その日、かごめちゃんは実家に帰っていていなくて。
 もちろん犬夜叉も一緒に行ってしまったからここにはいなくて。
 あたしは七宝と雲母と法師さまと、ある大きな村の宿屋に泊まっていた。
 連日の闘いや、琥珀のこと。
 たぶん、あたしは精神的にかなりまいっていたんだと思う。
 その夜、ひどい夢を見た。

別れのワルツ

 深夜。
 宿の一部屋に衝立を挟んで二つの夜具を延べ、弥勒と珊瑚はそれぞれ床に就いていた。
 七宝と雲母は珊瑚の両側に、彼女に寄り添うようにしてすやすやと寝息をたてている。
 そんな静かな闇の中を動く微かな気配があった。
 微かすぎて、異変があればいつでも臨戦態勢に入れる珊瑚も、その気配に眼を覚ますことはない。
 彼女がそれに気づかなかったのは、その気配が敵意や殺意を含んだものではなかったことも理由のひとつだろう。
 影のような気配は、闇の中、眠る珊瑚の傍らに静かに膝をついた。
「珊瑚」
 小さな猫又が顔を上げて、赤い瞳で声の主を見た。
「雲母。すまないが、少しだけ場所をかわってくれ」
 猫又の頭を撫で、ささやくような声で弥勒が言う。
 雲母が少し場を移動すると、弥勒は夜具の中から珊瑚の手を取り出し、握りしめた。
「珊瑚。こんなひどい男のことなど、許してくれなくていい」
 片手で珊瑚の手を握りしめたまま、もう片方の手で、弥勒はそっと薄闇に浮かぶ珊瑚の仄白い頬を撫でた。
「憎んでもらって構わない。むしろ憎んでくれ。どんな形であれ、おまえに私を忘れてほしくないというのが本音だ」
 伏せられた長い睫毛。
 やさしい頬の輪郭に、蕾のような小さな唇。
 それら全てを瞳に焼き付けようと、弥勒は娘の美しい顔をじっと見つめながらささやいた。
「ずるいな、私は。おまえの幸せを心から願っているのに、忘れてほしくないと思う。他の男と所帯を持つおまえなど、想像したくない」
 弥勒はそっと身をかがめ、娘の額に口づけた。
 そして、艶やかな髪を撫でながら、両の瞼に唇を落とす。
 彼女を起こさぬよう、細心の注意を払い、彼は唇で娘の顔を辿る。
 彼女の顔立ちを確かめるように、額から眉、瞼、鼻筋に口づけ、頬から顎へと唇を滑らせた。
 最後にその唇へ唇を重ねようとして、ふと、彼は動きを止めた。
「……おまえに口づける資格など、私にはないな」
 自嘲気味につぶやくと、唇に口づける代わりに握っていた手の甲へ、弥勒は己の唇を触れさせた。
 み、と小さく猫又が鳴くと、そちらへ視線を向けて、穏やかに微笑む。
「雲母。珊瑚を頼む。私はもう行くが、犬夜叉たちにもよろしくな」
 それだけを雲母に告げると、弥勒は錫杖を手に、立ち上がった。

 不吉な胸騒ぎに襲われて、珊瑚は突然眼を覚ました。
「法師、さま……?」
 傍らには七宝が眠っている。
 小さな妖狐に夜具を掛け直してやり、珊瑚は自分と法師とを隔てている衝立へ何気なく眼を向けた。
 そして、雲母の姿が見えないことに気づく。
「雲母」
 呼ぶと、忠実な猫又は、すぐに衝立の向こうから姿を現した。
「なんだ、法師さまと一緒に寝てたのか」
 やや安堵したように珊瑚が低く声をかけると、雲母はとことこと襖に近寄り、そこを開けろというように襖を引っかくような仕草を見せた。
「何? どうしたの?」
 再び暗雲のように立ち込める不安に駆られ、珊瑚は立ち上がって襖を開ける。
「……!」
 そのとき、彼女の眼に、衝立の向こうにきちんと畳まれた夜具が映った。
 ──法師の姿はなかった。

 理由は判らない。
 しかし、雲母の様子から弥勒が出て行ったことを悟った珊瑚は、裸足のまま宿を飛び出した。
「法師さま!」
 夜の闇に包まれた村の中を闇雲に走り廻り、黒い法衣姿を捜す。
「法師さま、どこ? 返事をして!」
 夜風が強く吹いた。
 広い村内を駆け巡り、やっと、村を出て行こうとしている黒い人影を発見した。
「法師さま!」
 悲痛な珊瑚の叫びに、背を向けたまま、ぴくりと身を震わせた弥勒が足を止めた。
「なんで! どうして? どうして、黙ってどこかへ行こうとするの?」
 そのまま動かない──動けない弥勒に駆け寄った珊瑚が彼の法衣の袖にしがみつくと、冷たい夜風が裸足の珊瑚の身に沁みた。
「法師さま」
「……」
「何とか言ってよ。一人で、こんな夜中にどこ行くつもりだったの」
 珊瑚に背を向け、うつむいたままひと言も発しない弥勒に業を煮やした珊瑚が両手で掴んだ彼の右腕をぐいと引くと、風の音が強くなった気がした。
 珊瑚ははっとした。
──風……」
 夜風だと思っていた風の発生源は弥勒の右手だった。
「そろそろ限界らしい」
「ほう、し……さま──
 珊瑚の眼が恐怖に見開かれる。
「おまえや七宝や、この村の人々を巻き込むわけにはいかん。ここで別れよう」
「いや……嫌だ」
 しばし瞑目したあと、弥勒は、己の腕を放さない珊瑚を振り向いた。
 驚くほど穏やかな表情だった。
「犬夜叉やかごめさまや七宝に、ありがとうと伝えてくれ」
「駄目だ! 一人で消えるなんて許さない。犬夜叉たちに言いたいことがあるなら自分で伝えなよ!」
 しかし、そんな短いやり取りの間にも、徐々に風の音が大きくなっていくのが珊瑚の耳にもはっきりと感じられた。
「珊瑚、聴こえるだろう? そろそろ危ない。私から離れなさい」
「嫌だ! もし、どうしてもっていうんなら、あたしも法師さまと一緒に行く!」
「珊瑚」
 その漆黒の瞳は不思議な色を宿していた。
 穏やかで、哀しげで、これほど深く、透明な眼をした法師を珊瑚は見たことがない。
「おまえに見苦しい姿は見せたくない。せめて、おまえの思い出の中で生きていたいと願うのは、私のわがままか……?」
 唇を噛み締める珊瑚の、彼を魅了してやまない、いつも意思の強い光を放つ瞳が涙に濡れて、揺れている。
「それに、おまえは、生きて、誰よりも幸せになるべきだ。私一人のために、おまえの未来を奪うことなどできん。解ってくれ」
「解らない! あたしのことを少しでも想ってくれてるなら、一緒に連れてって!」
「珊瑚!」
 弥勒の拳が不意に珊瑚の鳩尾を一撃し、思わぬ攻撃に小さく呻いた珊瑚はその場にくずおれた。
「すまない、珊瑚。しかし、こうでもしなければ、おまえは私を追うだろう?」
「ほ……し、さ……ま」
 彼の右手からはっきりと聴こえてくる風の音が、珊瑚を絶望に突き落とす。
「ほ……しさ、待っ……」
 珊瑚は痛みに思うように声が出せず、自力で起き上がることもできなかった。
 そんな彼女に無情にも背を向け、弥勒は歩き出す。
(嘘だ。こんなの、嘘だ。これが最期だなんて、あたしは信じない!)
 次第に遠ざかる弥勒を中心に、円を描くように風が渦巻くのがはっきりと見えた。
(法師さま──行かないで。あたしを置いて、逝かないで──
 去っていく弥勒の背を、ただ黙って見つめているしかないなんて。──残酷すぎる。
 声なき声で叫ぶ珊瑚の頬を、とめどなく涙が流れた。

「珊瑚……珊瑚……!」
 自分を呼ぶ声にはっと眼を開けると、薄暗い天井が見えた。
 宿屋の一室で、珊瑚は眼を覚ました。
 横たわる自分の頬を雲母が心配そうに舐めている。
 去っていったはずの恋しい人が、不安げな顔をして自分を覗き込んでいることに気づき、新たな涙があふれ出た。
「……法師さま──
 珊瑚が眼を覚ましたことを確認すると、弥勒は七宝を抱き上げ、衝立の向こうの自分の夜具に彼をそっと寝かせた。
「雲母。すまんが、珊瑚は私に任せて、七宝と一緒に寝てやってはくれぬか?」
 小さく鳴いて応えた雲母が衝立の向こうに消えると、弥勒は珊瑚の傍らに腰を下ろした。
「大丈夫か?」
「……ううん」
「夢を見たのだな。琥珀の夢か? ……それとも、父上や退治屋の仲間たちの?」
 珊瑚は答えず、無言で弥勒の右腕を取ると、その掌に耳を押し当てた。
「……」
 夢の中で聴いたような凄まじい風音は聴こえない。
 微かに安堵の吐息をつく珊瑚の様子を見て、弥勒は、彼女がどのような悪夢を見ていたのか、大方のところを察したようだった。
「法師さま。どこへも行かないでね」
「珊瑚……」
「約束して。あたしを置いて、どこかへ行ったりしないって」
 あとからあとからこぼれる雫が、珊瑚の頬を濡らす。
 小さく嗚咽を洩らす珊瑚を抱き起こし、弥勒はその身体をしっかりと抱きしめた。
 珊瑚の恐怖が己の風穴である以上、絶対に大丈夫だなどと言えるはずもなかった。万が一の場合、自分は、おそらく珊瑚が恐れている方法を取るだろう。
 口先だけの気休めで、珊瑚の不安や恐怖が拭い去れるとは思えない。
 だから、弥勒は今の彼に言える事実だけを口にする。
「珊瑚、これだけははっきりと言える。私が生涯、出会った人間の中で、おまえほど愛しい、おまえほど大切なおなごはいない」
「生涯なんて、もうすぐ死ぬみたいな言い方しないで!」
 涙が飛び散るほど激しく首を振り、珊瑚は叫んだ。
「どこにも行かないで。あたしを一人にしないで」
 泣き崩れる珊瑚を無言で抱きしめ、弥勒はその頬に心をこめて口づけた。
「それでも、もし……どうしても間に合わなかったなら──
 珊瑚はぎゅっと法師の衣を掴む。
「そのときはあたしも一緒に。約束してよ」
「珊瑚──
「ともに生きようって、言ってくれたじゃないか!」
 濡れた瞳を見ているのがつらかった。
 弥勒は珊瑚の髪を撫で、彼女の頭を抱え込む。
「思いきり泣きなさい。全ての感情を、一度、外に出したほうがいい」
「法師さまはずるい。何も、答えてはくれないんだ」
 しゃくりあげながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ珊瑚に、弥勒は何も言えなかった。
 珊瑚を欺くような言葉は持ち合わせていない。
「泣いて、不安を吐き出して、もう一度眠りなさい。朝までおまえのそばにいます。またうなされそうになったら、すぐに起こしてあげますから」
「嫌い。やさしい法師さまなんて、嫌いだ」
「私は、おまえが好きだ。この世の誰よりも。何よりも──
 彼にすがって泣き続ける珊瑚を、ただ、抱きしめることしかできなかった。
 愛しい娘の不安を取りのぞいてやることすらできない自分の不甲斐なさがやるせなく、弥勒は、唇を引き結び、華奢な肢体を掻き抱く。

 彼女を悲しませた罪は、贖えるものならいくらでも贖おう。
 生命ある限り、彼女の全てを受け止める覚悟がある。
 だが、もしも風穴の限界が訪れたら──
 そのとき、珊瑚にどう償えばよい──

 切なさに固く眼を閉じ、己の胸に顔を埋めて泣きじゃくる珊瑚の耳元に唇を寄せ、愛している、と掠れた声でつぶやいた。

〔了〕

2007.11.8.

「別れのワルツ」 ショパン