テンペスト
襲ってきた妖怪たちを全て片づけたとき、もといた場所からだいぶ離れた位置まで来てしまっていることに二人は気づいた。
雲母に乗った二人は、今、空中にあり、珊瑚の後ろで弥勒が空を仰ぐ。
「空模様が怪しくなってきた。これは一雨きそうですな」
法師と退治屋を乗せた雲母は、犬夜叉たちと合流すべく、灰色の雲が走る空の下を翔けた。
ほどなく、天からぽつぽつと雨粒が降りかかってきた。
「珊瑚、これはひどい降りになる」
「雲母」
法師にうなずいた珊瑚が雲母に声をかけると、妖獣は咆哮で応え、眼下に広がる山林の中へと急降下した。
雨足が急に激しくなった。
雲母が木立の陰に下りきるまで、珊瑚が濡れないようにと、弥勒は全身で彼女の身体を後ろから覆うように抱きしめる。
「山小屋だ、法師さま」
山の中に小さな小屋を見つけた雲母はそこに滑るように下り立った。
遠くで轟く雷鳴が聞こえた。
二人と一匹は急いで小屋の中に避難する。
雨は瞬く間に土砂降りとなり、昼間だというのに、辺りは薄明になった。
「助かったな」
小屋は狭く、囲炉裏など火を熾せる設備はなかったが、それなりにしっかりと建てられている。
珊瑚は飛来骨を壁に立て掛けた。
濡れた飛来骨からは水が滴り、雲母はぶるぶると身を振るって水滴を飛ばす。
「珊瑚」
呼ばれ、振り向くと、法師が袈裟を解いていた。
「な……何してんの?」
「だいぶ濡れたので。おまえは大丈夫か?」
「平気。法師さまがかばってくれたから、あたしはそれほど濡れずにすんだ」
だが、脱いだ袈裟を手にした弥勒が近づいてくるので、珊瑚はわずかにたじろぎ、一歩さがる。
「なっ、なに?」
「髪が」
後退する珊瑚の腕を取って引き寄せると、弥勒は彼女の結い上げた髪をほどく。
そして、流れるように背に落ちた彼女の髪を愛しげに見つめ、己の袈裟の乾いた部分で、ふぁさりと珊瑚の頭を包んだ。
「髪が濡れている。風邪をひくといけませんから」
「……あ、ありがとう」
どことなく気恥ずかしく、心臓がどきどきとうるさかったが、少しうつむき、珊瑚はおとなしくされるままになっていた。
濡れた娘の髪を丁寧に拭き、法師は、その麗しい緑髪を手櫛で梳く。
と、娘はほんのりと紅潮した顔を上げ、法師を見上げた。
「法師さまも濡れてる。……髪」
「ああ、そうか」
自身の髪を束ねている元結いを無造作に解いた弥勒は、「はい」と袈裟を珊瑚に手渡した。
「え、なに?」
袈裟をまとわず、髪を下ろした彼はまるで別人のように見え、見慣れぬその姿に珊瑚はどぎまぎと言葉を返す。
けれど弥勒のほうは一向に構うことなく、
「拭いてくれないんですか?」
と、少し身をかがめて珊瑚に頭を差し出した。
「あ、は、はい」
疑問を持つ余裕すらなく、受け取った袈裟で言われるままに法師の髪を拭く珊瑚の手つきはたどたどしくて、必要以上に己を意識している娘の様子に、弥勒の口許に微笑が揺れた。
「さっ、拭けたよ」
頬を染め、眼を合わさずぎこちなく言う珊瑚から袈裟を受け取り、拭いてもらった髪をかきあげると、弥勒は濡れた袈裟をふわりと置いて、板の間に座った。
雲母はすでに丸くなって眼を閉じている。
「珊瑚、いつまでそんなところに突っ立っているんです。照れてないでこちらへおいでなさい」
「あたしはここでいい」
狭い小屋の中、さらに隅のほうに珊瑚は小さくなって腰を下ろす。
「つれませんな。こういうときは互いの体温で温めあうのが常套ですよ?」
ふと珊瑚は心配そうな表情を法師に向けた。
「法師さま、緇衣も濡れちゃったの?」
「いえ、濡れたのは袈裟だけですみました」
「じゃあ、温めあわなくたっていいじゃない」
赫い顔をふいっとそらす珊瑚を好ましく見つめながら、弥勒は小屋の外の雨風の音に耳をすませた。
「しばらくは動けそうにないな」
戸を固く締め、窓には雨戸もおろしているので、小屋の中は薄暗い。
珊瑚が所持していた蜜蝋に火を灯し、それで仄かな明かりを得た。
雨は時間の経過とともにどんどんひどくなっているようだ。
もはや嵐といっていいほどの激しさで、雨粒が、風が、小屋を外から脅かす。
雲母がいるものの、狭い空間に二人きりであることを意識して緊張している珊瑚の心をこれ以上かき乱さぬよう、胡坐をかいた弥勒は静かに眼を閉じた。
瞑想を――
しかし、脳裏に浮かぶのは渦巻く風。
耳をつくのは凄まじい風音。
胸がざわめく。
嵐の中に取り残された孤独。
隠り世を思わせる意識の中に響くのは、ただ、吹きすさぶ嵐の音だけ。
父を呑み込んだ風の音。
(いや、違う)
自らを呑み込む風の音。
(違う。これはおれ自身の迷いの音だ)
「法師さま」
はっと我に返ると、いつの間に寄ってきたのか、すぐそばに珊瑚がいた。
「……」
幽かな灯りのもと、眼と眼を見交わした一瞬が、気が遠くなるほどの永遠に感じた。
何も言わず、隣に座り、そっと心を寄り添わせようとする珊瑚のやさしさに浸りきってしまえば楽になれるのだろうか。
だが、弥勒は何でもないように、静かに言葉をつなごうとする。
「こんな嵐の音を聞いていると、この世に存在するのが私たち二人だけのような気がするな」
「二人? 法師さま、一人きりとか思ってない?」
「二人だ。おまえと二人」
「ならいい。世界に一人きりなんて、寂しすぎるもの」
遠慮がちに肩に頭をもたせかけてくる珊瑚におやと思いつつ、警戒を解いて甘えるような彼女の仕草を微笑ましく思う。
ふっと、耳から風の音が遠ざかり、またふっと近くなる。
「私は……何故、この世に生まれてきたのだろう」
思わずつぶやきが洩れた。
絶えず風の音に怯えながら、じわじわと風に侵食され、最後には風に呑み込まれる。
じっと自分を見つめる強い視線を感じ、弥勒はさりげなくその視線を見つめ返した。
「すまん。たいした意味はない。生とは不思議なものだと、時々思うだけだ」
「法師さまが生まれてきてくれて、あたしは嬉しいよ」
出逢うことができたのだから。
こうして一緒にいることに生を享けた意味を見いだしたいと思う。それでは駄目なのだろうか。
「あたしはさ、法師さま。一度死んでるんだ。……話したっけ?」
「いや」
抑揚のない瞳で弥勒が珊瑚を見つめると、娘は控えめな笑みを見せた。
「あたしの里が滅ぼされたとき、あたしや父上や琥珀が、奈落の罠で城に出向いていたことは知ってるよね」
「ああ」
「そのとき、父上たちと一緒に襲われて――死んだと思われて、あたしも土に埋められたんだ」
一瞬、弥勒は息がつまる思いがした。
「生き埋めにされたということか?」
珊瑚は小さくうなずいた。
「あたしの背中には、そのとき受けた傷があるの」
誰にとは言わない。
弥勒は、立てた両膝を抱えて座っている珊瑚の、その背に流れる美しい髪に眼をやった。
「あたしが一度死んだ印。あの日、あたしを取り巻く世界が全て違うものになった。でもね、法師さま」
痛ましい話を淡々と語りながら、珊瑚は法師に微笑んでみせる。
「あたし、生きててよかった」
小屋の外を吹きすさぶ嵐が、記憶の彼方の、父を呑み込んだ風の音に重なる。
「生まれたことに意味のない生命なんてこの世にはない。それは、法師さまがあたしに教えてくれたこと。琥珀のことで苦しんでいるあたしを、法師さまは救ってくれた」
嵐に包まれた二人だけの世界。
それは、泣きたくなるほど甘美なもので。
「法師さま」
「うん?」
「もう、一人で泣かないで……」
「泣いてなどいませんよ、珊瑚」
珊瑚は彼の肩に額を押し付け、首を横に振った。
「――泣いてる。声を出さず、涙も見せず」
弥勒の心が大きな音を立てた。
この可憐な娘に心臓を鷲掴みにされた気がした。
「法師さま、泣くときはあたしの前で泣いて」
ぽつりと珊瑚が言った。
「泣けないのは苦しい。無理してでも泣いたほうがいい。かごめちゃんがあたしに泣くことを許してくれたように、あたしが法師さまを泣かせてあげる」
泣いているのは珊瑚のほうではないのか。
弥勒の苦しみに涙し、どうすれば彼の苦痛を分かち合えるのかと、答えを探し続けている。
沈黙を続ける法師の右腕を取り、珊瑚は手甲に包まれたその手の指先に唇を寄せた。
「……おまえの傷に、触れてもいいか?」
ぴくりと珊瑚は震えたが、応えはすぐに返ってきた。
「いいよ」
弥勒に背を向け、おろした髪を右の肩から前へ流す。
ほどなく掌で背中をなぞるような感覚が訪れ、珊瑚は羞恥を覚えたが、それに耐え、じっとしていた。
ただ撫でているだけなのに、弥勒の触れ方は、まるで彼女の心の奥底に眠る何かを呼び覚まそうとしているようで、珊瑚の鼓動を速くする。
やがて、その手が肩まで辿り着いたかと思うと、耳元に男の吐息がかかった。
「できれば、じかに触れたい」
「……っ!」
いつの間にか背後から抱きしめられていた。
動転した珊瑚は耳を熱くし、硬直するばかりだ。
じかに傷を見せるということは、少なくとも上半身は衣を脱がなくてはならないわけで──
動くこともできずに困惑していると、やがてくすくすと忍び笑いが洩れてきた。
「何も、今すぐでなくていいんですよ?」
おそるおそる振り返ると、悪戯っぽい光を宿した弥勒の瞳が珊瑚を見ていた。
「いつか、自然にそういう関係になったとき、おまえの傷に口づけたいと思う」
「法師さま……」
「おまえが、私の右手に口づけてくれるように」
珊瑚の右手を取り、先刻、彼女がしたように、弥勒はその指先に唇を触れさせた。
「もちろん、私は今すぐでも全然構いませんが」
「馬鹿」
苦しげだった彼の表情がいつもの穏やかさを取り戻したのを見て、珊瑚はほっと吐息を洩らし、自分を抱く法師の腕から抜け出した。
「とにかく、法師さまはいつでも泣いていいんだからね?」
「ああ、解った。おまえも、泣きたいときは私のところへ来なさい」
「……うん」
はにかんだように、けれど少し嬉しさを含んだ表情で、珊瑚は小さくうなずいた。
「で、そのときはおまえの胸で泣いていいのか?」
「へっ?」
頓狂な声を上げて、珊瑚は思わず弥勒を見た。
法師もじっと珊瑚を見つめている。
「……」
「……」
しばし見つめあったあと、珊瑚はおもむろに弥勒に背を向けた。
「せ、背中貸すから。あたしの背中で泣いていいよ」
薄闇でもそれと判る朱に染まった珊瑚の耳を見て、弥勒は噴き出した。
「なっ、何よ! 人がせっかく!」
「いや、珊瑚。ありがたいが、それでは絵にならんので遠慮しておく」
「男が女の胸で泣くのだって、絵にならないだろ!」
「そっちなら大歓迎です」
くすくす笑う弥勒を前にし、何となく引っ込みがつかない珊瑚はきまり悪げにそっぽを向こうとしたが、そうするより早く、再び弥勒に抱き寄せられた。
「珊瑚。おまえは最高にいい女だな」
「なに言って……!」
どう頑張ったところで、結局、いつも自分が弥勒に翻弄されてしまう。
けれど、彼の心が風音に連れ去られるのを見ているよりはずっと――
珊瑚は小屋の外を取り巻く嵐に耳をすませた。
先ほどと変わることなく、外では激しい雨風が吹き荒れている。
でも、ここにいる弥勒の表情は穏やかだ。
(どんな嵐が来ても負けない。一緒に生きようね、法師さま)
蜜蝋に灯した火が揺れている。
弥勒の腕に身を委ね、珊瑚はそっと瞼を閉じた。
〔了〕
2009.2.19.