時の踊り
珊瑚の朝は早い。
一家の主婦として、かまどに火を熾し、夫と自分と三人の子供たちの朝餉を用意するのが彼女の役目だ。
寝床から上体を起こし、小さく欠伸を洩らすと、傍らに眠っていた弥勒が妻に手を伸ばした。
「おはよう、珊瑚」
「おはよう、弥勒さま」
眠気よりも愛しさが勝り、珊瑚は小さく微笑んだ。
「もう少し寝てていいよ。まだ早いから」
「私も手伝おう。おまえだけ働かせるわけにはいかん」
「そんなのいいよ。朝餉の支度はあたしの仕事だもの。その代わり、子供たちが眼を覚ましたらお願い」
「ああ。解った」
軽く口づけを交わし、二人は自分たちの寝床の隣に敷かれた夜具にすやすやと眠る三人の子供たちを眺めた。
みな、よく眠っている。
だが、ひとたび眼が覚めると、それはそれは賑やかになるのだ。
珊瑚の昼は楽しい。
弥勒が仕事に出ているうちに、やることが山ほどある。
掃除や洗濯、そして、薬草から薬を作る。
村の人たちに必要なひと通りの薬は楓が作っているので、珊瑚はそれらのものとは異なる、妖怪退治屋ならではの対妖怪用の薬を主に作る。
害虫駆除に応用できるものもあるし、強い毒を持った生き物に噛まれたときの毒消しなどもある。
個人で妖怪退治を請け負うことは、決して安定した生業とはいえないので、こうして薬を作って売ることが副業にもなるのだ。
子供たちは薬草の匂いが好きだった。
薬研で薬草をすりつぶす珊瑚の傍らで、指示された通りに薬草を仕分けていく。
楽しそうに仕事をする母の手伝いをすることが、子供たちには誇りであり、大好きな母が喜んでくれるのが何より嬉しかった。
「これは虫除けになるから、父上に持っててもらおうね」
乾燥させた薬草を目の粗い小さな巾着の中に包み、珊瑚は三人に渡した。
「父上が帰ってきたら、これを渡して。今持っている虫除けはそろそろ駄目になる頃だから」
「はあい」
「それから、これがおまえたちの分」
虫や妖怪が嫌うにおいを──犬夜叉や七宝には害のないように調合して──混ぜたものを、同じように巾着に入れて子供たちに手渡した。
「ありがとう、母上」
「新しい匂いがする。ありがとう」
「ありがとー」
三人は口々に礼を言った。
「今日はこれくらいでいいよ。みんな、遊んでおいで」
「はぁい!」
新しい匂いを身にまとった子供たちが歓声を上げて元気よく外へ飛び出していくのを、珊瑚は満足げに、にっこりと見送った。
珊瑚の夕方は忙しい。
夕餉の支度に追われながら、子供たちの話を聞く。
この時刻までに弥勒が帰宅していれば、彼はたいてい夕餉の支度を手伝ってくれるが、今日はまだ帰っていない。
子供たちはそれぞれが、その日あったことを全部残らず話そうとするので、珊瑚は台所で火加減を見ながら、三つの声を聞き分けなければならなかった。
「ただいま帰りました」
玄関のほうで声がした。
「父上だ!」
子供たちはぱっと顔を輝かせて、ぱたぱたとそちらへ走っていく。
すぐに彼は、足を拭うための水を取りにここへやってくるだろう。
「ただいま、珊瑚」
予想通り、三人の子供たちにまとわりつかれながら、弥勒が台所へやってきた。珊瑚の胸に愛しさが満ちる。
「おかえりなさい、弥勒さま。手拭いと水はここだよ」
「ありがとう。それから、これも」
子供たちから受け取ったのだろう、虫除けの小さな巾着をかかげ、弥勒は妻に微笑んだ。
錫杖を置いて、土間に置かれた盥の水で埃っぽくなった足を洗い、ほっと息をついた彼を取り巻くようにして、子供たちが声を上げた。
「父上ー、あのね、今日ね」
「話は順番に。夕餉の席で一人ずつ聞きますから、誰が何を話すのか相談してきなさい」
うまく子供たちをあしらう彼に、さすが弥勒さまと珊瑚が微笑んだのも束の間、
「聞いてくださいよ、珊瑚。今日、妖怪退治に出向いた屋敷でのことなんですが」
何のことはない、自分が珊瑚に話を聞いてもらいたかっただけだ。
珊瑚はくすくす笑い出した。
珊瑚の夜は悩ましい。
夕餉の後片付けをして、子供たちの寝床を用意してから、弥勒のために酒の用意をした。
今夜は月が美しい。
濡れ縁にいる彼のもとへ酒器を運んでいくと、待ちかねたように伸ばされた彼の手が珊瑚の頬を撫でた。
「やっと二人きりになれたな」
「……弥勒さま」
珊瑚がそこへ腰を下ろすと、ゆっくりと弥勒の腕が彼女を抱き寄せ──
「母上ー」
ようとしたのだが、奥から聞こえてきた可愛らしい声に手を引っ込めた。
「弥勒さま、子供たちを寝かしつけてくれたんじゃなかったの?」
「いえ、そのはずだったんですが」
双子の娘とその弟は、とうてい寝かしつけられたとは思えないぱっちりと開いた瞳で、遠慮気味に母の腕を取った。
「母上、もうご用事終わった?」
「昨日のお話の続き、して」
「父上、母上を取っちゃ駄目」
珊瑚を待っていたのは弥勒だけではなかったようだ。
「駄目ですよ。おまえたちはもう寝る時間なんですから。母上は、父上と大事な話があるんです」
「お酒飲むのが大事なことなの?」
普通に突っ込まれて、弥勒は黙然とした。
「父上は昨日から母上と酒を呑む約束をしてたんです。約束は守るものでしょう?」
「じゃあ、父上も一緒に母上のお話聞きながらお酒飲めばいいよ」
「お話聞きながら寝るの。ね、母上、昨日の続き。妖怪退治のお話」
弥勒は大袈裟にため息をつく。
「今宵は珊瑚と朝までと、そう思っていたのに」
「しょうがないよ」
結局、根負けして、珊瑚は子供たちを寝かしつけるために、三人を寝床に横たわらせ、衾を掛けてやり、密やかに語り出す。
まだ退治屋の里が在りし頃、遭遇した妖怪の話を。
やがて、規則正しい三つの寝息が聞こえてきて、珊瑚は背後の弥勒を振り向いた。
「三人とも、寝たみたい」
「ああ」
珊瑚が語る話を聞きながら、所在なげに手酌で酒を呑んでいた弥勒は、手にしていた盃を置き、腕を広げた。
「おいで」
夫のほうへにじり寄り、珊瑚は彼の腕に身を委ねる。
躍るような毎日。踊るような時間。
弥勒と作る幸せな日々は、かけがえのない、珊瑚の宝となる。
〔了〕
2012.3.24.