を閉じると、弥勒は錫杖を置き、彼女に覆いかぶさるように木の幹に手をついて、そっと彼女に唇を近づけていった。
〔了〕
2015.7.6.