珊瑚。
おまえが見る夢も、私と同じだろうか。
夢心さまの寺か、おまえの里か、楓さまの村──どこか知らない土地でもいい。
おまえと二人、なにものにも縛られることなく、夫婦として暮らす。
そんな穏やかで平和な日々を、望んでいる。
夢
今宵は野宿だった。
山中のやや開けた場所に夜営を張り、熾した火を取り巻くようにして、四人と一匹が眠っている。
先ほど、犬夜叉と火の番を交代した弥勒のみが、起きて、時折炎に枯れ枝をくべていた。
細い月は雲に隠れている。
闇色の雲が風に流れていくさまを茫洋と眺めていた弥勒は、焚火の周囲に眠る仲間たちに、ふと、眼を向けた。
座ったまま、鉄砕牙を抱え、腕を組んで眼を閉じている犬夜叉。
本当に眠っているのかどうかは定かではないが、どちらにせよ、何かが起こればすぐに身を起こし、行動に移れる体勢だ。
寝袋に包まり、寄り添うようにして眠るかごめと七宝。
すやすやと規則正しい寝息を立てる姿はなんとも微笑ましい。
そして、火の向こう側。
正面には、珊瑚が片手で雲母を抱き、片手を手枕にして眠っていた。
弥勒は、ふっと微笑んだ。
──珊瑚、いま、おまえはどんな夢を見ている?
おまえの見ている夢は、私と同じものだろうか──
そのとき、揺れる炎の向こうで応えるように、珊瑚の顔が微笑んだのを、弥勒は見た。
いま、なにを笑った……?
ちらと犬夜叉に視線を向けてから、弥勒はそろりと立ち上がる。
気配を殺し、そっと珊瑚の前まで移動すると、その場に膝をついた。
(し……)
焚火によって生じた影に気づいた雲母が赤い眼を開けて法師を見上げてきたが、彼が人差し指を口に当てると、するりと珊瑚の腕から抜け出して、彼女の背後へ廻った。
そして、主に背をくっつけるようにして丸まると、眼を閉じた。
雲母に気を遣わせてしまったことに苦笑しつつ、弥勒は改めて珊瑚の寝顔を見下ろした。
小さく寝息を立てる彼女は、やはり穏やかな微笑を漂わせている。
このところ、うなされていることのほうが多かったから、このように穏やかな眠りに身を委ねる珊瑚を見るのは嬉しいことだった。
しかし。
(おまえの夢に、私はいるか……?)
その微笑みがあまりにもやさしく、あまりにも幸せに満ちていたので、法師は、いま彼女を支配しているであろう夢の内容が気になって仕方がない。
さっきまで雲母を抱いていた彼女の片手を、そっと握ってみる。
そこから、彼女の夢に入り込まんとするかのように──
刹那、朱を乗せた瞼がふわりと開かれた。
弥勒ははっとしたが、珊瑚はまだ、夢と現のはざまで微睡んでいる。
その無意識の微睡みの中で、珊瑚は法師を見、その美貌に花が綻ぶような笑みを浮かべた。
──ねえ、法師さま。聞いて。
琥珀が、退治屋の里を再興したんだよ。
生命が助かったってだけでも奇跡なのに、あの子が、あの琥珀が、里を再興してくれるなんて、夢みたいだ。
もちろん、里に住む退治屋の卵は数人だし、まだもとの里の姿には程遠いけど、少しずつ、これから自分たちの手で新しい里の形を作り上げていくんだ。
ねえ、法師さま。
奈落を倒して、法師さまの風穴がなくなって、法師さまはあたしとの約束を守ってくれて。
法師さまと……その、夫婦になれただけでも信じられないくらい幸せなのに。
ねえ、法師さま。聞いてる?──
息を呑むような美しい笑顔を見せられ、法師は思わず珊瑚の手を握っていた己の手に力を込めた。
その不意打ちに眩暈すら覚える。
「……で、ね?……」
吐息のようなつぶやきが珊瑚の唇から洩れた。
未だ夢の余韻に浸っているであろう珊瑚は、一旦眼を閉じ、再び焦点の合わぬ瞳を法師に向けた。
その幸せそうな微笑みに、柄にもなく胸が高鳴る。
「珊瑚……」
甘くささやき返したとき、珊瑚の口からこぼれた名は。
「……琥、珀──」
その瞬間、法師の甘い幻想は砕けた。
弥勒の手が、ぺし、と珊瑚の額を軽くはたく。
その刺激で珊瑚は覚醒した。
眼が覚めた珊瑚は、今度こそはっきりと眼を開けて法師を見上げ、眠そうにあやふやにまばたきを繰り返している。
「……ん?──法師さま……?」
弥勒の姿を認めたものの、覚醒したばかりでぼんやりとした表情のまま。
「眼が覚めましたか?」
弥勒は微笑を浮かべてはいるが、眼が笑っていない。
「どんな夢を見てたんです?」
「どうしたの……?」
珊瑚はわけが解らず、訝しげに法師を見遣る。
夢?
とても幸せな夢を見ていた気がするが、内容までは覚えていない。
けだるげに身を起こしながら眉をひそめ、首をひねる珊瑚を貼り付いた笑顔のまま眺めていた弥勒は、彼女の腕を取ると己のほうへ引き寄せた。
「きゃっ」
彼の腕の中へ倒れ込む形になった珊瑚が抗議の声を上げた。
「法師さま? わざわざ夜中に起こして、なんなのさ」
「もう一度、よい夢が見られるよう、私が添い寝してあげましょう」
「ちょっ、ちょっと待って!」
慌てた珊瑚は周囲を見廻した。
犬夜叉もかごめも七宝も、何事もなく眠っている。──ように見えるが。
「やだっ、誰かに見られたらどうすんのさ!」
「別にどうもしなくてよろしい」
「絶対にいやっ!」
そんな恥ずかしい体勢で眠れるかっ!と珊瑚は仲間たちを起こさないよう声を落として拒否するが、今夜に限って、弥勒はどうしても引き下がろうとはしなかった。
「あー、もう、解りました! では間を取って膝枕ということで」
「何と何の間だ!」
必死の抵抗もむなしく、弥勒に引きずられ、樹の根元に寄り掛かった彼の膝に、珊瑚は強引に頭を乗せさせられる破目になった。
なおも文句を言おうと上を向くと、焚火の炎に木の枝を投げ入れる弥勒の顔が眼に映った。
「……法師さま? もしかして、怒ってる──?」
怒っているというよりは、拗ねているような……?
すでに笑顔は消し去られている。
憮然たる表情で枯れ枝を折る弥勒が、まるで拗ねてむくれた子供のように見え、珊瑚は羞恥も忘れて唖然とした。
「いいから寝なさい」
表情を見られることを厭ったのか、法師の片手によって珊瑚の視界はふさがれた。
「法師さま……?」
ぱちぱちと火の爆ぜる音が聞こえる。
「おまえが私の名を呼んでくれないからです」
ぼそっとつぶやかれた法師の言葉は、はたして珊瑚に届いたかどうか──
〔了〕
2007.6.23.