私を泣かせてください

 目が合ったのに表情も変えず、自分の前から去っていった琥珀の姿が脳裏を駆ける。
 今夜は野宿。
 夕餉の後片付けを終えた珊瑚は、憂いを帯びた表情のまま、小さな吐息を洩らし、どこか遠くを見ていたような眼差しを伏せた。
 珊瑚の隣で寝袋の用意をしていたかごめが心配げな表情を見せる。
 そんな珊瑚の様子をさりげなく見つめていた法師が静かに立ち上がった。
「かごめさま、珊瑚をしばらく借ります」
「え、弥勒さま、こんな時間にどこ行くの?」
「少し夜風にあたってくるだけです」
 法師が意味ありげに微笑むと、かごめはすぐに了解したという顔つきになり、瞳を傍らの親友に向けた。
「そうね。珊瑚ちゃん、気分転換に弥勒さまと散歩してきたら?」
「え? あ、うん……」
 法師が何を求めているのか解せぬまま、珊瑚も立ち上がった。
 事態を見守っていたらしい犬夜叉が不意に声をかける。
「珊瑚にスケベなことすんなよ、弥勒」
「解ってますよ。信用ありませんなあ」
 ため息まじりに苦笑して、法師は珊瑚を促し、皆のもとを離れた。

 二人きりでしばらく夜道を歩くと、小さな川のほとりに出た。
 弥勒が立ち止まると、珊瑚も立ち止まる。
 沈んだ表情のまま、ぼんやりうつむく珊瑚の肩に法師の手が触れた。
「法師さま……?」
「いつだったか、私が泣きたいときにはおまえが泣かせてくれると言ってくれたことがあっただろう?」
「うん――
 少し愁眉を開いたように、珊瑚の頬がわずかばかり赤らんだ。
 そんなことを覚えていてくれた彼の気持ちが、ただ、純粋に嬉しかった。
 法師さま、泣きたいの……?
 小川のほとり、草の上に腰を下ろした弥勒をしばし見つめていた珊瑚は、彼の傍らにおもむろに膝をつくと、彼の頭を両腕で包み込むように抱きしめようとした。
「……珊瑚? 何をするつもりです?」
「え、だって――
 低い声音はやさしかったが、何かいけないことをしたのだろうかと珊瑚は動転し、そのままの姿勢で法師から少し身を離して、自分を見上げてくる彼の視線をややたじろぎながら受けとめた。
「法師さま、泣きたいんじゃ……だから、あたし、その……」
「私に胸を貸してくれようとしたのか?」
 そばに置いた錫杖から離れた手が彼女の頬を包むように撫でたので、小さくうなずき、珊瑚はきまり悪げに眼をそらした。
「背中を貸すって約束したけど、あの、法師さまがいつもしてくれるように、あたしだって法師さまを抱きしめてあげたいし、法師さまだって背中より胸を貸してほしいって言ってたし」
 だんだん語尾が小さくなり、ゆるゆると弥勒の頭から両手を外した珊瑚はその場にぺたんと座り込んだ。
「だから……」
 うつむく珊瑚に手を伸ばし、その身をぐいと弥勒が引き寄せる。
「法師さま」
「おまえに抱きしめてもらうのも悪くはないが、こちらの体勢のほうが落ち着く」
 逆に彼のほうが珊瑚の頭を包み込むように抱きしめ、その耳元に唇を寄せてきた。
「泣きたいのはおまえでしょう? 私の前では我慢しなくていい」
「っ……法、師さ――
 強がるいつもの癖がつい出そうになって、珊瑚はなんでもないと弥勒に微笑もうとしたが、意に反して眼の奥がじわりと熱くなり、顔を上げることさえできなかった。
「珊瑚……」
 彼女の名をささやく弥勒の唇が、甘く彼女の耳朶を食んだ。
「あ、や……」
 触れるか触れないかの耳への口づけに珊瑚はくらくらと眩暈がしそうだった。
 時折、ちろりと耳朶に当たる法師の舌の感触が彼女の身体を熱くした。
「ここには私たち二人しかいない。私にだけなら、涙を見せてもいいだろう?」
「……法師さ、ま」
 弥勒の淡い愛撫によって、堰き止めていた感情が一気に決壊し、弥勒の胸に顔を埋める珊瑚は、ぽろぽろとこぼれてくる涙に必死に耐えた。
「いいんですよ。我慢せずに泣きなさい、珊瑚」
 己の身を抱く彼の腕にやわらかく力が込められた気がした。
「ふっ……うっ、く……」
 そうして、珊瑚は己を受けとめてくれるやさしい腕に身を任せ、声を忍ばせて泣きじゃくるのだった。
 珊瑚の心が落ち着くまで、弥勒は静かに彼女の背をさすっていた。

「……法師さま、ごめん」
 嗚咽が治まると、弥勒は、幼子にするように、愛しい娘の緑髪を静かに撫でた。
「泣いたら、少しは心のつかえがおりましたか?」
「うん。ありがと」
「涙は心を浄化する作用があると思いますよ」
 恥ずかしそうに濡れた頬をふく珊瑚を愛おしげに見つめていた弥勒は、ふと視線を上げ、彼女の背後を見た。
「珊瑚、後ろを」
「え?」
 振り返ると、涙をためた瞳に浮遊する小さな光が見えた。
「蛍だ、法師さま」
 とおに満たない蛍の群れが、ふわふわと闇の中を彷徨っている。
 それはまるで――
「珊瑚」
「あ、なに?」
「あの蛍を見て、おまえが何を思ったか当ててみましょうか」
 弥勒の声音はやさしかったが、珊瑚の表情が、ふ、と曇った。
「琥珀のことだな。彼が奪った……」
「言わないで」
 珊瑚は少しうつむき、顔を手で押さえてゆっくりと首を横に振った。
「その通りだよ。あたし、あれを魂みたいって思った。琥珀が……あの子が刈りとった無数の魂……」
「……」
「解ってる。あの子は罪びとだ。でも、あたしにはたった一人の」
「珊瑚」
 穏やかに珊瑚の言葉を遮り、法師は小川の上を滑るように移動する蛍影に眼を向けた。
 美しいが、儚い。その光。
「よく見てごらんなさい。あれは魂ではない。死んでいる光ではなく、生きている光だ」
 淡い蛍の光を映す珊瑚の瞳がふと揺れた。
 惑うような飛び方を見せる、群れからはぐれた一匹がいた。
 法師はそれを珊瑚に示す。
「あれが琥珀ですよ、珊瑚。琥珀の生命の光です」
「琥珀の?」
「群れからはぐれた蛍。けれど、己の存在を告げる光を精一杯放っている」
「法師さま……」
 蛍明に朧に照らされた法師の顔を珊瑚が見上げると、それに呼応するように弥勒の視線が珊瑚を捉えた。
「信じたいのだろう? 琥珀のことを。はぐれた光を、おまえが掴まえてやりなさい」
 すっと伸ばされた弥勒の指が珊瑚の目尻を拭った。
「法師さま、あたしにできる? あたしは、琥珀の魂の居場所を見つけてやれる?」
 ああ、と弥勒は力強くうなずいた。
「おまえの志は私の志でもある。おまえは一人ではないのだから」
「法師さま!」
 思わず彼の腕の中に身を投げた珊瑚を、法師はしっかり受け止め、強く抱きしめた。
「泣くときも笑うときも、私たちはいつも一緒だ」
 涙に濡れた黒珠の瞳を問うように上げた珊瑚に、弥勒は問い返すように小さく首を傾ける。
「そうだろう?」
 光を求めて闘っているのは己も琥珀も、そして愛するこの青年もみな同じ。
 浮遊する蛍は美しく、その光を宿した彼の瞳はさらに美しく――
 珊瑚は無言でうなずき、再び法師の胸に顔を埋めた。

 ――あたしは、一人じゃない。

 独りで泣かなくてもいい。
 いつだってこの腕が己を包み、己を泣かせてくれるのだと。

〔了〕

2009.7.15.

「私を泣かせてください」 ヘンデル