おまえを想って眠れない夜があると言ったら、おまえは呆れて笑うだろうか。
それとも怯えるか?
まるで初恋を知ったばかりの少年のように、おまえの一挙一動が気になって仕方がないと言っても、どうせ信じてはもらえんだろうな。
自分でも嘘みたいだ。
数えるのも馬鹿馬鹿しいほど場数をふんできたこのおれが、一人の娘に怯えてる──
熱情
「……さま。法師さま?」
「うわっ!」
至近距離で顔を覗き込まれていることに気づき、弥勒は思わず声を上げた。
「しぃっ」
珊瑚が口許に人差し指をあて、弥勒は掌で己の口を押さえた。
今夜の宿にしている小さな御堂の中を二人してそっと見渡す。
犬夜叉の耳がぴくりと動いたようだが、かごめと七宝は穏やかな寝息をたてている。
仲間の様子を確認して、珊瑚は法師に視線を戻した。
「大丈夫?」
「え?」
珊瑚は眉をひそめて、法師の顔を窺うように見た。
「だって──眠れないんだろ? どこか苦しい? 今日の戦闘で打ったところ?」
「え……あ……夢を見ていた」
珍しくうろたえたように答えにつまる弥勒を、珊瑚は珍しいものでも見るような眼つきで、怪訝そうに眺めやる。
「眼を開けたままで?」
「……」
どうやら自分はずいぶん長い間ぼんやりしていたようだ。
「私なら大丈夫だ。珊瑚、おまえは休みなさい」
低い声でやさしく諭すように言う弥勒だったが、珊瑚は納得しなかった。
「あんなにつらそうな眼をしてこっちを見てたくせに。法師さま、眠れないんなら気分転換に外の空気でも吸いに行く?」
珊瑚を想い、そんなに切なそうな顔をしていたのだろうか。
彼女に自らの動揺を悟られたくない弥勒は、静かに立ち上がる。
「ああ……では、そうさせてもらおう」
すると、何故か珊瑚も一緒に立ち上がった。今度は弥勒が怪訝な表情を作る。
「どこへ行くんです?」
小声で尋ねた。
「法師さま一人、放っておけないよ。あたしも付き合う」
「付き合うっておまえ……」
夜気にあたって頭を冷やそうと思ったのに、これでは意味がないどころか却って危ない気がする。
「眠れそうになるまで、話し相手くらいにはなるよ」
珊瑚としては、いつもつらいときに弥勒がそうしてくれるように、ただ彼のそばについていたい──単純にそんな想いからの行動だった。
それで彼の心が安らぐかは判らないが、自分がしてもらって救われていることを、少しでも彼に返したい。
しかし、弥勒のほうは、今、珊瑚と二人きりになることはできれば避けたかった。
果たして理性がもつのか気が気でない。
「珊瑚、私なら一人で平気ですから」
「法師さまの平気は信用できない」
小声でぼそぼそと珊瑚と言い合いながら、弥勒はちらと犬夜叉のほうへ視線を送る。
狸を決め込んではいるが、彼が眼を覚ましているらしいことは気配で感じ取れた。
弥勒はため息をつく。
「では、少しだけ──」
空気が澄んでいるため、星の明るい夜だった。
外へ出た二人は、御堂の外壁にもたれ、並んで腰を下ろす。
「……寒くはないか?」
「うん。この季節にしては、今夜は暖かいほうだよ」
会話はすぐに途切れ、ここでもまた大きなため息をつく弥勒に、珊瑚は心底心配そうな表情になる。
「そんなに痛む? 薬草、効かなかったみたいだね」
「いや、そうではなくて……」
星明かりで、おぼろげながらも互いの表情くらいは充分に見て取ることができる。
弥勒は苦笑するような表情を浮かべ、傍らの珊瑚に眼をやった。
「眠れないのはおまえのせいだ」
「あたし……?」
澄んだ瞳と視線が絡み、弥勒は思わず眼を逸らした。その黒い瞳を見つめ続けていると、己の中の箍が外れそうで怖い。
こぼれた言葉は、ほとんど吐息のようなささやきに近かった。
「おまえのことばかり考えて、眠るどころではない」
つい、そう言ってしまったが、実のところ、珊瑚の反応が怖かった。これでは己の欲心を露呈したようなもの。
しかし、自嘲気味に口許をゆがめる法師の耳に届いたのは、嬉しい、と小さくつぶやく珊瑚の声。
驚いた弥勒が隣の珊瑚のほうへ顔を向けると、娘は微かに頬を染め、恥ずかしそうにうつむいていた。
「珊瑚?」
「……あたしも、だよ」
うつむいたまま、珊瑚は小さな声で告げる。
「あたしも、しょっちゅう法師さまのこと考えて眠れない夜がある。無理してないかとか、傷はまだ痛むんだろうかとか、……あと、風が強い夜なんかも」
はにかみながら言葉を紡ぐ珊瑚の白い横顔を、弥勒は複雑な想いで見つめていた。
確かに珊瑚に対して、自分もそういった類の想いを抱くことは少なくはない。ないが、今夜眠れなかったのは、また別の想いからで──
「あのですね、珊瑚。それはとても嬉しいのだが、私の言う眠れないのとは少し意味がちが……」
「違うの?」
珊瑚の無垢な黒い瞳にまっすぐ射抜かれ、法師は言葉につまる。
弥勒は困ったように微笑を浮かべ、ふっと息を吐いた。
「男が愛しいおなごのことを考えて眠れないというのだから──解るだろう?」
「え?」
「おまえを……」
この手に抱きたくて。
愛しい娘が今ここに存在していることを、躰で確かめたくて。
しかし、清らかすぎる珊瑚の眼を見ると、何も言えなくなる。
弥勒は今宵何度目かのため息をついた。
「珊瑚。おまえは、私を好きか?」
唐突な弥勒の問いに、珊瑚は一瞬言葉をつまらせた。
「そっ、そんなの、法師さまが一番よく知っていることじゃないか」
早口で言いながら、法師から身体ごと視線を逸らす。
そんな初心な仕草が可憐で、愛らしくて。
ますます彼の心を掻き立てていることを、けれど、彼女は全く理解していないのだろう。
弥勒がそっと腕を伸ばして彼女の手を握ると、彼女が微かに身を強張らせたのが判った。
「私はおまえが愛しい」
ぴくりと身じろいだ珊瑚はそろと弥勒のほうを振り向くと、恥ずかしそうにおどおどと彼の顔を窺い見た。
「……法師さま、もしかして、寝ぼけて……る?」
「寝ぼけているように見えるか?」
想いを伝えるため、珊瑚の手を握る手に力を込める。
「珊瑚」
「……」
今度はなに、と困惑しきった珊瑚の眼が問うている。
「おまえは、私を愛しているか?」
珊瑚の頬が朱に染まり、眼を見開いた彼女は思わず握りしめられている手を引こうとした。
「どうしてそんなこと訊くの?」
今にも泣き出しそうに小さなつぶやきを洩らし、珊瑚は法師から顔を逸らしてうつむいた。右手は捉えられたまま。
「聞きたい」
「解ってるくせに。あたしを困らせて楽しい?」
「困らせるつもりなどない。ただ、ありのままのおまえの気持ちを、おまえの口から聞きたいだけだ」
「……今、言わなきゃ駄目?」
「ああ。言ってほしいな」
法師の声は、夜の闇に融けそうなほど低く、真摯だった。
掴んだままの珊瑚の手を己の口許まで持ち上げると、弥勒はその手の甲に口づけた。
「私ばかりがおまえに全てを奪われているようで──」
「何言ってるんだい。最初にあたしの心を持ってったのは法師さまのほうじゃないか」
思わず声を荒げた珊瑚が口走ってしまった己の言葉に驚き、口を押さえたのと、はっと顔を上げた弥勒が珊瑚を見たのが同時だった。
(そうか……)
真っ赤になったまま瞳を潤ませ、片手で口許を押さえている娘を見つめ、弥勒は緩やかに微笑を浮かべた。
言葉ではない。
愛してるなどという決まりきった言葉の型に囚われることなく、珊瑚はいつでも全身であふれる想いを伝えてくれるではないか。
そして今、珊瑚の瞳の奥に、確かに己に対する熱情を見た。
どうしようもなく愛しさが込み上げる。
このまま流されてしまえば、どんなに楽だろうか。
弥勒は衝動の命ずるままに握っていた珊瑚の手を強く引き、手荒にその身を抱き寄せた。
娘を己の腕の中に閉じ込め、白い首筋に顔を埋める。
「ほ……し、さま……?」
聞こえた珊瑚の声は、怯えより戸惑いのほうが強かった。
「おまえを愛している証を、おまえの躰に刻みつけたい」
珊瑚が息を呑む気配がする。
しかし、このとき弥勒が望んでいたのは、珊瑚の拒絶の言葉だった。
この暴走を止めてほしい。
そのまま彼女の首筋に唇を這わせていると、やがて、小さいがはっきりした応えが返ってきた。
「いいよ」
「何……?」
求めていたものとは逆の言葉に驚きと動揺を覚え、弥勒は顔を上げて珊瑚の顔を凝視する。
「いいよ。法師さまに、あたしをあげる」
「本気で言っているのか?」
最初に感じたのは怒りだった。
彼女にこのようなことを仕掛けておいて、不条理だとは解っている。
しかし、全てを賭けて護り抜きたいと思っている娘に、こんな状況下で甘やかされるようなことは、彼の自尊心が許さなかった。
湧き上がる激情。
荒々しく娘の身体を地に押し倒す。
「同情などするな」
「そんなんじゃないよ。あたしが同情なんかで自分を投げ出すような、そんな女だと思ってる?」
「──いや」
珊瑚は、押し倒されたままの姿勢で小さく微笑んだ。
のしかかる弥勒の表情は影になってよく見えないが、自分の言葉に彼が戸惑っているらしいことは気配で解る。
両手を伸ばし、珊瑚は自分の肩を押さえつけている彼の片方の手を──右手を取り、そっとその指に口づけた。
先ほど彼がしたように手の甲に口づけ、さらに掌に口づけた。
「本当に、いいんだよ」
彼の手を頬に当て、一度、珊瑚は眼を閉じる。
「法師さまだから」
そして、眼を開けて、闇の中、法師の瞳を探る。
「もし法師さまが本心からそう望んでいるのなら、あたしは躊躇わない。でも、本当はそうじゃないんだろう?」
あなたの誠実さも、不安も、葛藤も知っている。
いつも自分を押し殺し、どんな苦しみに苛まれようとそれを外へは洩らさない。
「素直じゃないよね」
「それはお互い様だろう」
そんな人だから。
「だから、あたしはここにいる」
これがあたしに言える精一杯の想い。
「ずっと、法師さまのそばにいるって決めたんだ」
「珊瑚──」
愛してる、なんて恥ずかしくて口にできないけど、あなたのそばにいさせてほしい。
迷いのない珊瑚の瞳に彼女の真意を見つけ、たまらず弥勒は彼女を抱きしめた。
「珊瑚、今夜は野宿でもいいか?」
「野宿なら慣れてる。……眠れそう?」
「ああ。その代わり、朝までおれの腕の中にいてくれ」
こくりと娘がうなずくのを確かめ、弥勒は娘の額に唇を押し当てた。
上体を起こし、御堂の壁へもたれる弥勒の胸に、寄り添うように珊瑚が身をもたれさせる。
法師の腕がしっかりと珊瑚を抱くと、珊瑚は彼に体重を預けた。
互いの鼓動が感じられる。
そして二人はそっと眼を閉じた。
腕の中のぬくもりにあやされながら、微睡みに漂い、弥勒は思う。
面と向かってこんなことを言えば、おまえは照れて怒るかもしれないが。
おまえがこんなふうに応じてくれるなら、おまえを想って眠れない夜も、悪くない──
〔了〕
2007.10.19.