刹那、呼吸が止まった。
眼に映ったのは、確かに琥珀の姿だった。
プレスト・アジタート 〜 胸騒ぎ 〜
(琥珀──?)
移動中の妖怪の群れと遭遇した犬夜叉たちの一行は、付近の村里への被害を防ぐため、その妖怪たちの始末に手を取られていた。
そんな中、ふと、珊瑚は気づいた。
離れた木立ちの向こうから、眼を大きく見開いて、残敵を掃討している自分たちの様子を見つめている一人の少年がいることに。
(あれは──)
珊瑚の視線に気づいた少年は、びくっとして踵を返し、その場から逃げ去った。
「待っ……」
思わず珊瑚はその少年を追いかけていた。
どんよりとした空を雲が走っている。
法力で雑魚妖怪を滅する弥勒の視界に、不意に駆けていく珊瑚の姿が映り込んだ。
(珊瑚?)
掃討戦とはいえ、彼女が戦線から離脱するなど、何かあったのだろうか。
動きを止めた弥勒に犬夜叉が声をかける。
「どうした、弥勒?」
「珊瑚の様子がおかしい。追いかけます。犬夜叉、あとを頼む」
「解った」
空が薄暗い。
弥勒は一人、仲間たちから離れて珊瑚を追った。
近くに小さな村があった。
そこへ向かって、少年は一目散に駆けていく。
彼を追って珊瑚は走った。
「待って……待って、琥珀──!」
「珊瑚!」
飛来骨を手に少年を追いかけていた珊瑚は、突然、後ろから腕を引かれて驚いて立ち止まった。
「法師さま……?」
「空を見なさい。雨が降るぞ」
「放して、法師さま。琥珀が──」
珊瑚は掴まれた腕をもどかしげに振りほどこうとする。
彼女の前方に、十か十一に見える男の子が走り去っていくのを、弥勒も見届けていた。
「今の少年は琥珀ではない。落ち着け、珊瑚」
「嫌だ。見失ってしまう……!」
黒雲が空を走る。
そんな怪しげな空模様も目に入らぬように、珊瑚はもう見えなくなった少年を追おうと、なおも法師から逃れようとする。
「珊瑚!」
弥勒は半ば強引に珊瑚の腕を引き寄せ、空を見上げた。
ぱらぱらと雨粒が頬にかかる。
「来なさい、珊瑚」
近くに洞穴があったことを思い出し、彼は村へ行こうとする彼女を力ずくで引っ張って、そこへ避難した。
二人が洞穴へ駆け込んだとき、雨足が急に強くなった。
法師が彼女の腕から手を放すと、珊瑚は屹と彼を睨む。
「琥珀がいたんだ。なんで邪魔するの、法師さま?」
「人違いだ、珊瑚。琥珀ではない」
「でも、あれは確かに……」
「背格好は似ていたが、あれは村の子供だ。琥珀のように、訓練された人間の動きではなかった」
「でも……」
珊瑚はうつむき、激しく顔を横に振った。
「でも……でも!」
「第一、琥珀が奈落の命で偵察に来たのなら、退治屋の装束を身にまとっているはずです」
涙をこらえ、それでも珊瑚は納得しきれない様子だった。
「もし、琥珀だったら? 万が一ってこともあるだろう?」
「珊瑚」
「確かめなきゃ!」
珊瑚の手から飛来骨が落ちた。
手の甲で涙を拭うと、彼女は雨の中を洞穴から飛び出そうとした。
「待つんだ、珊瑚!」
身を翻す娘の手首を弥勒がとっさに掴む。
その手を引き寄せると、反動で、珊瑚の身体は簡単に弥勒の腕の中に飛び込んできた。
雨のかかる入り口から洞穴の奥へ、彼は彼女を移動させた。
「行ってどうなる。琥珀ではないと知るだけだ」
「だって、確かめなきゃ判らないじゃないか」
「珊瑚はあの子を琥珀だと思いたいだけです」
錫杖を岩壁に立てかけ、弥勒は両手で珊瑚の頬を包んだ。
「顔を見なくても判るはずだ。あれは琥珀ではない。おまえもそれを解っている」
弥勒の低い声を聞き、涙ぐむ珊瑚は混乱したように法師の手首を掴んで首を振った。
「……違う。解ってないのは法師さまだ」
「珊瑚」
「人違いでもいい。行かせて」
こぼれる涙をそのままに、彼女は再度雨の中を飛び出そうとする。
弥勒は錯乱する珊瑚の腕を掴んで無理やり引き寄せ、強く彼女を抱きすくめた。そして、己の唇で彼女の唇を塞ぎ、口づけで黙らせた。
「……っ」
小さく珊瑚が呻いたが、弥勒は構わず口づけを続ける。
彼女を落ち着かせる方法が他に思いつかなかった。そしてそれ以上に、彼自身が、珊瑚の苦しみをこれ以上見ていたくなかった。
不意の出来事に、珊瑚は呼吸がままならない。
「んんっ……ん──」
苦しげに眉をひそめる珊瑚が息をつけるよう、わずかに弥勒は唇を離したが、すぐに口づけを再開し、徐々にそれを深くしていった。
絡み合う熱に珊瑚の思考が奪われる。
次第に意識が薄れ、全身から力が抜けていく。
くずおれ、地面に倒れ込みそうになる珊瑚の身体を弥勒が抱きとめ、力を込めて、己の腕の中に閉じ込めた。
「珊瑚……」
その場に座り、崩れそうな珊瑚を弥勒はじっと抱きしめた。
珊瑚は常にぎりぎりの状態で突っ走っている。心に受けた傷は血を流したまま。
どんなことをしてもこの手で護ってやりたい。
呪われたこの手で──?
弥勒は右手を握りしめた。
「私がおまえのそばにいる。一人で苦しまないでくれ」
「法……師、さま……」
「琥珀のことも、一人で苦しむな。珊瑚のためなら、私は……」
彼女の濡れた頬を弥勒の手がそっと拭うと、珊瑚は迷い子のような視線を彼へ向けた。
「胸騒ぎがするの」
潤んだ瞳でじっと弥勒の眼を見つめ、珊瑚は言った。
「不安で……怖くて……琥珀のことや、法師さまの風穴のこと」
弥勒の鼓動が小さく跳ねたが、黙って珊瑚の言葉を聞いていた。
「不安でたまらなくなると、自分をどうしていいのか解らなくなる」
「珊瑚」
彼女の頭を抱き込み、弥勒は低い声でささやいた。
「何でも一人で抱え込もうとするな。おまえが独りにならないために私がいる。苦しいことやつらいことは吐き出して、もっと私を頼ってほしい」
ともすれば、外の雨の音にかき消されそうになる彼の声音に何かを感じ取ったのか、珊瑚は不意に頭を起こして法師を見た。
「法師さま。法師さまも約束して。何でもあたしに話すって。つらいことや不安なこと、全部、あたしに言って」
「珊瑚……」
弥勒自身、風穴の限界について危機感を抱いている。
だが、それをそのまま珊瑚に伝えたところで何になろう?
ただでさえ、弟のことでこれほどまでに心を痛めている娘に、さらなる心配の種を植え付けるだけだ。
たまらなくなって、弥勒は珊瑚を抱きしめ、彼女のこめかみに唇を押しつけた。
「ああ。解った」
嘘をつくのは簡単だ。
珊瑚を想う気持ちが本物であるからこそ、嘘をつくことも、彼女を護るひとつの方便だと考えている。
「つらいときには私に寄りかかればいい。奈落を倒し、琥珀を取り戻すまで、決しておまえを独りにはしない」
たとえ、右手がどうなろうと、己の生命と引き換えにしても、珊瑚の幸せだけはこの手で守るつもりだ。
そのためならば、風穴を使うことに躊躇いはない。
けれど、そんなことは口には出せない。
「大丈夫か?」
「ごめん。取り乱したね」
「落ち着きましたか?」
小さくうなずいた珊瑚は、己を抱く法師の胸に顔をうずめた。
できることなら生き抜いて、愛しい娘の心からの笑顔をこの目にしたいと思う。
弥勒は珊瑚の髪に口づけ、さらに強く、彼女の細い身体を抱きしめた。
「法師さま……雨が止むまで、こうしていて」
「ああ。雨が止んでも、こうしている」
たとえ束の間でも、こうして抱き合うことで、互いが生きているということが実感できる。
互いの鼓動が、吐息が、熱が、何よりも大切だった。
「ずっと、法師さまの……」
言いかけて、珊瑚は惑うように口をつぐんだ。
「私の?」
法師さまの体温を感じていたい──
「ううん。何でもない」
二人は固く抱き合う。
ただ、願っている。
この胸騒ぎが、杞憂に終わることを。
〔了〕
2018.3.5.