朝から降っていた小雨はいつの間にかやんでいた。
夕餉の支度をほぼ終えた珊瑚は、本堂にいるはずの子供たちの様子を見に庫裏を出た。
ここは、夢心の寺である。
トロイメライ
弥勒の里帰りに同行して、妻の珊瑚と三人の子供たち・弥弥と珠珠と翡翠も夢心の寺に遊びに来ている。
いつもなら周囲の山を両親と散策したり、境内を走り廻ったりしている子供たちだったが、この日は雨のせいで一日中外に出られなかった。
そこで、三人が目をつけたのが本堂だ。
「ここで遊んでいい?」
「ああ、構わんよ」
夢心和尚は二つ返事で快諾したが、傍らでそれを聞いていた珊瑚が慌ててとめた。
「駄目、おまえたち。本堂には御本尊が祀られているんだよ。そんなところで走ったり騒いだりしたら、仏様がびっくりするだろう?」
「だって……」
双子はそっと視線を交わした。
「かくれんぼするのにちょうどいいんだもん」
「駄目。外が雨でも、父上か、和尚様が、きっと面白い話を聞かせてくれるよ」
ね? と同意を求めるように珊瑚は弥勒を振り返ったが、弥勒は困ったように苦笑している。
「言っていませんでしたっけ? 今から夢心さまと呑むんですよ」
よく見ると、弥勒も夢心も大きな徳利をかかえていた。
この師弟は昼間から腰を落ち着けて呑むつもりらしい。
呆れたような視線で珊瑚が夫を見遣ると、彼は妻をなだめるように邪気のない笑顔を作った。
「あ、よかったら珊瑚も一緒にどうです?」
「あたしには夕餉の支度という大任があるの。弥勒さまが夕餉を作ってくれるなら、あたしが夢心さまのお相手をするけど」
「わしはそのほうがいいがのう」
のほほんとした夢心の合いの手に顔をしかめ、弥勒はおもむろに小さく咳払いをひとつ。
「珊瑚に酔っ払いの相手などさせられません」
そして、その場に膝をついて、視線を子供たちの目の高さに合わせた。
「では、弥弥、珠珠、翡翠。修行を体験してみませんか?」
「修行?」
「三人とも、修行をしてみたいって言ってたでしょう? 父上も、おまえたちよりもう少し大きかったが、子供の頃、やりましたよ。仏様にありがとうの気持ちを込めて、本堂の床をきれいにするんです」
「……」
子供たちは広い広い本堂の床を無言で眺めた。
母上のお手伝いをするのは大好きだが、この本堂はちょっと広すぎるのではないだろうか。
成り行きを見守っていた珊瑚が呆れたように夢心和尚と顔を見合わせた。
「弥勒さま、いくらなんでも、それはちょっと無理があるんじゃ……」
仏像を傷めたり、仏具をひっくり返したりという惨事をも想像して、珊瑚は声をひそめる。
彼女の懸念を察したように弥勒は軽く笑った。
「せっかく寺にいるんですから、修行っぽいことを体験するのもいいでしょう」
彼は背の高い燭台を四本運び、それを配置して、四角く場所を区切った。
「この蝋燭立てで囲んだ床をきれいに磨いてください。これならできるでしょう?」
子供たちは頭の中で素早く床の面積を人数で割ってみる。
「うん、できる」
「頑張る」
「一生懸命掃除をすると、夢心さまも仏様も喜びますよ」
「ハチも喜ぶ?」
小さな翡翠が瞳をきらきらさせて問うた。
「どうでしょうな。でも、きっとハチだって翡翠を褒めてくれますよ」
父の大きな手に頭を撫でられ、翡翠はにっこりと笑みを浮かべた。
* * *
あれから一刻ほどが経つ。
子供たちの様子を見に来た珊瑚は、燭台で囲われた床が、そこだけぴかぴかになっているのを見た。
しとしと降っていた小雨はやみ、外は涼しい風が吹き始めている。
弥弥と珠珠と翡翠は、雑巾を握りしめたまま、きれいになった床の上に、仔犬のように寄り添ってすやすやと寝息を立てていた。
「頑張ったね、弥弥も珠珠も翡翠も」
珊瑚はやさしく微笑みながら、三人の手から雑巾を取って、傍らに置かれた桶の中に入れた。
そして、自分たちにあてがわれた部屋へ戻って衾を取り出し、再び本堂へ引き返してきた。
手にした衾を、三人の子供たちに掛けてやる。
刹那、子供たちが幸せそうに、ふんわりと微笑んだ。
どんな夢を見ているのだろう。
珊瑚は自らも子供たちの横に身を横たえ、眼を閉じてみた。
眼を閉じると、ふっと心が翅のように軽くなった気がした。
少しだけ、その心地好さに身を委ねようか。
それからさらに四半刻ほどが過ぎた。
子供たちの様子を見に来た弥勒は、燭台で囲われた中、すっかりきれいになった床の上に、三人の子供たちと妻の珊瑚が、寄り添うようにして眠っているのを見た。
「珊瑚まで。……疲れていたんだな」
微笑ましそうにくすりと笑い、弥勒は手に持っていた籠を床に置いた。
籠には柿が盛られている。
雨がやんでから、寺に顔を出した八衛門狸とともに、子供たちを喜ばせようと裏山の柿の木から採ってきたものだ。
衾にくるまって心地好さそうな子供たちに寄り添う珊瑚に近づくと、自分の袈裟を解き、弥勒はそれを彼女の身体に掛けた。
「風邪をひきますよ、珊瑚」
愛しそうに手を伸ばして、彼女の額髪を払う。
そして、身をかがめて頬に軽く口づけた。
「さて。私もまぜてくださいね」
小さな弟を真ん中に、その両側に双子が、身をくっつけるようにして眠っている。
双子の片方の背後に珊瑚が身を寄せているので、弥勒は反対側の、もう片方の娘の後ろに身を横たえた。
雛を守る親鳥のように。
すやすやと寝息を立てる愛らしい子供たちと愛しい妻の顔を見ているうちに、彼自身も眠たくなってきた。
快い睡魔に身を委ね、そっと眼を閉じる。
もうすぐしたら、夢心かハチが、夕餉を待ちかねて様子を見に来るだろう。
それまで少しだけ、親子水入らずで微睡んでいようと思った。
〔了〕
2011.10.14.